社会人三年目。少しずつ責任のある仕事も任せてもらえるようになってきた。だけど、そのせいで夏休みはずれにずれ込み、その結果たった二日しか彼氏と休みが合わせられなくなってしまう悲劇が起こる。

「あいかわらずどんくさいね」

 とズバリ電話越しで容赦無くそう指摘してくるのは、もうかれこれ付き合って七年目になる彼氏・幸村精市だ。

「ごめん……」
「俺はちゃんとおまえと過ごせるように休み取ってたんだけど」
「うっ、ほんとごめんなさい……」

 わたしが反省している、というより落ち込んでいることが伝わったのだろう。はぁ、というため息とともに「もういいよ」というお言葉が返ってくる。ちなみに、この場合の「もういいよ」はもちろん気にするなという意味だ。長年の付き合いで言葉こそキツイが、精市は基本的に優しい。はず。だってこんな特に取り柄もないポンコツなわたしを好きになって、彼女にまでしちゃってるんだから。

 いまだに不思議に思う。なんでわたし?
 そりゃあ中高部活も一緒で、ともに過ごした時間だけは長い。けど、それだって部員とマネージャーという枠組みから大きく外れた覚えはない。
 だから、高校三年生の夏、突然精市(そのときはまだ幸村と呼んでいた)からお祭りに誘われたときは心底驚いた。「行こうよ、ふたりで」と誘われて、「えっ! なんで? あ、真田たちとケンカでもしたの??」と返して随分精市の機嫌を損ねたっけ。
 それからお祭りの当日も精市は浴衣で来たのに、わたしは私服で着てしまってそれにもずいぶん文句を言われた。
 でも、それはわたしにも言い分がある。だってあのときはまだ精市の真意をはかりかねてたんだ。それなのに、張り切って浴衣なんて着てしまったら。そんなつもりじゃなかったって言われたら。そう思ったらこわくて着てこられなかったと正直に話せば、「来年、楽しみにしてる」と優しい眼差しで頭をそっと撫でられたのが懐かしい。
 いやいやなんの話だ。そうそう、精市がなんでわたしを好きなのかわからないって話だ。それは本当にいまだにわからない。わからないけど、わたしのことを好きだってことはちゃんと伝わってくるから、まぁそれでいいか! ってとこに着地。

 結局予定していた金沢旅行はキャンセルして、近場のホテルで一泊することになった。
「前に泊まってみたいって言ってただろ?」と精市が予約してくれたのは、みなとみらいにある大きな半月型のホテル。その特徴的な見た目から子どもの頃から一度は泊まってみたい憧れのホテルとしてわたしの心に刻まれていたんだけど、たぶん以前に精市になにげなくそのことを話したことがあったんだと思う。でもまさかそんな些細なことまで覚えていてくれるなんて思ってなかったから密かに感動してしまった。ほら、こうやってことあるごとに自分がちゃんと愛されているんだってわからせてくれるのが幸村精市という男だ。

 お盆真っ只中のみなとみらい駅は外国人旅行客も多く、すごい賑わいだ。改札を出て、なんとかわかりやすそうな場所に移動して、精市を待つ。
 今日は一段と気温も高くて、目眩がするくらい蒸し暑い。持ってきたハンカチで汗を拭きながら、ふぅと一息ついていたら精市がやってきた。遠目からでもすぐわかるのは、相変わらずだ。不思議なもので、精市は決して派手なわけじゃないのによく目立つ。
 わたしよりワンテンポ遅れて人混みの中からわたしを見つけた精市がパッと笑顔を咲かせ、こちらにやってきた。

「お待たせ。めずらしいね、おまえの方が早く着いてるなんて」
「へへへっやったね!」
「どこかカフェとかにでも入っててくれてよかったのに」
「そんなに早く来たわけじゃないから大丈夫だよ。あ、じゃあ、それならアイス食べに行こう!」
「ふふっ了解。でも先にお昼ね」

 エスカレーターを登り、地上へ出た。直射日光のあまりの強烈さに「うっ」となっていると、ポスッと頭の上に何か乗せられた。

「帽子、被っておきな」
「え、でもこれじゃあ精市が……」

「いいから」とそのまま帽子の上から頭を撫でられる。反論する隙も与えず、精市はわたしの手を取って歩き出した。精市が貸してくれたキャップは少し大きいが、わたしが被ってもそこまで違和感のないデザインで、ふとビルガラスに映った自分の姿を見て、ふふふと笑みがこぼれた。
 大きな観覧車のある遊園地のわきを通って海際まで歩き、古い面影の残る赤い煉瓦の商業施設でハワイアンバーガーを食べて、休憩がてら施設内をぷらぷらと歩いた。たまたま帽子屋を見つけ、ふたりでどんなのが似合うか試しあって遊び、最終的に精市が今わたしが被ってるキャップに似たものを一つ買う。「これでおそろい」と海を背景に記念のツーショットを撮るのも忘れない。
 そのあとは、約束通りアイスを食べて、美術館へ行き、夜は中華街でいろんな種類の小籠包を食べ比べた。一日中歩いて食べて笑ったからホテルへ着く頃にはだいぶへとへとだったはずなのに、実際ホテルへ着けば、またわくわくしてきて、部屋に着くなりうろうろ散策していたら、精市に笑われた。だって楽しいんだもん!

「あ! アメニティに泡風呂のもとがある! 入れていい?」
「ん? どれ? ん〜ラベンダーの香りか。いいんじゃない、それなら」
「わーい! えっと、まず『バスタブに五センチ程度お湯を張ります。』……」

 さっそく泡風呂の準備をしているうしろで、精市がティシャツを脱ぎ出したから、ぎょっとした。

「え、もしかして一緒に入るの?」
「もちろん」
「えー……」
「なんにもしないよ」
「……『今はね』って心の中で言ったでしょ」
「あ、バレた?」

 恥ずかしげもなく脱いだ精市が「ほら」とわたしに手を差し出す。
 さっきまで全然そんな雰囲気じゃなかったのに、空気がスッと変わったのがわかった。そのちょっと重いくらい甘い空気に胸が詰まって、俯いたまま精市の手を取ると、耳元で「かわいいね」と囁かれながら着ていたワンピースをそっと脱がされた。

 薄紫のお湯に泡がもこもこと表面を覆うように浮いているおかげで、恥ずかしさはいくぶん軽減されたが、すぐ後ろに裸の精市がいると思うとやっぱりそわそわしてしまう。わたしの胴回りには精市の腕がまわされていて、肩口には顎が乗せられていた。精市が動くたび濡れたウェーブの毛先が肌に触れてくすぐったい。

「あ、ねえ、明日朝何時に起きる? 朝ごはんのバイキングは9時までって言ってたよね。なにがあるかな? たのしみだなあ」
「今日目一杯食べただろ」
「今日は今日。明日は明日なの」
「食い意地張ってお腹壊すなよ」
「わかってるよ」

 精市がおもむろにわたしのお腹をむにむにっと指でつまむ。やだやだ、と抵抗すれば、精市の楽しそうな笑い声が響く。暴れたせいでたぷんたぷんという音と一緒に泡が弾け、ラベンダーに似た甘い香りが浴室いっぱいに広がった。
 言うならいまだ、と思った。

「今日、ほんとごめん」
「ん?」
「金沢、次は絶対行こうね」
「気にしてたんだ」
「するよ! してたよ! もちろん!」
「俺はさ、今日おまえに会えた瞬間ぜんぶ吹き飛んだよ」

 ぎゅっと眼をつむった。じゃないと泣いてしまいそうだったから。
 休み直前の会社のゴタゴタは精市にはほとんど話していなかった。はじめて任されたプロジェクト企画に後輩指導が被り、それでもなんとか乗り越えたと思ったのに、夏休み直前に後輩の無断欠勤が続いた。人事からはわたしの対応が悪かったのではないかと責められ、上司も庇ってはくれない。癖の強い子ではあるが、これからも一緒に働いていきたいと思い、電話をして事情を訊こうと試みたが、「わたしは先輩みたいにがんばれません」と一方的に切られ、それ以来通話にすら出てもらえない始末。その子の仕事がまるごとわたしに降ってきてわたしは予定していた休みを返上するほかなかったんだ。
 どうすればよかったのだろう。そればかりがぐるぐると頭を回り苦しかったけど、それでも、今日は、今日だけは、楽しもうって決めていたのに。
 そんなわたしの強がりを精市は最初から見抜いていたのかもしれない。
 堪えきれなくなって結局は子どもみたいに泣き出してしまったわたしをあやすみたいに精市が撫でてくれる。

「俺は知ってるよ。おまえががんばってること。ときどきがんばりすぎてること。だから、心配にもなるけど、どんなにつらくても悲しくても、涙を拭いてまた立ち上がる強さも知ってる。 俺はおまえの、 の、そういうところがとても眩しくて大好きなんだ」

 なんて心強い味方だろう。精市にそう言ってもらえただけで、またがんばろうと思える。
 わたしがいままでがんばってこれたのは、わたしだけの力じゃなくてそばに精市がいてくれたからだ。

「うぅ〜がんばるぅ。わたし、これからもがんばるぅ」
「うん。俺もがんばる」
「一緒にがんばろぉ」
「うん、だから結婚しよう」

 えっ?! というとびきり大きな声が口から飛び出た。
 突然のプロポーズに驚いているわたしの左手を取り、まだなんの誓いもない薬指に口付けが落とされる。

「本当は明日、観覧車の中でって考えてたんだけど、今言いたいからここで言うことにするよ。 、結婚しよう。俺だけのお姫様になってほしいんだ」

 そのあとわたしがのぼせかけたことは今でもふたりの間で鉄板の笑い話になっている。