彼氏ができない。どうやったってできない。いや、少し違う。すてきな彼氏ができないのだ。ちょっとお酒が入っただけで昔の悪行をさも武勇伝のように語る男や、こっちを試すためだけに最初のデートで某激安イタリアンを選ぶ男や、テーマパークで行列に並ぶたび不機嫌になってしまいには「おれ、アイコス吸ってくるわ」と一人だけいなくなるような男は、わたしにとってはすてきではないので、対象外である。
「彼氏ほし〜〜〜〜」
「ずっと言ってんね、それ。もうなんかそういう鳴き声を発する動物みたい。いや、妖怪?」
「ひどっ」
会社の休憩スペースでお手製弁当(ふりかけ白米が八割の節約弁当)を食べながら、同僚兼友人のキキちゃんといつもの愚痴大会。この時間があるからこの職場に来ていると言っても過言じゃない、と言ったら嘘にはなるが、彼女がいなかったら間違いなくリモートの日を増やしていただろう。そう、リモート。これも厄介なのだ。リモートは恋愛と、それから健康と相性が良くない。わたし調べ。
「ねえ、なんでキキちゃんはそんなに細いの? なんか運動してる?」
たぶんキキちゃんはこれまでの人生でこの質問を何度もされてきたのだろう。心底うんざりといった顔で、「食べなきゃ太んないよ」と身も蓋もないことを言った。
「てか、も別に太ってはなくない」
「でも、なんか最近自分がとろとろしてる気がするんだよね〜〜」
「溶けてんじゃん。人のかたち保たな妖怪」
「ひどい〜〜大人のデートって結局はお酒じゃん? それも追い討ちをかけてる気がするんだよ」
「カスばっかのアプリやめなって」
「じゃあ誰か紹介して〜〜」
キキちゃんは「もう品切れ」とピアスがのぞく舌を出した。
「てか、は理想に固執しすぎなんだって」
わたしの不貞腐れた顔を見て、キキちゃんがため息をつく。
「とりあえずさ、いまの状況でできないんだったら、環境変えるのが手っ取り早いんじゃん」
ほれ、とキキちゃんがわたしにスマホの画面を見せてくる。そこには「明日のわたしは今日のわたしがつくる!」という力強いが芯のないゆるふわコピーとAI美女がやたら爽やかに汗をかいてる画像が悪目立ちしているスポーツジムのウェブサイトが表示されていた。画面の下でビカビカと光るボタンには「無料体験実施中」の文字。
キキちゃんも一緒にやろう、とダメ元で誘ってみたが、筋肉も男もノーセンキューとやっぱり断られた。
◇◆◇
彼氏がほしい。とってもすてきな彼氏がほしい。早くほしい。そう思って自分なりにせっせと行動してみたが、結果はイマイチ。最近はアプリでマッチングした男性と会っては幻滅し、また会っては幻滅しをルーティンのように繰り返す日々。焦りすぎじゃない? 結婚願望そんなに強いの? と訊かれて、わたしは──……
「さま」
名前を呼ばれてハッとする。ここはパーソナルトレーニングジムのエントランス。キキちゃんに勧められたその日に申し込んで、空いてる日で一番早い日を希望して、今日になった。思い立ったが吉日だ。
「今回は無料体験コースにお申し込みいただきまして、誠にありがとうございました。アンケートのご記入もありがとうございます」
スタッフがとびきり感じのいいあいさつをしてくれたあと、「それでなんですが」ともったり続けた。眉がハの字に歪んでる。
「女性トレーナーをご希望とのことで、準備にあたらせていただいていたんですが、急遽都合がつかなくなってしまいまして……」
と視線を全面がガラス張りになっていて外がよく見える玄関に向けた。大雨大嵐。びゅうびゅう吹く風が街路樹をこれでもかともみくちゃにしていた。都合がつかなくなった理由がおおよそ判明。
「大変申し訳ないのですが、男性トレーナーでもよろしいでしょうか? もちろん、スケジュールを改めさせていただくことも可能なんですが、せっかく来ていただいているので……」
逆にこんな日に来てしまったことが申し訳なくなる。本心を言えば、女性がいいがここは我慢だ。「じゃあ、男性でも」と答えると、スタッフはほっとした顔つきで「では、呼んでまいります」とすぐさま裏に引っ込んだ。
体重とか、体脂肪率とか、スリーサイズとか、たぶんいろいろ見られるんだよね……。身体とか触られるのかな。そういうことじゃないってわかってるけど、すきでもない異性に身体を触られるのはちょっと抵抗あるんだよなあ。
さっきのスタッフが男性トレーナーを連れて戻ってきた。そして──
「え」
と同時に二つの声が響く。
目の前にいたのは、スラリとした長身かつ分厚い胸板の褐色肌が眩しいイケメン──木手永四郎だった。顔を合わせたのは、大学一年生以来だが、彼のトレードマークとも言えるアンダーリムのメガネは健在で、いやそうじゃなくてもわたしが彼を見間違えるはずがなかった。どくんっと心臓がいやな音を立てる。
スタッフに「どうかされました?」と訊かれ、とっさに「なんでもないです!」と誤魔化した。えい、……木手くんも驚いたのははじめの一瞬だけで、その後はなにごともなかったかのようなすました顔だったので、とりあえず他人のフリを通した方がよさそうだ。
スタッフと一緒に施設の説明をひととおり受け、着替えてからまたマシンエリアに集合ということになった。無料体験受付完了メールに記載されていたとおり動きやすい服装に着替え、集合場所に戻ると、木手くんがタブレット片手にひとりでわたしを待っていた。木手くんはわたしに気づくと、利き手とは逆の右手の甲でメガネの位置を直す。
「では、改めまして、今回はよろしくお願いします。さっそく、はじめましょうか」
にこりともしない事務的なあいさつ。単語に訛りはないが、イントネーションが標準語とは違うところは昔から変わらない。
「ボケッとしてると怪我しますよ」
ついでに容赦ない指摘も変わらない。こっちは客やぞと文句を言いたい気持ちをぐっと呑みこみ、わたしは人生はじめてのパーソナルトレーニングなるものを開始した。
◇◆◇
パーソナルトレーニングというなにやら長い横文字のせいで身構えていたのだが、別に特段予想外のことはなかった。「確認ですが、運動の目的は健康維持ということでよろしいでしょうか」と木手くんに訊かれ、わたしはうん、と言いかけて「はい」と返事をした。「まあ、アナタの体重なら無理に落とす必要はありませんからね」と返され、やっぱり体重見られてたんだとショックは受けたけど。
木手くんは、健康維持というおおよそ四十代以降が掲げそうななんともつまらない目標でもわたしに合わせてメニューをちゃんとつくってくれた。過度な負荷はなしで、ストレッチとランニングがメイン。楽勝! と思ったが、日頃デスクワークしかしていないわたしの身体はたかだか二時間の運動でも悲鳴をあげた。仕事で疲れているのに、なぜ自分はさらに自分の身体に鞭を打っているのか。最後の方はわからなくなり、「お疲れさまです。そろそろ終了の時間です」という木手くんの声が聞こえたとたん、全身から力がへなへなと抜けてしまったほどだ。もう早く帰って布団で寝たい。それしか考えられない。ここで誰かと出逢おうなんてふつうに無理では? と当初の目論みが早々に散る。
くたくたなのに最後にまたアンケートを書かされた。最初に受付してくれたスタッフが「じつは今日の担当、本来はスペシャルクラスの担当なんですよ」とこっそり教えてくれる。今日入会してくれれば、追加料金という指名料なしで、彼をこのまま担当にしてくれるという。にっこり微笑んだスタッフが「ご入会はどうされますか」とわたしに訊いた。
「で、契約しちゃったと。まぁよかったじゃん」
次の日、黙っていられず、ことの経緯をキキちゃんに報告した。木手くんのことは若干ぼかして、高校の同級生ということにしてある。まあ、嘘ではない。
「健康になるうえに、男とも出逢えて」
「う〜〜ん……」
「今度はなにが不満なわけ?」
「思ってたのと違うっていうか。わたしはもっと真新しい出逢いを求めてたっていうか……」
「え、でもその“木手くん”っていう同級生、聞くかぎりの好みドンピシャじゃん」
そこでさらに唸りだしたわたしを見てキキちゃんはピンときたらしく「はっはーん」とニヤニヤした。「さては昔の男だな」とズバリ名推理。これだけ早くバレると最初にぼんやり同級生とぼかしたことの恥ずかしさが倍増する。
「で、どうすんの?」
キキちゃんが頭を抱えてるわたしにやさしく訊く。彼女はとても洞察力が高くて、わたしがなにも言わなくてもいろいろと察していてくれているようであった。
「……万年肩こりがさ、治ったんだよね」
と呟いたわたしに「そりゃ、通うしかないね」とキキちゃんは笑って、わたしの肩をバシバシ叩いて活を入れた。
◇◆◇
その日は運悪くふたりそろって沖縄のスコールにやられ、びしょ濡れの状態だった。半袖の制服のシャツが身体にぴったりと張り付いてしまって、見かねた永四郎がわたしに部活のジャージを貸してくれる。あまりにもひどいありさまだったので、永四郎が「うちでいったん雨宿りしますか」と気を使って提案してくれた。
永四郎の家には何度か遊びに行ったことがある。ペットのピッキーにあいさつをしてから、家族にもあいさつしようとしたら、どこにもいなかった。留守らしい。家のひとがいないのに上がり込んでいいのかな、と思いつつ、永四郎からバスタオルを受け取ってシャワーを貸してもらった。さっと浴びて、わたしが髪の毛を乾かしているうちに永四郎もシャワーを浴び終えた。ワックスでセットされていない無防備な髪型の彼が新鮮でときめく。彼女だけしか知らない彼氏の姿。「やってあげる」と言ってドライヤーで彼の髪も乾かしてあげた。意外とサラサラでツヤツヤの髪が指と指の間を通るとくすぐったい。「乾いたよ」とドライヤーを置いて、まだシャンプーの香りが残る永四郎に抱きつく。外はまだ雨が降り続いていた。スコールにしては長雨だ。降り止むまでは帰れない。眼を閉じて、キスをして。背後にはベッド。都合よく家には誰もいない。
なのに、永四郎は、「はい、終わり」とわたしの身体をひょいっと横にどかした。
「なんで」
「なんでって当たり前でしょう。俺たち学生ですよ」
「……こんなときだけ優等生」
「俺はキミとちがっていつも優等生ですが」
「……みんなしてるもん」
「赤信号みんなで渡ったら最悪みんな死にますね」
ふてくれてるわたしに永四郎が、はぁ、とため息をつく。
「あのね、もしもの場合、どうしたってキミに負担が大きすぎる」
わかってるの、と冷静に諭されて、それでもねだったがダメだった。そうこうしてるうちに永四郎のお母さんと妹が帰ってきて、夕飯までごちそうになって、車で送ってもらって、その日は家に帰った。お母さんは「いい彼氏ね」と永四郎のことをよく褒める。わたしもそれに異論はない。でも、だからこそ、もっとと望む心がある。永四郎のすべてがほしい。永四郎の忙しい部活の合間をぬって「抱いてー!」と直訴を続けてみたが、永四郎がわたしを抱くことは結局一度もなかった。大学でそろって沖縄を出たけど、いろんなすれ違いもあいまって、大学一年生の秋にわたしたちは別れた。別れたい、と言ったのはわたしだ。
「いやですよ」
「へ」
「いやです」
「えっと……」
久しぶりのデートだった。そして、たぶんこれが最後のデートになる。
カフェの店内は広くて、ボックス席は意外と周りが気にならない。
永四郎が、深いため息をはく。
「一つ忠告しておきますが、俺よりいい男なんてそうそういませんよ。撤回するなら今のうちだ」
鋭い視線がわたしを見据えた。わたしはそれを正面から受け止める。とても動揺したけど、ここで狼狽えたらダメだと思って唇を噛み締めてなんとか耐えた。散々迷って、悩んで、泣いて、自分で決めた。もう振り返らない。
わたしはもっとちゃんとわたしのことをすきなひとがいい。自分がすきなだけじゃ満たされない。
睨めっこはずいぶん続いた。先に勝負から降りたのは永四郎だった。
永四郎は「勝手にすればいい」と言い捨てて、席を立った。置いていかれるのかと思ったが、お手洗いらしい。
「で、なんですか、これ?」
手洗いから帰ってきた永四郎はちょっと目を離した隙に自分たちのテーブルに所狭しと並べられている頼んだ覚えのない料理に絶句した。
「ぜんぶ食べ切るまで帰れまテン! 迷ったものぜんぶ頼んだ! 一緒に食べよ!」
最後のわがまま、と付け足せば、それ、フラれた方の権利では? と永四郎の眉間にますますシワがよる。
「まぁ、細かいことは気にしない! おなか空いてると悲しくなるでしょ。おなかいっぱいなら多少紛れるかなって」
「それはお気遣いどうも」
最初は機嫌の悪かった永四郎もだんだんもうしょうがないと諦めて、最後はふつうにときどき笑顔も交えながら一緒に食事をしてくれた。勝手だけど、やっぱり最後は笑顔がいい。
楽しくおなかいっぱいサンドイッチやパスタやケーキを食べて、コーヒーをそれぞれ二杯おかわりして、わたしたちは笑顔で別れた。「じゃあ」に「またね」をつけないで、さよならして、別々の道でそれぞれの家に帰った。
それからわりとすぐ、わたしには新しい彼氏ができた。初体験もその人とした。正直な感想は、なんだこんなものか、だった。ちゃんとすきで付き合ったし、するまえはどきどきしたけど、したあとはそんな感じだった。それで、いつのまにか会うたび求められるようになって、ある日「今日はシたくない」って伝えたら、「じゃあリスケしよっか」ってデート自体もなくなって、これはわたしの身体を気遣ってのことなのかもって思い込もうとしたけど無理で、半年も経たないうちにそのひととは別れてしまった。次のひとも、その次のひとも、ちがうけど同じ。誰と付き合っても、永四郎ならこうしてくれるのに、永四郎ならこんなことしないのに、永四郎なら、永四郎なら──……。
早く上書きしたくて永四郎よりいい男をやっきになって探した。このひとは、永四郎よりかっこいい? 永四郎より賢い? 永四郎よりやさしい? 勝手に比べて、勝手に落胆して、勝手にすきじゃなくなって。最低だった。わたしは永四郎よりいい男を探してたんじゃない。永四郎を探してたんだ。そんなの見つかるはずなかった。
月日は流れ、大学を卒業して、わたしは就職をした。わたしもだいぶ落ち着いて、昔よりマシになった。はず。もう永四郎よりいい男を見つけようなんて考えてない。わたしをすきになって大切にしてくれれば、それでいい。けど、それも全然うまくいかなかった。
「あまり数値には変化ありませんね」
今日はジムの日だ。仕事を終えて、いつものように更衣室で着替えて、マシンエリアに向かうと木手くんがすでに待っていた。その均整の取れた美しいスタイルは遠目でもすこぶる目立つ。たぶん、いまこのジムにいる誰よりもかっこいい。モテるんだろうなあ、とぼんやり思う。
今日はまず入会時からこれまでの変化を記録したデータを見せると言われて、木手くんが操作するタブレットを覗き込んだ。いろんな数値がびっしり並び、折れ線グラフやレーダーチャートが多すぎてわかりにくいが、木手くんがズバリ言ったとおり、あまり変化のないことはパッと見でも明らかだった。ジムに入会してたかだか一カ月。激しい運動をしているわけじゃないから、そんなもんだろうとは思っていたが、これほどまでに平坦な図を見ると、がっかりというのが本音だ。
「でも、ココは少しだけ伸びてる」
木手くんが『基礎代謝』と書かれた部分を指差した。たしかにその数値だけがちょんと上に伸びていた。「自宅用のトレーニングメニューはどれくらいの頻度で?」と尋ねられ、食い気味で「ちゃんと言われた通り毎日やってます!」と主張した。
「なら、その成果ですね」
思いがけず木手くんに褒められて、パッと気持ちが明るくなる。それが外から見てもまるわかりだったのだろう。木手くんはかすかに笑って、それから「がんばりましたね」と付け加えてくれた。
再会して、はじめて見た木手くんの笑顔。うれしい。これを機にまた昔のようになんて虫のいいこと言うつもりはない。けど、ぜんぶがぜんぶいやな思い出ってわけでもないと思うから、「あのときは」なんて語りあえたら、それはそれできっと楽しいと思うんだ。
そのままご機嫌でストレッチとランニングをしていると、そろそろ別のメニューも追加しましょうか、ということになった。拷問器具みたいなゴツい椅子マシンに座らされて木手くんの指導を受ける。肘を肘置きに置いて真上の棒を掴んで、それをぐーっと前に倒す。何度かやるうちにコツを掴めてきた。と、思ったがそれは思い上がりで、「身体を起こした時に腰が反らないように」と木手くんから注意が入った。
「もっとおなかに力をいれて」
木手くんの大きな手がスッとわたしのおなかに伸びてきて、ビクッと肩が跳ねてしまった。いきなりだったから驚いてしまったのだ。木手くんはすぐに「失礼しました」と手をひっこめてくれたが、気まずい空気。やってしまった。せっかく少しは打ち解けられたと思ったのに。わたしはなんとか挽回しようと、「全然気にしてませーん」というオーラを全身で放ってみたが、木手くんには効かなかった。結局その日はそのまま最後まで微妙な雰囲気で終了となる。ありがとうございました、とあいさつだけでもいつもどおり笑顔でして帰ろう。すると、木手くんが先にわたしを呼び止めた。
「担当変えますか」
「なんで?」
突然だったのでついタメ口になる。
「女性が希望だったでしょう」
「まあ、それはそうだけど……」
「お金を払っている以上あなたにはその権利があるんですよ」
木手くんはわたしの答えを待たずに、「ご希望ならフロントで手続きを」と残しスタッフオンリーと書かれたドアの向こうへ去ってしまった。
取り残されたわたしは、馬鹿みたいにその場からしばらく動けなかった。
◇◆◇
「さん、今日お休みの連絡入りました」
出勤すると、デスクワーク中のスタッフに声をかけられた。了解の返事をして、自分もデスクに座る。フィジカルがメインのこの仕事だが、もちろんデスクワークもある。とは言っても担当分のメニューを作成したりが主な軽作業だ。タブレットは入力しづらいので、ノートパソコンを立ち上げて、必要な項目を入力していく。今日最初の担当は三十代後半の男性だ。プライドが高く、細かいこだわりが強い会員なので、新規メニュー提案時にはそれなりの説得力をもったプレゼンが必須なため、その準備をはじめる。スケジュールを管理するアプリをたちあげ、その男性が受講している枠をクリックした。さっきスタッフに言われたとおり、その枠の下の二十時からの枠は、休みをしめす赤色に変更されていた。が、担当の欄にはまだ自分の名前が表示されていた。
彼女と付き合っていたのは、もうずいぶん昔、高校生の頃の話である。彼女は本土からの編入生で、慣れない環境に戸惑っているところを見かねて少し手を貸したことがきっかけで懐かれてしまった。「ねぇねぇ木手くん」と周りをちょろちょろされて鬱陶しかったのだが、どんなに冷たくあしらってもめげない根性に負けて付き合うまでになった。「ねぇねぇ木手くん」が「ねぇねぇ永四郎」に変わってもあとはとくに変化はない。彼女は相変わらず俺といるときはずっとうれしそうで、楽しそうだった。
「ねぇねぇ永四郎」
「なんですか」
「永四郎はさ、もう進路とか考えてたりする?」
まだ高一の秋。自分の将来について真面目に向き合う様子の少ない同級生が多い中、彼女からそんな質問をされたのはいささか意外だった。
「まだはっきりと確定してはいませんが、県外に出ようとは思っています」
彼女に嘘をつく理由はない。自分の可能性を広げるためにもそれはほとんど自分の中で決定事項だった。
彼女は「あ、やっぱり? そうだと思った」と言って笑う。自分の予感が的中したのがよほどうれしいのか、うんうんとしきりに頷いてから、「わたしもがんばらなきゃなあ」と続けた。べつにすきにすればいい。彼女の都合に合わせて自分が進路を変更する気はないので、どうしても同じ学校に行きたいというのなら、相当な努力が必要だが、そのことを彼女が理解しているかあやしかった。が、まあいい。都市部には腐るほど大学はあるし、専門学校もある。彼女の家の経済状況なら、どの選択肢だって自由だろう。同じ学校は無理でも、近くに住める可能性は高い。遠距離なんてことにでもなれば、彼女がピーピー喚くのは目に見えているが、それはわりとあっさり回避できそうだった。
だから、高二になって彼女の志望校を知ったとき、まず驚いた。先日配られた進路希望調査票。彼女のそれに書かれた学校名は自分が書いたものとは違うもので、しかもそうあっさりやすやすと入れる部類の学校ではなかったからだ。
「……まぁ希望はあくまで希望ですからね」
「ひど〜〜永四郎までそんなこと言うのぉ」
「ちなみになぜその大学が志望校なんですか」
なんかおもしろそうだから! と答えた彼女に頭を抱える。もう高二の冬だった。そろそろ現実を見たほうがいい。
「浪人したら遠距離ですね」
「キーッ、自分だけすでに受かった気でいる!」
そんな高望みせず確実に受かる場所を選べばいいのに。とは、さすがに口には出さなかったが、思ってはいた。けれど、見守ることにした。
「永四郎! 永四郎! 受かった! わたしも受かったよ! やったあ!」
電話で合格発表の連絡を受けたとき、心底ほっとしたのは言うまでもない。受験がどんどん迫っても「大丈夫大丈夫ピースピース」みたいな能天気な彼女に代わって負っていた心労がなくなったので、一気に身体が軽くなった。
「お、永四郎どうした?」
連絡を受けたときにそばにいた平古場クンが「なんかいい知らせかあ?」と訊いた。
「ええ、彼女が志望校に受かったそうで」
「おお、よかったさあ。ま、いっぺーがんばってたからなあ」
平古場クンがあまり驚いていない様子なのが意外で、どうしてなのか尋ねたら、「そりゃあ暇さえあれば勉強してんの見てたからよ」と返ってきた。平古場クンは今年U-17には参加していない。その間のことだという。だとしても驚いた。いや、真面目に勉強していたのは知っていたが、正直そこまでとは思っていなかったのが本音だ。が、思い返せば、これまで部活に遠征にと忙しくしている間、それこそ彼女がなにをしていたかなんてあまり考えたことがなかった。会えばどんなときも笑顔で、「がんばってね」と送り出してくれた彼女。会えない日々を不安に感じたことなど一度もなかった。たぶんそれは彼女のおかげだった。
「永四郎はもっとに感謝したほうがいいさあ」
もちろんそうすべきだと思っていた矢先に、彼女から「別れたい」という申し出があった。上京してからしばらくしてのことだった。お互い思った以上に忙しく、同じ都内なのに会えない日々が続いていたが、それはいってみれば相変わらずなことなので、そこまで重く受け止める必要はないと考えていた中の出来事だった。テニスは高校卒業を期にやめていた。学業はあるが、時間ならいままでよりはつくれる。なのになぜ。
理由は訊かなかった。彼女も言わなかった。他にすきな男でもできたのかもしれない。このタイミングでの別れなら、それが一番可能性が高かった。
彼女は最後まで笑顔のまま、「じゃあ」と言って俺に背を向けた。彼女とはそれきり一度も会っていなかった。
「さん、今週も欠席ですね」
二週連続の休み。担当を変えることもできると提案した日以来、彼女はジムに来ていない。しかし、引き続き担当変更もしていなければ、休んだ分の振替の申請もない。これではただの払い損になる。こういったことに対してこちらからアクションを起こすことは基本的にない。ただただ毎月決まった額の料金が彼女の口座から引き落とされるだけである。
彼女がはじめてこのジムを訪れたときは本当に驚いた。彼女の表情から察するに彼女もそうだろう。だから、再会はまさにアクシデントだった。そもそも彼女は女性のトレーナーを希望していた。もし仮に入会するとしても、担当は変わることになるだろうと思っていたのに、予想に反してそうはならなかった。
彼女の真意が掴めないままだった。この再会を密かに喜び、あわよくば元鞘になどと考えているのだろうか。この俺をフって他の男の元へ行ったくせに? どの面下げてという話である。が、彼女が泣いて詫びて赦しを乞うというなら──……。
なににせよ毎日真面目に家でもメニューをこなしていたらしい彼女の地道な努力は認めてやりたかった。ジムはここでなくても他にもいろいろある。もし、また来週も彼女が来ないようであれば、一度事務局の方から意思確認をしてもらえないか訊いてみよう。
そして、翌週。ちょっとした事件が起こった。金曜日の午前中、エントランスのガラスに台風で飛んできた街路樹の枝が刺さり、大破してしまったのだ。幸い怪我人はでなかったが、ビル正面のガラスが衝撃ですべて割れてしまったので、修理が終わるまでは、営業をストップせざるを得なかった。今月は台風続きである。すぐ会員にその旨のメールが一斉送信され、今日このあとレッスンが入っている会員には電話もした。突然の営業停止で、ぽっかり空いた時間。同僚たちは久しぶりに呑みに行こうと盛り上がっていた。ガラスが割れた原因の台風もいまはおとなしい。
呑みの誘いは丁寧に辞退し、途中だったメニューづくりをするためにひとりスタッフルームに残った。エントランスはひどい有様だが、奥のスタッフルームはなんの影響もない。誰もいない静かなスタッフルームは仕事が捗った。時刻を確認すると十九時五十分。あと少ししたら、帰ろう。というところに、「あの〜すいませ〜ん」とエントランスの方から声が聞こえてきて、急いでかけつけた。
真っ暗闇でどこも照明がついていない受付で、不安そうに立っていたのはほかでもない彼女だった。
彼女は俺を見つけると、パッと顔を輝かせた。
「どっから入ってきたんですか」
「え、どっからってあそこからだけど……」
と彼女が指差す先はガラスのない窓枠。そこにはブルーシートがガムテープで貼り付けられていたはずだが、いまは剥がれ落ちていた。たしかにそこから侵入することは可能だろうがふつうはしない。
「怪我ありませんか」
「え、これなに? どうしたの?」
「もしかしなくてもメール見てない? 電話も?」
「なんのこと??」
まったく様子のわかっていない彼女に現状を説明すると、「え〜〜今週こそはってがんばって来たのに〜〜」と激しく落ちこまれた。
「先々週は風邪で、先週は出張で、やっと今日こそってなんとか残業回避して来たんだよ」
「それはお気の毒さまです」
念のため残っておいてよかったと思う。彼女ならこういうことをやりかねないと睨んでいたことが見事そのまま的中した。途方に暮れている彼女に追い打ちをかけるように今度は彼女の腹のむしが鳴く。彼女は「うぅ〜……」と腹を抱えて、さらに落ち込んだ。
「なにか食べに行きますか。あまりにもかわいそうなので奢りますよ」
おなかが空いていると悲しくなるんでしょ、といつかの彼女の言葉を借りて彼女を促した。
「おすすめはソーキそばです」
「じゃあわたしそれで!」
「すみませんソーキそば二つ」
ジムの近くにあるひそかに行きつけの沖縄料理屋に彼女を案内した。昼間は定食屋として栄えている店だが、夜は酒も呑める。金曜日の夜ということもあって、店は混雑していて、カウンター席しか空いていなかった。
ほどなくしてソーキそばが二つ、運ばれてきた。
「うわあ、懐かしい香り〜〜おいしそう! いただきま〜す!」
彼女は料理を目の前にしただけですっかり元気を取り戻したらしい。割り箸を割って、さっそくたべはじめる。ひとくち、ひとくち噛み締めて、「しあわせ〜〜」と喜んだ。
「沖縄料理、ふだんあんまり食べないの? すきだったでしょう」
「うん……まぁすきはすきなんだけど……」
「なに?」
「いや、わたしにとっての沖縄ってほぼイコール高校時代なのね、それでその……」
言いにくそうにしている彼女を見て、そういうことかと悟る。
「俺はそんなに思い出したくもない彼氏でしたか」
自分で言って傷ついた。が、すぐに彼女から「ちがう! ちがう!」と全力の否定が入る。
「そうじゃなくて、自分の黒歴史。黒歴史ていうかバカだったなあって」
彼女が「いまだから言えるんだけど」と小さな声で本当に恥ずかしそうに話しはじめた。
「付き合ってた頃、わたし『抱いてー』って叫んでたでしょ。あれ、半分冗談だと思ってただろうけど、結構本気だったんだよね」
懐かしい記憶を掘り起こす。最初は控えめに、しかし徐々に大胆になった誘惑はあまりにも色気がなくて、正直呆れていた。もう少し言い方ってもんがあるだろう。とはいえ、どんなに迫られようと彼女を抱く気はなかった。もちろん、それは彼女に魅力が足りないからではない。
「ひととの関係の単位って長さもあるけど、深さもある気がするんだよね。あの頃のわたしはそういうことすれば深くなれると思ったんだよ。永四郎と深い仲になりたかったの。深くなれば、さびしくなくなるんじゃないかなって」
さびしかっただけなんだ、とこぼした彼女が笑った。でも、それはいつもの溌剌な笑顔ではなく、憂いを帯びた微笑みだった。もう少女とは呼べない大人の女はそこにいた。
「さびしさに負けない女がいい女って聞くけど、ならわたしはダメな女だったんだなあって」
きちんと責任が取れる立場になるまで、彼女から抱いてとどんなに請われても抱かないのが正しい愛だという自負があった。いっときの快楽に溺れて堕ちるなんて馬鹿馬鹿しい。彼女を思えばこそだ。そして、それを実行できる自分に酔っていた。
あのときの自分が間違っていたとはいまでも思わない。でも、彼女の本音を聞いて、独りよがりな愛を遂行するより、もっと彼女の心の声に耳を傾けるべきだったと反省する。
「……キミはいい女でしたよ。あの頃の俺にはもったいないくらいに」
「嘘だあ」
「いえ本当に」
「え〜〜でもせっかくそう言ってくれるならとそういうことにしておこうかなあ。そうだ! 『モンドセレクション』とか『グッドデザイン賞』とかみたいに『木手永四郎おすみつき』って金バッチを胸に貼ったら、ひょっとしてわたしものすごくモテるのでは?」
彼女が誇らしげに胸を張るもんだから、つい笑ってしまう。彼女もつられて笑いだした。
よくあるすれ違い。ありふれたバッドエンド。でも、物語は本当にもう終わってしまったんだろうか。
ソーキそばだけのつもりが、話が弾んで、あれもこれもと注文して、お酒も呑んで、久しぶりに楽しいと思える夜を過ごした。
未練なんてなかった。
お互い納得して別れた。
もうすっかり忘れていた。
なのに、彼女がふたたび俺の目の前に現れた瞬間、そのどれもが自分自身に言い聞かせてきた嘘だと自覚させられてしまった。
昔からキミじゃなきゃダメなのは俺の方だ。
「そういえばさ、ジムのひとってこうやってお客さんと個人的に会っていいの?」
彼女がなにをいまさらなことを訊いてくる。
「バレなければ問題なしですよ」
と返せば、「永四郎らしい」と彼女は笑った。
店を出る頃にはすっかり雨は降り止んでいた。
「じゃあ」
これから近くで呑んでいる知り合いと合流するという彼女は駅とは反対方向へ歩き出した。
店を出る直前、彼女が手洗いに立っているあいだ、置きっぱなしになっていた彼女のスマホの画面にいわゆる出逢い系のアプリの通知が光っていたのを知っている。
泣いて詫びて赦しを乞わねばならないのは、どうやらこちらの方らしい。
呼吸を整えて、一歩踏みだす。靴が水溜りを踏んだ。
「待ちなさいよ」
彼女の腕を掴んで引き留める。
今度こそ間違えない。
◇◆◇
おまけ
「……まだ呑みたりないなら俺が付き合います」
「え、ほんとにやったあ」
「お店どこにしよっか」
(ここからそう遠くないところで……いや同僚に会うのはまずいか)
「特になければ見つかるまでとりあえずそのへんフラフラ歩こっか! おさんぽおさんぽ! 呑みたいっていうか話したいって感じだから全然それでオッケー。いい運動にもなるしね!」
「さびしいの?」
「……ま、そんな感じかなあ」
「永四郎はさ、アプリとかそういうのはやらないの?」
「やりませんね」
「え〜ふだんどうやって出逢ってるの?」
「企業秘密です」
「いやでもアプリはおすすめしませんよ、ほんと。なんかさ、お互い目的がはっきりしてるからこそ値踏みからはじまっちゃうっていうか、しかも最初は盛っちゃうから、二、三回目くらいで会うのキツくなるし……」
「はあーあれもこれもぜんぶ永四郎の呪いのせいなんだからね! 『俺よりいい男なんていない』ってあれ! もう、ほんと責任とってほしい」
「いいですよ」
「え」
「責任、喜んで取らせてもらいます」
「あ、え、どういう……酔っ払ってる?」
「あの程度で酔ったりしませんよ」
「……ほんとにいいの?」
「キミが赦してくれるなら」
「赦す?」
「俺にもう一度チャンスをくれますか」
「〜〜っ抱きついてもいい?」
「路上なのでダメです。抱いてほしいなら、あちらへ」(とビカビカネオンの光る妖しいホテルを指す)
「え、いいの? え、でも待って、わたしいまちょっと身体がとろとろしてて……」
「おおよその体型は把握していますよ」
「いや、直で見るとまたちがう趣があるというか……あ、あと三カ月くらい待ってくれるかな?」
「無理ですね、そんなに待てるわけがない。諦めてください」
「鬼!」