「もう無理っ!」
ドンッと分厚いグラスジョッキの底が居酒屋の安いテーブルとぶつかった。が、彼女は気にしていないようだ。そんなこと気にしている余裕はないらしい。
「ほんっとどうにかして、あのひとっ!」
酒の席とはいえ、普段は楚々とした彼女がこんなに荒れているのは珍しかった。よほどのことがあったのだと想像に容易い。
「こんなこと言いたくないけど、言いたくないけど、仕事ができなさすぎる!」
彼女の周りの様子からその主張に正当性があることが窺える。うん、うん、と頷いている人間は一人、二人ではなかった。
話の前後から察するに、あのひと──というのは今月から入った中途採用の男のことらしい。二十半ばで転職三回。それが知れ渡るころには、それを裏付けるエピソードが社内の至るところで勃発していたようだ。何度教えても書式の違う書類を提出したり、メールの宛先を間違えたりと初歩的なものから、よく確かめもしないで請負、見積書の段階で大揉めなんて大トラブルも引き起こしていた。その間、本人はずっとヘラヘラした調子で、周りはもう叱ることは早々に諦め、一番の有効策として彼にはとっても簡単なお仕事──雑用をこなしてもらうことにしたらしい。けれど、それでもトラブルを起こすのだから、筋金入りだ。
「でも、
は優しいよね。いつも超丁寧に教えてあげてるじゃん」
「あれは、何度も教えるのが嫌だからなだけっ! 優しくしてるつもりはないっ!」
「でも、向こうは優しさだと思ってるよ〜。『
さんって俺に優しいですよね〜。ワンチャンいけますかね?』だって〜〜」
はぁ〜〜っと彼女が抗議の声を絞り出す。本当にあり得ない男らしい。
信じらんない、信じらんない、と繰り返す彼女は、もう嫌ぁっ! と、最後は机に突っ伏した。
「大変そうやなあ」
彼女が突然バッと体を起こす。キョロキョロと左右を見渡してから、恐る恐るこちらを振り返った。俺の姿を確認して、顔を真っ青にして言葉を詰まらせた。どうやら後ろの席に俺がいることに今まで気づいていなかったらしい。騒がしい居酒屋だ。無理もない。
「え、え、今の話、聞いてたんですか? どこから? ぜんぶ?」
なにをどう勘違いしたのか、彼女はそのあと何もしゃべらなくなり、しおしおと萎れたように元気をなくし、最終的にはとぼとぼと先に帰っていった。
たぶん、理由があるにしても他人の悪口を言っているところを見られたのがショックだったんだろう。そういうところが可愛くもあるが、彼女の困ったところでもあった。
そんなことで嫌いになったりしないのに。
「飯、行きません?」
次の日、勤務を終えた帰りしな、従業員通路で声が聞こえたので立ち止まった。俺の勘は当たり、曲がり角をチラリと覗けば、彼女と見覚えのない男が並んでこちらに歩いてくるのが見えた。たぶん、アレが例の男なのだろうと見当をつける。
「わたし自炊なんで大丈夫です」
「え、いいなぁ〜自炊とかマジ尊敬。てか、俺もそれ食いてぇ〜〜」
遠回しに断られているのに、まだ食いつくのか。いや、控えめな彼女にしてはこれはわりときっぱり拒絶を表しているのに、それすら汲めないとは鈍感にもほどがある。こういう奴には一度しっかり釘を刺しておいた方が良さそうだ。
「お疲れさん。今帰りなん?」
ハッとした彼女が俺の姿を認め、口をきゅっと結んでピンッと立ち止まった。となりの男は怪訝そうな顔で首を傾げたまま、彼女と俺を交互に見やる。
「夕飯まだやんな? 一緒に食べへん? こないだ美味い寿司屋見つけてん」
「え、お寿司ですか?」
ええやろたまにはと説きながら、さりげなく戸惑う彼女を引き寄せ、男から遠ざけた。
だが、じゃあ……と頷きかけた彼女の言葉に被さるように「寿司か〜たまにはいいっスよね」ときた。まだ引き下がらない気か。ある意味すごい。
「すまんけど、気ぃ利かせてくれへん」
ここまで露骨なことをするつもりはなかったが仕方がない。
急に肩を抱き寄せられた彼女は案の定顔が赤い。でも、それがこの男には追い討ちになるだろう。
さすがに何も言い返せなくなった男を置いて、彼女を連れて颯爽とビルを出た。無言で夜道をしばらく進む。角を二回曲がったところで、「あ、あのっ!」と彼女が立ち止まった。
「ありがとうございました」
「気にせんでええって。自分も大変やな」
そんなそんな、と彼女が意味のない謙遜をする。わたわたと手を動かし、慌てている様が可愛い。
「戻り鰹が旬なんやて」
「へ?」
「あとは秋刀魚と鯵やったかな。太刀魚もなかなか美味いらしいで」
「え、あ、本当にお寿司屋さん行くんですか? てっきりあのひと巻くために適当なこと言ってくれたのかと……」
鈍感さはさっきの男といい勝負だ。
「なぁ、俺、自分のことずっと口説いとるつもんなんやけど」
これまで思わせぶりな言葉や態度で彼女を翻弄してきたのは、その方が自分のキャラには合っていると思ったからだ。それに「好きだ」とあえてはっきり言わない方が、大人の関係には都合が良いし、相手にもそれとなく逃げ道を作ってやれる。
だいたいの女は二、三度のジャブでこちらの意図を汲み取り、ときには自分のいいように解釈し、誘いに乗ってくれた。
だが、目の前の彼女はどうも違うらしい。
そこそこな大人なはずだが、彼女は未だ少女らしい純朴さと素直さを残したままだった。そこに大人に相応しい警戒心も備わってるから厄介なことこの上ない。いままでの俺の行動は裏目だったと気づいた頃にはもう手遅れで、彼女からは完全に警戒されてしまっていた。
何を言っても気障な台詞に聞こえてしまうらしい。彼女にとって医者という肩書きもそれを助長させてしまう一つだった。
とうに万策尽きていた。
あとはもう素直になるくらいしか思いつかない。
「そろそろ絆されてくれへん?」
月明かりを反射させてキラキラと潤んだ瞳が揺れながら俺を映す。
「あ、あの、お誕生日おめでとうございます」
これは期待するなという方が無理な話だ。