「今日もなんちゃら女学院の子、おりましたね」
練習試合が終わって、汗とそれを誤魔化すための制汗剤の臭いに加え、小春が先ほどそこらじゅうに振り撒いた消臭剤のフローラルな香りが混在してるなんともカオスな部室で、財前が鼻のあたりに思いっきり縦シワを寄せながら誰に言うでもなく言った。
「なんちゃら女学院って、ここから割と近いお嬢様学校やろ?」
「そうそう! あそこの制服可愛いのよねぇ。あの娘、よお試合見にきてるけど、いったい誰の応援なのかしらねぇ?」
そんな風に盛り上がっているなか、謙也が誰よりも早く帰り支度を終えて「ほなな!」と部屋の扉を豪快に開け放つ。
「ちょ、謙也! 帰るまでが練習試合やで! 気い抜いたらあかんよ!」
その後ろ姿に一声かけるが、果たして聞こえているんだろうか。あっという間に謙也は豆粒大の大きさになって、ゴマ粒大の大きさになって、そしてそれから見えなくなった。
(「つーか、白石、「帰るまでが練習試合」ってなんやねん。遠足かっ!」)
そんなおもんないユウジのツッコミはどうでもいい。
話を戻そう。なんちゃら女学院、もとい私立桜之宮女学院は生粋のお嬢様学校である。
彼女はいつも制服で応援に来ていたから、すぐにウチの学校の生徒じゃないことはわかった。
スタンドの後ろの方で他のギャラリーに混じって一生懸命俺らを応援している名前も知らないあの娘。
最初はなんであんなお嬢様が? て不思議に思って、何度も見かけるうちにえらい熱心な娘やな、て気にかけるようになって、そしてそのうちそれが誰の応援しに来とるんやろ? 俺やったらええのにな、なんておかしなことを考えてしまうまでに俺の気持ちは進化を遂げていた。
試合が始まる前、大勢いるギャラリーの中からついあの娘を目で探してしまう。
あの娘がいる、それだけで緊張は三割増しだが気合はそれ以上の五割増しだった。
——蔵クン! 頑張って!
騒がしい応援スタンドからの声援は個人の判別できない。もしかしたら、あの喧騒の中で彼女がそう言ってるんじゃないかと想像したのは一度きりじゃなかった。
◇◆◇
「アラ、ヤだ、蔵リン。ため息なんかついて、どないしたん? もしかしなくてもあの娘のことかしらん?」
部活の休憩中、突然後ろから声をかけてきた小春に驚き振り返えると、小春はウフフっとしたり顔で微笑んでいた。
どうやらウチのデータマンにはなんでもお見通しのようだ。
ハート柄のハンカチを敷いて、よいしょ、と俺が座っていたベンチのとなりに腰をかけた小春は「さぁて全部洗いざらい話してごらんなさい、悩める子猫ちゅあん」と優雅に足を組んでみせた。
完全にロックオンされた俺はどうも上手く逃げられそうにない。
「はぁ……別になんもおもろいことなんかないで?」
「蔵リンが恋で悩んでる時点でだいぶおもろいで?」
「……」
「嘘よ嘘。ごめんね蔵リン。んで、何をそない悩んどるん?」
小春に恨めしい視線を向けたあと、俺はもう一度さっきより大きなため息をはっきりとついた。
誰かに話すことで、何か突破口が見出せるならいいのかもしれない。
俺はずっと悩んでいた。
話したこともないし、声すら聞いたこともない、名前も年も何もかも、彼女を構成する大事な要素を俺はほとんど知らない。
知っているのは所詮目に見えるものばかりだ。
なのに——
「……俺、あの娘のことなんも知らんねん。せやのに、こんな気持ちになるんて、ちょっとどうなんかなって」
お嬢様学校の制服から覗くほっそりとした肢体、撫でたら気持ちの良さそうなサラサラの髪、笑ったら甘い香りがたちこめそうな愛らしい笑顔。
彼女のことを思えば、たちまち俺の心臓はしゃかりきに働き出す。
けれど、俺は自分のこの気持ちを素直に受けとめられずにいた。
「それ何があかんの?」
「え、何がって……見た目だけで好きになるとか、正直どうなん? って思わへんか?」
「んー、そやねぇ……ほなら、どんな理由なら好きになってもええって蔵リンは思うん?」
「優しいとか、真面目とか、頑張り屋とか、その娘の内面的な個性やろか」
「蔵リン、真面目ねぇ。でもそうやね、そういうんはとっても王道よねぇ」
「そやろ? 俺も実際、女の子にカッコエエから好きって言われんのあんま好かんしな」
「んまぁ、贅沢っ!」
小春が口元に手を当て、大げさに驚いてみせた。
俺も今の発言は些か感じが悪かったなと思い直して「まぁ、全然嬉しくないんとはちゃうんやけどな」と、とってつけたようなフォローを入れた。
「ねぇ、蔵リン、こういう話は知っとる? 人間、歳をとるとシワできるやろ? その中でも顔のシワは、ざっくり二パターンに分けられるんやて」
「ん? なんの話や?」
「まぁ、ええから最後まで聞いて。一パターン目、縦ジワが多いタイプ。二パターン目、横ジワは多いタイプ」
「ほう」
「違いはなんやと思う?」
「? 骨格とか、癖とかか?」
「正解は、前者はよく怒る人。後者はよく笑う人。怒るとこう眉間とかに縦方向にシワができて、笑うとこう目尻とかに横方向にシワができるやん。それが年々積み重なって顔に刻まれていくやて。なぁ、怒ると笑う、これって感情やろ? 内面が外見にも影響を与えるいい例やない?」
小春の目尻に横ジワがよった。
きっと小春は歳をとったら後者のタイプに違いない。
「外見がすべてやない。外見だけで判断したらあかん。でもだからって内面がすべて? ホンマにそうやろか? 私はどっちも大事やと思うわ。それにね、蔵リンはもうその娘のこと好きなんやろ? それを今更恋やないって悩むの阿呆らしない? 誰かを好きになる理由に合ってるも間違ってるもないんちゃうかって、私は思うで」
俺が何も言えず黙っていると「あぁもう! 蔵リン! 浪速の聖書が聞いて呆れるわ!」とバシンッと背中を叩かれた。力は男のソレなので思わず前につんのめり、座ってたベンチから転げ落ちた。
「恋はね、そういうものなの! 理屈やないの! ウジウジウジウジしとってもなんも変わらへんよ! 次、あの娘に会うたらどんな状況でも声をかけること! ね!」
遠くで小春を呼ぶユウジの声が聞こえる。
ユウジは小春のどんなところが好きなんだろうか。今度聞いてみようか。
小春が「ハイハイ、ユウくんうっさいでぇ」と気の無い返事をユウジにしてから、まだ地面に尻餅をついたままだった俺に手を差し伸べる。
「蔵リン、恋は前のめりくらいが丁度ええんやで」
バチンッと俺にウインクを決めてから、小春はのんびりユウジの元へと向かった。
その背を見送りながら、俺は小春の言葉をもう一度ひとり反芻する。
小春の言う通り、すでに好意を寄せているのに、その理由で悩むなんてナンセンスなのかもしれない。
なんで? どうして? それらの疑問の答えはすべて“キミだから”で総括できるような気がしてきた。
他人に自分の気持ちを肯定してもらわないと動けないなんて、我ながら情けないが、これでもう後戻りはできなくなった。
これは恋だ。間違いない。
——よっしゃ! 待っとれや! 俺のお姫さま!
新たな意気込みを胸に、ラケットを天高く掲げて自分を鼓舞していると、通りかかった財前に冷ややかな目線を送られる。
きっと財前は縦ジワが多いタイプやな、とひとりごちた。
◇◆◇
しかし、その後しばらく彼女は練習試合に姿を見せなかったため接触の機会もなく、俺はもやもやしたまま年を越すことになった。
いつ会えるかもしれない彼女。もしかしたら、もうこのまま一生会えないかもしれない。新年早々そんな暗い気持ちになり、それを振り払うために初詣へ行くことにした。
年が明けたばかりの神社はかなり混んでいて、お参りの順番を待つまでまだしばらく時間がかかりそうだ。
並んで早速勝手について来た姉と妹から甘酒を買ってこいと命令をされる。妹はともかく姉の命令は絶対なので逆らえない。
しかたなしに俺はひとり列から離れ、神社の入り口近くに出ていた甘酒の屋台へ向かった。
甘酒の屋台もほどほどに繁盛しているらしく、ここも周りは人で溢れかえっていた。
右手に一つ、左手に二つのカップを持ったまま、動くのはやや気を使う。
そう思っていた矢先に、俺はすれ違いざまに人とぶつかってしまった。
しかも持っていた熱い甘酒をぶつかった拍子に溢してしまう。
「あっ、すいません! 大丈夫で、」
俺はそこで中腰のまま固まった。
振り返るとそこにいたのは、夢にまでみたあの娘だったからだ。
まさかのタイミングで彼女と遭遇。
しかも彼女はいつものセーラー服ではなく、華やかな赤い着物姿だった。
それがまたよく似合っていてこれ以上ないほど可愛い。
自分の顔を見つめたまま固まってしまった俺を彼女は不思議そうに見つめ返している。
まん丸な瞳が瞬くたび、キラキラと星が流れるような輝きを放ち、俺の心臓を射抜いていく。俺の心臓は星型の穴だらけだ。
あぁ! そうだ! 次会ったとき、どんな状況でも声をかけると誓ったではないか、ハッと我に返る。
どくん、どくん、とテニスの試合並みに脈打つ今や壊れかけておんぼろな自分の心臓をコートの上から押さえ、決死の覚悟で声をかけようとしたそのとき——
「、甘酒買うてきたでー」
彼女の後ろから現れたのは、俺と同じように両手に甘酒のカップを持った謙也だった。
「え、白石? なんでここにおるん?」
「それはこっちの台詞や。つか、え? 自分、この娘と知り合いなん?」
そう聞くと謙也が「あ」と短い声をあげ、彼女と俺を交互に見てから「アチャー、バレてもうた」と上半身を器用に仰け反らした。
「あぁ! そうか、どっかで見たことある思うたら、謙也の学校の子やんな? テニス部の!」
そんな謙也はお構いなしに彼女が俺に嬉しそうに話しかけてきた。
初めて聞いた彼女の声は思っていた上に軽やかで、まさしく鈴を振るような声だった。
「いつも弟がお世話になってます」
「へ?」
「弟言うてもほんの数分先に産まれただけやろ! 威張んなや」
「威張ってへんよ? なんで謙也はすぐそうやってイラチ起こすんかなぁ?」
「お前がいちいち姉ちゃん面するからやろ!」
「せやからしてへんって」
言葉の応酬がどんどん激しくなる二人を目の前に、俺は遠慮がちに声をかけた。
「え、っと、つまり?」
「……双子やねん。俺ら」
はぁ、とため息とともに謙也が答えた。
ということはだ。彼女が今まで応援していたのはもちろん謙也、ということになる。
そういえば、よくよく思い返してみると、彼女の話題があがると謙也は必ずすぐにその場からいなくなっていたような気がする。
そうか、彼女は謙也の姉か。
謙也に弟がいるのは知っていたが、他にも姉(しかも双子!)がいたなんてこれまで一度ども聞いたことがない。
謙也とはなかなかの友達だと思っていたのに少しショックだ。
何故隠しているんのだろう? こんな可愛い姉、隠す必要なんてまったくないし、なんなら自慢してもいいくらいなのに。
しかし、今はそんな疑問とりあえず後回しだ。
俺の応援ではなかった。が、しかし、謙也の応援なら、弟の応援、家族の応援だ。決して彼氏の応援ではない。
ここで出会えたのもきっと何かの縁。千載一遇の好機。これを逃したら、俺はまたフェンス越しに彼女を見つめるだけになってしまう。
「お、俺と付き合うてくれませんか!」
持っていた甘酒を慌てて地面に置いて、『第一印象から決めていました!』みたいに俺は自分の左手を彼女に向かってサッと突き出し、身体を九十度に折り曲げた。
自己紹介すらまだだとか、あまりにもいきなりすぎるとか、いろいろツッコミ所満載な気もするが仕方がない。
そう、恋だから。思い描いていた完璧な告白シミレーションは、今日の艶やかな彼女を目の前にして全部吹っ飛んだ。
「ええよ」
その返事に驚き、勢いよく顔をあげるとふわりと柔らかく微笑んで俺の手を握る彼女と目が合った。
——あぁ、俺は今、世界一、いや宇宙一、幸せ者や……
俺にだけ一足早い春がきた。花が咲き、小鳥が戯れ、小川のせせらぎが聞こえてくるようだ。
そんな風に夢見心地で惚けていると、次に彼女が発した言葉で俺の世界は一瞬にして凍りついた。
「で、何処に付き合うたらええの?」
俺に向けるにこやかな表情は先ほどから変わらず、可愛いままだ。だが、しかし……
アレ? どういうことや? これって俺の決死の告白、全然伝わってへんってこと?
「忍足被害者の会」
「ハ?」
「こいつ、いっつもこうやで。筋金入りの天然で、立った恋愛フラグ次から次へとベッキベキにヘシ折りまくんねん」
謙也の話を聞いて、自分の笑顔が引きつるのを感じる。
「せやから嫌やねん、コイツと姉弟ってバレるん。苦情はみーんな俺んとこにくる」
謙也は心底うんざりしたように盛大なため息を吐き、俺もその隣でどっと力が抜けてへたり込む。
そんな男二人を目の前に相変わらず小首を傾げている彼女は、たぶんきっと本当に筋金入りの天然モンなんだろう。