運悪く昼休みに先輩に捕まり、今日の忘年会の余興に使う物やら何やらの細々とした買い出しを押し付けられてしまった。
「最後までしっかり頼むよ」と背中を励ますように叩かれて、「ハイ、ありがとうございます」と頬を緩める。
しかし渡された買い出しリストのメモを見てげんなり。
〈サンタクロース(ミススカート)×2〉ってなんだよ。誰が着るんだよ。
その他つらつらと書かれている物も似たりよったりなパーティーグッズ。
これなら大通りのペンギンマークのバラエティーショップで事足りるだろう。
朝、出勤前に買ったサンドイッチを手早く口に放り込み、事務所の端に置かれているスタッフ共用の折りたたみ自転車を持って館内の裏口から表に出た。
暖房で暖められていた身体が凶暴な外気にさらされて、思わず身震いする。
これから自転車でこの風を切るかと思うとゾッとするが、今更何を言っても仕方がない。
そういえば今朝出掛け際に見た星占いは十一位だった。
〈突然のハプニングに要注意!! ラッキーアイテムはアフガン・ハウンド種の犬のキーホルダー!〉
アフガン・ハウンド種の犬とは確か毛足が長い優美な狩猟犬のことだ。あまり詳しくないが特殊な犬種だということは知っている。少なくとも街中で散歩なんかさせてるのは見たことがない。
そんな犬のキーホルダー持ってるわけないだろ、バカやろう。
ガチャンガチャンと少々乱雑に折りたたみ自転車を広げ、私は覚悟を決めてペダルを大きく漕ぎだした。
メモを片手に、物品がうず高く積まれて狭い店内を歩き回っていると、ドンッととなりの人と肩がぶつかってしまった。
すぐに「すみません」と謝ろうとした瞬間、別の誰かによって動きを制された。
ここ界隈は外国人が多いからそれだけで驚きはしないが、ぶつかった人と私の間に突然入り込んできた男は、黒いスーツに黒いサングラスをかけたの屈強な大男で、どうみても普通じゃない。その懐に手をいれてるのは、まさか拳銃ですか? スパイ映画のワンシーンが頭を過ぎり、私は思わず「ひぃっ!」と悲鳴をあげた。
「おい、やめろ」
私がぶつかった人物は、黒スーツの大男に隠れて全く見えくて、後ろから声だけが聞こえてきた。
どこかで聞き覚えのある声な気がしたが、今はそんなことを考えるより謝罪だ。
「あ、あの、ほんと、すみませんでした!」
勢いよく頭を下げる。
きっとどこかの国のセレブがSPを連れて日本にお忍び旅行に来てるんだ。
それで急に「庶民の生活も見てみたい」とかなんとか駄々をこねて急遽こんなところに来たに違いない。
困ったセレブだ。それにしても日本語上手いな。
「相変わらずどんくせぇな」
しかし顔をあげるとそこにいたのは、思いもかけない人物だった。
「……うそ」
目の前にいたのは紛れもない、
◇◆◇
私の学生時代はそれはそれはもう濃かった。
断言できる。きっと他の学校では絶対に味わえなかったであろう思い出が、卒業アルバムに収まり切らないほどあふれている。
体育祭は死人が出るんじゃないかと思うほどの盛りあがりをみせ、文化祭はどこぞのテーマパークかと見間違えるほどの完成度。
跡部のツルの一声で、去年までは北海道か沖縄だった修学旅行がドイツになったときは、他の学年の人たちからかなり羨ましがられたものだ。
我らがキング・跡部様にかかれば、指パッチン一つで味気なかった学校行事も一瞬にして誰もが浮かれるパーティータイムに変える。
跡部様は何事も全力で挑む主義らしい。
初めはなんだかんぁ、と思ってたその傍迷惑な性格も巻き込まれ続けるうちに「次はどんなことするのかな?」なんて楽しみにしている自分がいることに気づいて驚いた。
慣れとは怖いものだ。
楽しかった。本当に。
あの頃は近くにいるのが当たり前すぎて、深く考えることはなかったけれど、今になって思えば私は跡部のことが好きだったんだと思う。
夢に一途なところがいい。数多ある誘惑には目もくれず、まっすぐ前を向いて堂々と光の中を歩く様が美しい。
高スペックがただの飾りになってしまうくらい、跡部本人が魅力的で素敵だった。そんな彼に私は憧れていた。
しかしそれは“恋”と呼ぶには淡すぎて、“愛”と呼ぶには幼すぎた。
私はただただ毎日を一生懸命、全力で駆け抜けた。彼を見習って。
それだけで十分だった。
跡部と最後に言葉を交わしたのは、高校三年生の暮れ頃だ。
もらった成績通知表を片手にぼんやりしているときに、たまたま跡部と出くわした。
「なに辛気臭せ顔してんだよ」
「別にぃ。もともとこういう顔なんですぅ」
「ハッ、相変わらず可愛くねぇな」
「うるさい。べーっだ!」
通常運転の憎まれ口の応酬。
だったはずのに、跡部が急に「なんかあったのか?」といやに優しげな表情で聞いてくるもんだから、つい本音が漏れてしまった。
ずっと子供の頃から自分には夢があること、今まで自分なりにそれを叶えようと努力してきたこと、けれどその努力が思うように結果になって返ってこないこと。
栓を抜いたように、とめどなく流れ出す弱気な言葉。今まで誰にも言ってこなかったのに、何故自分は今跡部なんかにこんなこと話しているんだろう。自分でもよくわからなかった。
跡部はそんな面白くもない私の話を最後まで聞いてから、乱暴に私を髪をかき混ぜるように撫でた。
「ちょ、やめてよ! レディーに対する扱いがなってないんじゃなくて!」
「アーン? どこにレディーがいるんだよ」
「ここよ、ここ! 目の前に! っんもう、つまんない話聞かせて悪うございましたね!」
フンッと鼻を鳴らし、彼に背を向けて歩き出すと、後ろから「おい」と呼び止められる。
不機嫌丸出しの怖い顔で振り返ってやると、こっちが毒気を抜かれるくらい綺麗な表情で、「負けんな、頑張れ。お前ならできる」と言われた。
こっちがポカンとしている間に、彼は余裕の笑みを残し、その場を立ち去る。
——負けんな、頑張れ。お前ならできる
ひどくシンプルな言葉だが、力強く、何よりそれが跡部が放った言葉だということが頼もしい。
それから私は心が折れそうになったとき、めげそうなとき、諦めそうになったとき、いつものその言葉を思い出して、どうにかここまで歩いてきた。
だから今の私があるのは、大袈裟なんかじゃなく、本当に跡部のおかげなんだ。
だから、もしも、もしも、跡部とまた会うことができたら、一言お礼が言いたかった。
ねぇ、跡部、私、——
◇◆◇
「え、跡部、え、なんで? え、帰ってきてたの?」
「ああ。年末の休暇の間だけな。年始になったすぐに向うだ」
跡部は卒業と同時に日本を出ていた。
本来なら日本でお爺様の会社の跡を継ぐというレールを捻じ曲げて、彼は今も自分の夢を叶えるため、ひとりいばらの道を突き進む。
「そういえば、この間、テレビで放映してた試合見たよ。勝ってたね、おめでとう」
「フンッ、まぁ当然の結果だな」
「それにしてもそんな今やみんなの跡部様がドンキなんかに何の用なわけ?」
「向うの友人にここで買った土産物を頼まれてんだよ」
さすがドンキ。お忍びで某有名なロックミュージシャンが来るだけのことはあるな。
実際、豊富な品揃えで人気らしく、海外で出版されている日本のガイドブックに掲載されていると聞いたことがある。
それにしても、まさかこんなところで跡部と遭遇しようとは思ってもみなかった。本当に。
「お前こそ何買ってんだよ」
私が抱えていた〈サンタクロース(ミススカート)×2〉の衣装を見て跡部が鼻で笑う。
「うっ」と声を詰まらせてから「か、会社の忘年会で使うの!」と慌てて弁解した。
「あ、あのさ、跡部——」
そんなことよりせっかく会えたんだ。
言わなくちゃ。ずっと会って話したかったんだ。そう思って声を出そうとすると、後ろで控えていた先ほどの黒スーツの外人が英語で跡部に時間を告げにきた。
「悪いな、これから先約がある」
「さずが、スターは忙しいね」
「まぁな」
「嫌味のつもりで言ったんですけど」
「本当のことだから痛くも痒くもねぇ」
「ハイハイ。私も早く会社戻んなきゃいけないし、じゃあね」
呆気ないさよならだ。
学生の頃みたいに明日が必ずあるわけでもない「じゃあね」は寂しい。
それでも貴重な彼の時間を割いてもらうほどのことじゃない。だってきっとあんなこと言った本人だって忘れてるに決まってる。
「……なによ。約束あるんじゃないの?」
しかしいつまでも立ち去ろうとしない跡部に小首を傾げる。
跡部はおもちゃのキーホルダーを手にしたまま私をじっと見つめていた。
(あ、アフガン・ハウンド種の犬のキーホルダーだ)
「お前、俺に最後に言った言葉覚えてるか?」
「あ、え、へ?……っと学校の廊下で、」
「違う」
「え?」
「卒業式の日。外、桜の前でだ」
跡部に言われて擦れかかった数年前の記憶を必死に呼び起こす。
てっきり跡部と言葉を交わしたのは励ましてくれたあの日が最後ばかりだと思っていた。
卒業式、卒業式、……跡部は答辞を読んでいたな。そして式は恙無く終わり、卒業証書を手に式場のホールから列をなして出る。
そのあとは本来に自分の教室に戻る流れだが、外で待ち構えている後輩に捕まる人も少なくない。
案の定跡部はものすごい人に囲まれていた。
たくさんの女の子たち、それからテニス部の後輩。男女問わず大勢の人が彼の新たな門出を祝い、そして別れを惜しんでいた。
私はそれを遠巻きして、大変そうだなぁ、と笑った。
あ、確かそのとき目が合った。
そして私はそれに応えるように卒業証書が入った筒を片手に口を大きめに動かした。
「“が・ん・ば・れ”」
「やっと思い出したか」
そうだ。あのとき、私は跡部に“がんばれ”と言った。
別に深い意味はなかった。ただ、そのときの彼の状況を見て思った言葉をそのまま伝えただけに過ぎない。
「お前は、単にあの状況に言っただけかもしれねぇがな。俺は今でも、はっきりと覚えてる。怪我をして思うように身体が動かせなかったとき、試合に負けて悔しかったとき、現実に打ちのめされそうになったとき、俺はいつもお前のその言葉を思い出してた」
跡部の手があの日のように私の髪を混ぜた。
そんな風に男の人に触られたのは久しぶりで、そして何よりその相手が跡部だと思うと、私の心はひどく揺れた。
「ありがとよ」
そう言って綺麗に笑う彼を前に私はいつの間にか涙を流していた。
——ねぇ、跡部。私ね、あのとき話した夢を叶えたんだよ。
貴方のおかげだよ。だからこちらこそ「ありがとう」なんだよ。
私は春から彼が今本拠地としているニューヨークで勤務することが決まっていた。
私たちがセントラルパークで一緒に桜を見ながら並んで歩くのは、あと約三ヶ月後のことである。