家に行く前にレンタルビデオ店に寄ることになった。
せっかく一晩一緒にいれるんやから、ゆっくり映画でも観ようや。
夕食を食べるために入ったファミレスで、侑士先輩が言ったその申し出に、私は深く考えもせず返事をした。
「はいはい、いいですよー! あ、来た来た! わーい、美味しそう!」
そのときの私の意識は、今しがた運ばれてきた油が踊る焼きたてのハンバーグ一点に注がれていた。
私は食べ物を前にすると他のことをとりあえず後回しにしてしまう、という困った癖がある。
以前、先輩にも「“はい”は一回! 人の話ちゃんと聞きかんで適当な相槌打っとったら、いつか絶対痛い目合うで」と窘められたことがあった。
けれどやっぱり焼きたてじゅわ〜っで立ち上る湯気さえ美味しいハンバーグの魅力には敵わない。
結局そのときも私は適当な返事をしてしまった。
このことを数時間後に後悔するはめになるとも知らずに、私は「いただきまぁす!」とナイフとフォークを手に取って大きな一口を頬張った。
◇◆◇
「お、。これなんかどうや?」
そう言って先輩が指差したのは、少女漫画が原作のこてこてのラブロマンスだった。
思わず「うわぁ……」と心の中でつぶやく。
新作らしく、表を向いて並んでいるDVDのパッケージはピンクのハートがこれでもか、というほど乱舞していた。
「あのですね……先輩、私、これを機に提案したいことがあるんですけど……」
ファミレスでレンタルビデオ店に寄ると言われたときに、こうなることに気づけなかった私が悪いが、仕方がない。ハンバーグの所為である。
乙女全開のパッケージを手に取り、裏のあらすじをふむふむと呼んでいる先輩に、遠慮がちに声をかけた。
できれば言いたくないことだったが、もうこの際、白状してしまおう。
先輩は、映画館でも家でも毎回率先してこういうジャンルのモノを選ぶから、よっぽど好きなんだろうなぁ、とは思っていた。
今までそれをとやかく言うことはなかったが、さすがにそろそろ限界だ。
このままでいくと今日はラブロマンス三連発! なんてことになってもおかしくない雰囲気だ。そんなの絶対耐えられない。
言いたいことをずっと我慢してるのって健康にもよくないって言うし! と覚悟を決めて、「どないしたん?」と不思議そうな顔をしている先輩に身体を向けた。
「ラブロマンス系一緒に見るのやめません?」
スゥーっと息を吸って、一気に言った。
言ったあとは先輩の顔をなんだかまともに見れず、うつむく。
「なんでや?」
「……いや、なんていうか……」
「はっきり言うてくれへんとわからへんで?」
「……なんかそういうシーンになるとちょっとどうしたらいいかわからなくなるといいますか……」
「そういうシーン?」
「……こう、なんか、イチャイチャといいますか……」
「ああ、ラブシーンのことか。どうもせんでええんちゃう? 前向いて映画観とったらええやん」
「いや、確かにそうなんですけどね。そうなんですけど、なんか居心地が悪いといいますか……ほら、家族で日曜洋画劇場とか観てて、急にそういうシーンになっちゃって気まずくなったこととかありません?」
人様のそういうところを見るのってなんだか申し訳ない。
しかもそれを誰かと一緒に観てるって状況がさらにシュールな気がして、途端にどんな顔をしたらいいかわからなくなるのだ。
「あるでしょ? ね? ね?」と最終的には先輩の腕を掴んで必死に同意を求めると、先輩は急に横を向いて、もう我慢できないとばかりにプッと吹き出す。
そのまま身体をくの字に曲げて本格的に笑いだすので、まわりのお客さんも私たちのことをジロジロと見てきてさらに恥ずかしい。
「も、もう、ちょっと、先輩!」
「あー自分、ほんまおもろいなぁ」
「なんですかそれ!」
「必死すぎて目がマジやったで」
「あぁ、おっかし」と漏らす先輩は、もはや笑いすぎて、涙まで流していた。それを器用にレンズの隙間から指でぬぐっている。
「自分、いっつもラブシーンになるとめっちゃ挙動不審になってたもんな」
「え! 先輩気づいてたんですか!」
「おん。それがあまりにもおもろいからわざわざずっとラブロマンス系選んでてん」
「き、鬼畜! なんですかそのドSな楽しみ方!」
ことの真相を明かされ憤慨する私なんかほって先輩は奥の棚に移動する。
私はそれにはついて行かず、むすっと立ち止まっていると、先輩が棚からぴょこっと顔を出した。
「ほな、こっちにする?」
そう言って手にした新たなDVDのパッケージをこちらに向けた。
さっきのピンクのハートのファンシーな雰囲気とは打って変わって、白と黒を基調にところどころに鮮烈な赤が飛び散っているそのパッケージは触るのも躊躇われるほどおどろおどろしい。
「嫌です、嫌です、絶対嫌です! なんで今年最後の日にわざわざ呪われなきゃいけないんですか!」
ホラー映画なんてなんでこの世に存在するのかわからない。
何故わざわざお金を出して怖い思いをしなければならないのだ。ラブロマンス以上に意味がわからない。
私はぶんぶんと首を千切れんばかりに振り、先輩の大きな背中を押し、そのDVDを元あった場所に戻させる。
「自分、ほんま期待を裏切らんな」と先輩は私の反応を見て、またも爆笑。
私はそのとなりでだんまりだ。そろそろ私、怒っていいかな?
「もうわかりました。侑士先輩が私で遊んでるということは」
本格的に腹立たしくなってきた。
キッと睨んで先輩に背を向ける。
「ごめんって。ちょおからかい過ぎたわ」
「私、怒ってますよ」
「帰りにアイス買うたるから堪忍してや」
「子供扱いしないでください!」
「アイスいらへんの?」
「いりますけども!」
「ほな、帰ろうか」と笑いながら手を取られ、結局何も借りず店をあとにした。
「アリガトウゴザイマシター」と声をかけたカウンターのスタッフは不機嫌を隠すことのない表情で私たちを見送っていた。
今年最後の日の夜の街は、とても静かだった。
遊びに出かける人はもう行ってしまったあとだろうし、特に予定のない人は家でのんびり紅白やガキ使でも見るか、て時間だからだろうか。
陽が落ちてだいぶ経つから、外は心底寒かった。息を吐くとすぐに白く可視化され、それを見るとより一層寒い気がしてくる。
彼の家族は今日、揃って温泉旅行だそうだ。
先輩はギリギリまで部活があったため、一人家に置いていかれたらしい。
せやからウチ、泊まりに来おへん?
そう誘われたのは先週。部活終わりの部室で帰り仕度をする先輩を待ってるときだった。
私はその誘いにもこれまた二つ返事で快諾した。そのときは確か、ジロー先輩からもらったムースポッキーを向日先輩たちと取り合っていたからだ。
「アイスどれにする?」
「コレとコレ」
「なんで二つやねん」
「夜用と朝用」
「朝も食うんかい」
「休みの日の贅沢です! いいですよね?」
さっき私を怒らせた手前聞かざるおえないと思ったのか、先輩は「わーった、わーった。好きにしい」と二つともレジカゴに入れてくれた。
「先輩、映画借りなくてよかったんですか?」
「借りてよかったん?」
「いいですよ。ラブロマンスとホラー意外なら」
「ハハハ! まぁ、でもええわ、今日は」
アイスを買ったコンビニを出て、再び夜道を二人で歩く。
二つもアイスを買ってもらえた私は単純で、早くもさっきまでの怒りの大半を忘れてかけていた。
せっかくの日なんだからプリプリしててもいいことないし。
私のこの深く物事を考えない性格もたまには役にたつよなぁ、と先輩の固い手を握りながら歩く。
それから、数分も経たないうちに先輩の家に着き、先輩は慣れた手つきで門を開け、鍵を回した。
「お邪魔しまーす」と入ったそこは、もちろん誰もおらず冷んやりと薄暗い。
シャリン、と鍵束が置かれた音がやけに大きく響いた。
先に入った先輩は電気をつけてくれるかと思いきや、何故か靴を脱ぎもせず、そのまま玄関に立ち止まって動かない。
「侑士先輩?」
不審に思い、後ろから名前を呼んだ。
しかしそのあとの「どうしたんですか?」という私の声は途中で宙に消える。
突然振り返った先輩に抱きしめられたからだ。
「ちょ、先輩?」
「お前、親が留守のときにあの人の家に上がりこむなんて、どういう神経してるんだ? 馬鹿なのか?」と日吉の軽蔑するような顔と「これ、姉のなんだけど、に貸してあげるね」と防犯ブザーとスタンガンを渡してきた長太郎の心配顔がフラッシュバックする。
私はそのときどんな反応をしたっけ? おそらくそのときもろくに脳みそを動かさなかった。
確か跡部先輩から貰った高級クッキーを夢中で頬張っていたからだ。
自分の浅はかさを今更ながら呪いたい。
軽くパニクってる私なんかお構いなしに、先輩は私を軽々と持ち上げ横抱きにし、部屋に上がる。
そこは勝手知ったる我が家。電気なんぞつけなくても先輩は迷ったり転んだりなんかしない。
そしてふわりと降ろされたのは、リビングのソファーだった。
「子供扱い、してほしないんやろ?」
今日、一晩楽しみやなぁ。映画よりよっぽど魅力的やわ。
耳元で一段と低い艶のある声で囁かれ、全身に甘い痺れが走ったのを感じ、私は思わず目を固くつむった。
けれど一向に先輩は私に覆いかぶさったまま動く気配がない。
不思議に思い、そろおっと瞳を開けると、それと同じタイミングで額に軽い衝撃が走った。
そして私から退き、部屋の電気をパチンッとつける。
私は何が起こったか未だ状況を掴めず、身を起こし、瞬きを繰り返しながら、キッチンに入っていく先輩の背中を目線だけで追った。
先輩は何事もなかったかのように手にしていたビニル袋からアイスを取り出し、冷凍庫にしまっていく。
「驚いた?」
「……ハイ」
「今日、誘ったんはこういうことやって、やっと理解できた?」
「……ハイ」と先ほどよりさらに力ない声で返した。
先輩はそれに苦笑いをして「そら、よかったわ」と言いながらガラスのコップに水を注ぎ、こくこくと喉仏を上下させる。
「まぁ、俺もそこまでがっついてへんから安心しい」
先輩は水が入ったコップを片手に私のとなりに腰を下ろした。
はい、と差し出されたそれにゆっくりと口をつけながら、まだ身体から飛び出してしまいそうなほど暴れる自分の心臓を必死押し込める。
別に嫌だったわけじゃない。本当に予期してなくて、ただ驚いただけだ。
先輩は、こんな風にときより私の心をわざと揺さぶって、頭を動かす機会を与えてくれる。
私の脳みそが危機的状況じゃないと働かないことを先輩はわかっているのだ。
追い詰めて、追い詰めて、最後はこっちが拍子抜けするくらいあっさり手を放し、私が自分から動けるようになるまで、じっと静かに見守り待っていてくれる。
「お前、それを“優しさ”って思ってるんだったら呑気なもんだな。俺にはどう考えても罠にかかった小動物を観察してるようにしか見えねぇけどな」と鼻で笑ったのは跡部先輩だ。
そんな跡部先輩に「私、侑士先輩が“優しい”から好きになったんじゃありませんよ?」と答えたら、珍しく驚いた顔をしていたっけ。
「先輩」
「ん?」
「……とりあえず、年越しそばの用意しましょうか」
「また食いもんかい」
「年越しそばは一年に一回しか食べれないんですよ? 逃したら損じゃないですか」
「ハイハイ」
「“はい”は一回!」
「……お前なぁ」
またデコピンされそうな気配を感じて、先に手を打つ。
先輩のちょっと乾燥した白い頬に唇を寄せて、ちゅっと音をたてた。
この人は、相手が動かないかぎり動かない。否、動けない。
最終決断は相手にさせて、言い訳できる余地を残し、自分の立場を頑なに守る。
事後にもし何か相手に非難されても「やって自分、ええって言ったやろ?」って、すかさず盾をかざせるように。
そして何より、相手が自分を受け入れてくれたという確証がないと不安で何もできないのほど臆病なのだ。
そんな狡くて弱いどうしよもないところを好きになったんだと伝えたら、先輩は泣いちゃうかもしれないなぁ、とぼんやりと思った。
「先輩、そばとアイス食べ終わったら、先輩のしたいことしていいですよ」
先輩は「そおか」と小さくつぶやいて、ほっとしたような表情を浮かべたように見えた。