ガラガラと派手な音を立てて立て付けの悪い居酒屋の引戸が開いた。誰かが頭を低くしてつんのめるように転がり出てきて危うく巻き込まれそうになる。「すまん」と慌てて顔を上げたのは自分と同じくほろ酔い加減の同級生・白石蔵ノ介だった。ブーツを履くのに手間取り、前につんのめったらしい。いや、中でゆっくり履けばいいのに、とちょっと笑える。
 顔を上げた白石がわたしに「一緒に帰ってもええか?」と律儀に訊いた。

「白石も明日なんかあるの?」

 四月の宵風がほてった頬にはちょうどいい。居酒屋から最寄駅まで約五分くらいの道のりを白石とふたりで並んでのんびり歩く。
 わたしの疑問に白石は「まあ、せやな」とか曖昧に濁した。それでなんとなく察する。白石は逃げてきたのだ。

「毎年四月は大変だねぇ」

 わたしが面白がって揶揄うと、白石はあからさまに顔を歪めて、これみよがしにため息までついた。めずらしい。いつもだったら、こんな軽口サッと流すか面白おかしくノってくるのに。どうやら今夜は本気でお疲れのご様子だ。まあ、無理もないと思う。
 今夜の飲み会は大学の新歓の打ち上げで他学年も多かった。普段ならすれ違うくらいしか接点のない女子がここぞとばかりに白石に群がっていたのを思い出す。
 まあでも、彼女たちの気持ちも理解はできる。だってこのお顔だもの、と横目でとなりを盗み見た。スーッと鼻筋の通ったきれいな横顔。酔っていて目元がちょっととろんとしてるのにそれすら美しい。ちょっとかっこいい先輩とかいうレベルを遥かに越えた超ド級の国宝イケメン。そりゃあ間近で拝んでみたいよね。
 実際、わたしも正直に言えば最初はドギマギした。「ココ、ええか?」なんて声をかけられて、となりの席に座られたときは緊張で背筋が伸びて座高が五センチほど高くなったほどである。懐かしい。ちょうど二年前の今頃だ。でも、同級生として一緒に過ごすうちに、彼の内面にも触れる機会が増えて、その、なんというかいい意味でその別次元感は払拭されていた。いまや仲間内での彼のポジションは変人枠で固定化されているのだが、本人的にはそれがいいらしい。さすが関西人。かっこいいと言われるより面白いと言われた方が何倍もうれしいそうだ。

「そういえば、このまえ言うとったカフェは行けたん?」

 脳内であれやこれやと思い返していると、白石が出し抜けに話題を振ってきた。無言で気まずくならないよう配慮だろうか。気が利くヤツである。顔やスタイルだけじゃなくて基本的には性格もいい。なのにわたしの知る限り女の影は微塵もない。もったいない、なんて言葉がうっかり出てしまいそうになるけど、それは白石を傷つけるかもしれない言葉な気がして実際には言ったことはない。恋愛だけが楽しいことでもないということには賛成だ。

「ほら、このまえ行きたいカフェあるんやけど、たどりつけへんかった言うとったやん」
「あー! そうそう! そうなんだよ、たどりつけないんだよ。いや、たどりつけたこともあるんだけど、たどりつけないこともあるの」
「なんやねんそれ」
「いや、なんていうか、渋谷ってめちゃくちゃわかりにくいよね!」

 白石が変人枠なら、わたしは方向音痴枠として仲間から認識されているらしい。つい先日も友だちと何度も行ったことがあるカフェにふらりと一人で行こうとしたら、道に迷ったという話をしたからか。でもそんなしょうもない話、よく覚えてたな?

「道案内、したろか?」
「え、まじ! やったー!」
「明日、空いとる?」
「あ、ごめん、明日は朝からずっとバイト」
「ほな、明後日は?」
「明後日なら大丈夫だよん」

 上機嫌で店の特徴を言うと白石はすぐに調べて「これやろ」とお店のインスタを突き止めた。「いやこれほぼ駅構内やで。迷う方が難しいやろ」と笑う。

「あ、でもさ、明後日ってやっぱ急じゃない? みんな都合つくかな?」

 わたしもスマホを取り出してLINEを開いた。いつものメンバーで構成されたグループに適当に投げてみるかと思ったら、となりの白石が突然立ち止まった。
 どうした? と振り返ると、白石は下を向いていた。気分でも悪くなってしまったんだろうか。「大丈夫?」と声をかけようとしたのと同時に、

「ふ、ふたりで、行かへん?」

 と真っ赤な顔で告げられる。
 白石はもともと肌が白いからその赤さが異様に目立った。なんならさっき店を出たときより赤い。耳まで赤い。
 たっぷり間を空けてから「え、なんで?」と真面目に訊き返してしまった。

「いや、明後日っては急やし」
「あ、うん、そうだよね。じゃあやっぱり別に明後日じゃなくてもいいんじゃない」

 明日、明後日は土日で休日だから時間に余裕があっていいかもしれないが、平日学校のあとでも行けないこともない。月曜日学校に行ってそのときいるメンバーで行きたいひとを募っていくのもありだしな、と思う。それくらい適当なイメージでいたのだが……?

「……一応これでもデートの誘いやったんやけど」

 脳内でエクスクラメーションマークが踊り出した。え? デート? 誰と誰が? わたしと白石が??
 驚きすぎて、考えがまとまらない。というか、なんで、わたしなんかを誘うのに、そんな自信なさげな顔でもじもじしてるんだ? いまこそその顔面の良さを遺憾なく発揮するべきときだろうに──でも、そういうところが白石らしいと思った。今日彼を取り囲んで質問攻めにしていたお嬢さんがたは知らんだろうが、白石は自分の顔面の良さを自分のために使ったりしない人間なのである。
 わたしが返事をできずにいると白石はいたたまれなくなったのか、「すまん、急やったよな」とわたしに謝って歩き出した。

「……もしかしなくても、わたしが最近彼氏と別れたこと知ってたり?」

 そういえば、さっきの居酒屋で友だちに結構愚痴ってたっけ。でも、白石とはずいぶん席が離れていたし、聞こえていたとは思えない。

「ほんで、明後日どないする?」

 足早になった白石の歩調に合わせてわたしの歩調も早くなる。駅はもうすぐだった。

「……えっと、じゃあ、お願いします」

 そう答えてから、いつの間にか自分の頬もありえないほど熱を持っていることに気がついて驚いた。今日はカシオレと緑茶ハイ、一杯ずつしか飲んでないのに。
 あれれれれ??

◇◆◇

 バイト終わりにスマホを確認すると、LINEの通知が来ていた。相手は予想通り『白石蔵ノ介』。カブトムシのアイコン。小学生男子か?

〈バイトおつかれさん。明日もし時間あるんやったら、せっかくやし映画でも観ませんか?〉

 そんな控えめなメッセージとともに近くの映画館のスケジュールが記載されたサイトが送れてきていた。
 カフェに、映画に、そのあと夜ごはんも、なんて展開になるんだろうか。これではまるっきりデートではないか。いや、そうだって向こうは言ってたけど……。
 正直言うとまだ混乱が大きい。気持ちが追いついていない。でも、悪い気はしなかった。気が緩むとついにやにやしてしまう。けど──……。
 ま、でももやもやは残るものの、とりあえず、ひとりで悩んだところで答えが出るタイプの悩みではないので、あまり深く考えすぎず、明日は楽しむことにする。

〈いいよ! ホラー以外ならなんでも!〉

 とメッセージを返信した。

 日曜日。デート、当日。改札出口で待ち合わせようと提案したのに、白石はわたしが降りるホームまで迎えに行くと言いはった。迷子になっては困るから、と。どんだけわたしのことをみくびっているんだこのやろう、である。
 ほどほどに混んでいる休日の地下鉄に揺られ、ちゃんと約束の時間五分前に駅のホームに到着した。
 白石は先にいたみたいで、電車がホームに滑り込んだと同時に窓越しにわたしを見つけ、うれしそうに片手を上げていた。その健気さがちょっと忠犬ハチ公みたいで笑ってしまう。まさにここは渋谷だし。なんて失礼なことを考えながら、振り返そうと手を上げかけたところで、となりに立っていた女の子二人組がなにやらコソコソキャッキャし合っているのが耳に入り、思わず上げかけた手をそのまま下ろした。

「白石、おはよう、早く行こっか」
「おう? おはようさん。ってちょい待ち! そっちちゃう、こっちやで」

 勝手にズンズン進んでいこうとするわたしを白石は苦笑いで呼び止めた。
 さっきの女の子たちが振り返ってチラっとわたしの方を見たような? 気のせいだと思いたい。

「……今日は道案内どうぞよろしくお願いします。大人しく着いていきます」

 と宣言して白石の背中に着いていく。なんとなく白石のとなりに並ぶのは避けてしまった。

 観たかった映画はちょうどいい時間帯のものがなく、順番を変えて、映画、カフェの順番にまわることになっていた。観る予定の映画はいま話題のSF映画。時間があれば観たいなと思っていたからちょうどよかった。そういえば、一緒に観に行こうと元彼とも約束してたっけ。ポスターを眺めながらぼんやりしていたら、なんとなく斜め後ろあたりから視線を感じて、なんのことなしに振り返る。するとそこにはなんと一週間前に別れたその元彼がコーヒー片手に立っているではないか! なんたる偶然。向こうも本気でびっくりしている様子で立ち尽くしていた。
 え、どうしよう、なにか話しかけるべき? お互いがそんなことを思っているのが手に取るようにわかる気まずい空気。そんな空気を断ち切ったのは、「どうしたんですかあ?」という可愛らしい声だった。
 その声の主が小首を傾げながら元彼に寄り添う姿を見て、ますますわたしはどうしたらいいかわからなくなる。これは他人のフリをすべきか、いやいまさら不自然すぎる。適当に挨拶して早く離れるに一票。ていうか、新しい彼女できるの早すぎない? わたしとは全然違うタイプだな?? と謎のもやもやが発生。元彼とはわりと円満に別れているから未練はない……つもりだったが、新しい彼女らしき子に値踏みされるようにジロジロ見られてたら、そりゃあ気分はよくない。

「なあ、ポップコーン、塩とキャラメルどっちがええ?」

 そんなタイミングで売店に行っていた白石が戻ってきてわたしの肩を叩く。元彼とその彼女がそろって白石を見て黙った。

「ポップコーン買うの?」
「ポップコーン嫌いなん?」
「いや、嫌いじゃないけど」
「ほな一緒に食べてや」

 白石は元彼たちに軽く会釈して、わたしの手を引いて売店まで連れてきた。「塩とキャラメルどっちがええ?」と訊きながら、握られていた手がそっと離れていく。元彼たちはもう視界から消えていた。

「……さっきの元彼」

 いたたまれなくなって白状すると、白石は「そうちゃうかなって思うたわ」と苦笑。やっぱり気づいて、助けに来てくれたんだとわかった。

「映画、やめとこか?」
「ううん、そこまでじゃない。ていうかチケットもったいないし、ふつうに観たいし」
「ほな、やっぱポップコーンやな」
「なぜ?」
「気分がポップになるやろ。塩とキャラメルどっち? ハーフアンドハーフで欲張ってもええで?」

 白石、いいヤツだなあと改めて思う。さりげない気遣いがうまい。さっき白石が来てくれなかったら、わたしはだいぶ惨めな女だったわけで。でも、そこに白石が登場したことで大逆転……なんて考えているわたしは下衆すぎるだろうか。わたしだって独りじゃないうえに相手はこんなにイケメンなんですよ、なんて元彼&その彼女(仮)にマウントをとったところでなんになるのだ。しかも勝手にマウントの材料にして白石にも失礼すぎるし。
 白石の純粋な優しさをこんなふうに無下に扱ってしまった罪悪感はポップコーン代を出すことで紛らわそうとしたが断られた。「今日誘ったの俺やからな」ってさらっとぜんぶ払ってくれようとSuicaをピッ。だが、残高が足らず。かっこがつかないのが白石らしい。足りなかった三百二十円は問答無用でわたしが払った。そしたら、ちょっと落ち込んでてかわいかった。
 元彼たちも同じ回の映画で帰りの通路でまた行き合ってしまったが、もうさすがにお互いスルーだった。というか、どうでもいいと思えた。
 わたしの心の中には“恋人”だけしか座れない特別なイスがあって、そこに誰かが座っている間はそこに別の誰かを座らせたいだとか、ましてやイスを増やしたいだとかは不思議と思わない。付き合っている相手がいても別の人をすきになっちゃうこともあるよね、なんてわりとよく聞く話だが、全然ピンとこなかった。いまのところは、という条件つきかもしれないが、少なくともこれまでのわたしはそうだったし、これからもきっとそうだと思う。
 いまさらながら考えれば考えるほど、思い出せば思い出すほど、白石はいいヤツだった。友だちとしても。異性としても。でも、ずっと友だちだった。
 その理由は単純で、白石と出逢うまえからわたしの特別なイスには先客がいたからだ。
 そして、いま、そのイスにはもう誰も座っていない。
 このイスに白石が座ってくれたら、きっと楽しいだろうな、ということはこれまでの関係がすでに十分過ぎるほど保証してくれていた。  

 映画館を出て、すぐ近くの通りに面したメトロの入口を下り、左に曲がり進み、右に曲がり進み、また左に曲がってしばらく進むとわたしが行きたがっていたカフェになんなく着いた。拍手!
 オーダーを終えてから席で待っていると、向いに座った白石が「道、覚えたか?」と訊いてきたので、ちょっと考えてから首を横に振った。だって今日は道すがらずっと白石の背中ばっか見ていたから、たぶん映画館に戻るのすらあやしい。「ほな、また来たくなったら、言うてや」だって。ちょっと甘すぎない?

「……あのさ、なんていうか、いまさらなんだけど、なんでわたし?」

 自分の気持ちに整理がついたところで、この当然の疑問にぶち当たる。というか、ずっと頭の片隅にはあった。
 白石が入学当初からきゃあきゃあ持て囃されてきたことは知っている。単に賑やかしも多かったが、それでも本気な子もいたと思う。美人で有名な他学科の先輩や明るくて優秀な同級生、健気でかわいい後輩、わたしがなんとなく知ってるだけでもあげればキリがない。でも、白石は誰にも振り向かなかった。そのせいでゲイじゃないかと噂を立てられたほどだったが、本人は揺るがなかった。その理由がわかってしまったかもしれない。
 彼氏と別れた直後だからチョロそうとか、誰でもいいからみたいな大学生のノリじゃないのはわかる。だって白石だ。ひとの気持ちを弄んだり、軽んじたり絶対しない。だからこそ、疑問なのだ。よりどりみどりな彼がなんでわたし? 過度に卑下するわけではないが、わたしはいたってふつうのそこらへんにいる女子大生だ。白石がわたしをすきになる理由に心当たりが微塵もない。
 白石は「せやなあ」と言って考え込んでしまった。そんなに悩ませるほど、やはり決め手に欠けていたらしい。まあ、そういうなんとなく「すき」ってのもあるよね。自分から訊いておいてなんだか早々にもうしわけなくなる。その間にオーダーしたものが出来てしまったので、わたしが取りに行った。白石は「すまん、ありがとう」と出遅れた謝罪とお礼を同時に言った。

「強いて言うなら、こういうところやな」
「ん?」

 どうやらまだ考えてくれていたらしい。目の前のいちごタルトに夢中になっている場合じゃなかった。

「自分のええところ」

 彼が言わんとしていることがよくわからなくて首を傾げた。

「俺が完璧やなくても笑ってくれるとこ。一緒におると、心地ええなって、ずっと、思っててん」

 白石はわたしと目が合うと、ふっと力を抜いた。やっと言えた、そんなふうに見えた。
 白石と“ずっと”友だちだった理由をもう一つ見つけてしまったかもしれない。
 わたしが白石の気持ちに気づかなかったのは、そもそも白石が自分の気持ちをこれまでわたしに隠しつづけていたからで、それはつまり自分の気持ちより“わたし”を大切にしてくれたからではないだろうか。そう考えるとなにかと辻褄があう。

「自分からしたら、突然で戸惑うのも無理ないかもしれへんけど、俺としてはずっと待っとったちゅうか……あ! 別れろとか思ってたんとちゃうで! いや、思おとったけど! でも、それは に不幸せになってほしいとかやなくて……」

 必死に弁明をする白石を見ながら思った。
 すきだなあ、って。
 わたしの中でも、もうちゃんと恋になっていた。

「わかった、わかった。じゃあさ、次はここ行きたいんだけど、また道案内してくれる?」

 とピンを立てたマップ画面を見せると、白石はごくっと喉を動かしてから、「任せとき!」と胸を張った。

◇◆◇

 まず、迷ったのは仲間内での挨拶だ。挨拶というか報告? するかしないか。でも、どうせバレるよね。ていうか、隠すのも不自然だし。「みんなになんて言おうかね」と二度目のデートの最中に白石に相談してみたら、「せやなあ」で会話が途切れた。
 今日は天気がいいので新宿御苑を散歩中。桜はもうすっかり散ってしまっていた。来年はもう少し早く来れたらいいな、と思う。もちろん白石と一緒に。
 どの最寄駅からも徒歩十分以上で絶対ひとりでは辿り着けなかったであろうパン屋に寄ってお昼ご飯はすでに獲得済みだった。クロワッサンサンド楽しみだなあ、なんてボケッとしていたら、向かいから来た白と灰色のもふもふの大きな犬に突然吠えられて、飛び上がる。咄嗟に白石が片手でわたしを抱き寄せて庇ってくれた。犬はどうやらパンの匂いに反応しただけで、飼い主のお姉さんに叱られたらすぐ大人しくなった。「すみません」、「いえ、こちらこそ」とお互い頭を下げて通りすぎる。しゅうん、と耳と尾っぽを下げてしょげている犬の後ろ姿がかわいそかわいい。

「犬、苦手なん?」
「ううん、急にだったからびっくりしただけ。パン、無事でよかったあ」
「ハハッ、自分よりパンの心配かい」

 抱き寄せられていた腕が外れ、白石の身体が離れていく。ちょっとさびしいなあと思いながら、白石のとなりに並んで散歩を再開した。

「あー! 来た来た来た! ねぇねぇねぇねぇねぇ!!」

 週明け、学校へ行くと友だちに掴み掛かられる勢いで突撃された。

「白石と付き合いはじめたってマ?」

 みんなにわたしたちの関係を明かすことは、「せやなあ」で止まり、保留になっていたはず。白石が言ったのかな? て不思議に思っていたら、スマホの画面を見せられた。それを人差し指と中指でものすごくピンチアウトすると、わたしと白石らしき人物の横顔が写っていた。

「え、なにこれ」
「『推しに彼女できたっぽい、鬱』ってコメントと一緒に投稿されてたらしいよ。投稿してたのは鍵アカだったんだけど、誰かがスクショして、それがめぐりにめぐって、みたいな? わたしのとこにも今朝まわってきて、『この一緒に写ってる子、友だちだよね?』って」

 で、実際どうなの? と興味津々とばかりに爛々と輝いた瞳が向けられた。
 この授業は学部関係なしの一般教養。一番大きなホールにはすでに生徒が大勢集まっていた。

「てか、盗撮やば。最悪じゃん。そのアカウント特定して、二度とこんなことすんなって釘刺した方がよくない?」
「特定ってそんな簡単にできるもんなの?」
「いや、わかんないけど。でも、だって気分悪いじゃん」

 ねえ、と同意を求められて、もちろん頷く。
 みんなでわちゃわちゃやっていたら本鈴が鳴って、講師がスライドの準備をはじめた。ホールの照明が落ち、プロジェクターの投影がはじまる。
 この話題はうやむやのまま各自慌ただしく席に着いた。

「いやさ、このまえの飲み会で が彼氏と別れたって聞いて、おれ、白石に『 、彼氏と別れたらしいよ』って教えたんだよ。もしかして、おれファインプレー?」
「そうそうそう! あのとき、先に帰る を白石が追いかけてったから変だなあって思ったんだよ!」

 左隣と右隣がしゃべっていたせいで、わたしまでまとめて注意を受けた。

「あの」と知らない子から話しかけられたのは、その日の午後。授業が急遽休講になり食堂でひとり、暇を持て余しているところだった。

「突然すみません。あの、わたし、蔵ノ介先輩と同じサークルの後輩で……」

 あたりまえだが、ここは大学なので生徒数は半端ない。同じ学部であっても他学年だと面識すらないのがほとんど。他学科の他学年なら知るよしもない。正真正銘、はじめて見る子だ。小柄でかわいらしい子だった。

「蔵ノ介先輩と付き合ってるって本当ですか?」

 嫌な予感はしたが、やはりそうきたか。
 そんないまにも泣き出しそうな瞳で見上げるのはやめてほしい。
 白石の知り合いなら白石に訊いてくれって感じなんだが、ここで誤魔化すのも違う気がして、

「本当です」

 と正直に答えた。
 すると、そのうるうるの瞳からぶわっと涙がせりあがり、本当に泣かれてしまう。その子は「すみません」と言い残し、あっという間に走り去っていった。食堂にいたこれまた見知らぬ生徒たちの視線が痛い。
 チラチラと注がれるチクチクした視線。思い返せば、今日だけじゃなかった。白石のとなりで街を歩いていると、ふとしたときにそんな視線に気づいてしまうことがある。向けられる視線はまず白石の顔面で、その後チラッとわたしに移るというのがお決まりのパターン。
 まあ、白石は外見でわたしを選んだわけじゃないだろうから、いいんだけど。とは思いつつ、もやもやもやはする。少なくとも白石に恥をかかせないようにもっとちゃんとした方がいいのかも? 参考にすべくSNSでおしゃれなインスタグラマーを探した。みんな、かわいい。白石ってどういう子が好みなんだろう? そのへん、全然わかんないんだよなあ。なんて考えてるときに着信が入った。白石からだった。

〈すまん、ちょっとええか?〉
〈ええよ〜〉
〈いまもう家なん?〉
〈ううん、今日午後休講になって暇になったから、買い物してる〉
〈どこ?〉
〈なんで?〉
〈いや、これから会われへんかなって〉

 たぶん、今日一日の反省会だ。心なしか白石の声が沈んでるように聞こえて励ましたくなった。

〈いいよ、会おう。どこで会おっか?〉

 ほな、と提案されたのは白石の一人暮らしのマンションだった。正直ちょっとほっとする。家なら、他の視線は気にしなくていい。
 手ぶらで行くのもなんなんで、究極のサンドイッチを作ると称して具材を買い込んで白石宅へ向かった。もちろんサンドイッチだけじゃつまらないから、簡単におつまみになりそうなものやお酒も買い込んだ。
 白石の家は学校近くの五階建ての小綺麗なマンションで、部屋の中も彼らしくとてもきれいに片付けられていた。玄関にも出しっぱなしの靴が一足もないし、アロマディフューザーなんか置いてあるから警戒する。これでハンドソープがイソップなら他の女の影を疑えと指摘されそうなものだが、洗面台に置いてあったハンドソープはミューズだった。ものすごく白石っぽくて、とてもいい。
 手を洗ってから、買ってきた食材を開けて、さっそく調理を開始しようとしたら、「先に話させてくれへん」とストップがかかった。大人しくリビングに連れていかれて、ソファに座らせられる。

「すまん」
「ええっと、それは?」
「いや、なにからなにまでっちゅうか……」
「出回ってる写真のこと?」
「それも含めてやな。あ、出所はちゃんと探して注意するから安心してほしい」
「え、そこまでしなくていいよ。いや、これ以上エスカレートするならまずいかもだけど、いまの時点では下手に刺激しない方がいいんじゃないかな」

 白石が眉間にしわを寄せたまま俯いてしまった。会話が途切れるとすごく静かな室内になった。しーん……と気まずい。元気がないであろう白石を励ますためにもサンドイッチ作りたいんだけどなあ、なんて考えているとカーテンのあたりで突然ガサゴソと音が鳴ってびっくりする。
 え、なに? 盗撮犯がカーテンの隙間からこっそりとかじゃないよね? なんて身構えていたら、「すまん」とまた謝られた。ガサゴソと物音は止まない。申し訳なさそうにカーテンの裏から出してきたのは、プラスチックの虫カゴに入った……カブトムシ?

「あ! LINEのアイコンだ!」
「いや、それはコイツちゃうくて初代やねん」
「へえ! ずっと飼ってるんだっけ? 名前は?」
「……カブリエル六世」
「歴史を感じる名前だね」

 カブリエル六世にこんにちはー、と挨拶する。プラスチックの透明な箱越しにカブトムシを見つめながら、「わたし、別れないからね」と先にきっぱり宣言した。今度は白石が「え!」と驚く。

「別れたい理由がわたしに迷惑かけるからとかだったら、わたし、ぜーったい、ぜーったい別れないから」

 優しい白石のことだ。今回のことを重く受け止めているなら考えられる行動だった。わたしのため。でも、それ全然わたしのためじゃない。わたしは白石と別れたらさびしい。わたしの不幸せを白石が喜ばないなら、わたしの不幸せで不幸せになる白石がいるということだ。わたしだって白石が不幸せになったら不幸せなわけだから……ってややこしいなあ。つまるところ、一緒にいたいということだ。

「すまん」
「……白石、今日謝ってばっかり」
「いや、ほんまにすまん」
「……もういいよ」
「そやなくて」

 じゃあなんなのだ、と白石の次の言葉を待っていたら、「俺ら付き合うてたん?」だと? え?

「デートしたじゃん」
「せやな」
「二回もしたじゃん」
「うん」  

 えええ? いやでも確かに。そう言われてみれば、すきだとか、付き合おうとか言われてないぞ? ぶわあああっと羞恥心が一気に込み上げてくる。すっかりひとりで恋人気分だった自分が死ぬほど恥ずかしい。恥ずかしすぎて、血行が促進されたのか、全身がむず痒くなり、ジタバタが止まらない。それを白石が笑いながらなだめた。それでも止まらないわたしの身体を白石がすっぽり覆うように抱きとめる。

「おれら、いつの間にか両想いやってんなあ」
「……さいあく」
「今度から付き合うてるか訊かれたら、『自慢の彼女です』って言わな」
「『みんなに言う?』って訊いたとき、なんか変だったのって……」
「せやで。付き合えるか付き合えへんかわからん大事なときに周りからいらんちゃちゃ入れられたくないやろ」

 なんだ、そんなことか。どんどん謎が解けていく。なら、あともう一つ。

「……じゃあもしかして、わたしに全然手出してこなかったのも、わたしの見た目が全然好みじゃなかったからとかでなく?」

 もうほとんど答えはわかっていたが、一応念のため。というか、この際、一切合切もやもやを晴らしきりたい。
 キスはおろか手もハプニング以外で握ろうとしないことに、実はすこし傷ついていたのだ。
 他人の視線も鬱陶しいが、それよりなによりわたしは白石の気持ちが知りたかった。外見でわたしをすきになったんじゃないだろうにしても、白石には、すきなひとには、ちょっとくらいかわいいと思われていたい。「あたりまえやろ!」って、ちゃんと直接白石の口から聞けたら、それを自信にこれからのいろんなことを踏んばれる気がするから、いまはまず甘やかしてほしかった。それくらいのわがまま、恋人なら許されるでしょう?

「手、出してほしかったん?」

 耳元で聞こえた低い声にゾクッとした。なにより予想外の答えに心底驚く。
 顔を上げるとちゃんと雄の眼をしている白石がいて、息を呑んだ。

「おれが、どんだけ自分のことかわいいと思おとるか教えこんだ方が良さそうやなあ」

 このあと白石がただ優しいだけの男ではないということを身をもって知ることになった。