「周助くん! 周助くん!」

 幼馴染のが玄関の門を掴んで、待ちきれないとばかりにボクの名前を連呼した。散歩に行く前から興奮してはしゃぐシーズー犬みたいだ。

「ボクが迎えに行くって言っただろ」
「待ちきれなくて!」
「しょうがないなぁ、まったく」

 門扉を閉めて、彼女と手を繋いで歩き出す。
PM 11:27。さっきまで降っていた雪がアスファルトの路を見事に覆っていた。
ただでさえ特別な夜が、雪によってもっと特別な夜のように演出されている。過剰演出だ。
忌々しく思えど、まだ降り積もったばかりの白い絨毯は汚れも少なく、月明かりで仄かに光り、なかなか幻想的な風景を織りなしていた。
いつもの自分だったら、この風景をファインダーに収めたいと迷わずポケットに忍ばせたコンパクトカメラを取り出すところだが、生憎今はそんな気分になれなかった。
気分が乗らないときに撮った写真は後から見返してもわかる。
ボクの写真は案外素直だ。



〈ごめん、兄貴〉

 電話越しの裕太の声は本当に申し訳なさそうだった。
それと反比例するかのように背景の雑音はどんちゃんと賑やかで騒がしい。

〈んふっ、申し訳ありませんね、不二君〉

 鼻につく独特な話し方で、名乗らずともすぐに誰だかわかる。
観月は「ちょっと貸しなさい」と裕太から受話器を有無を言わさずもぎ取ったようだ。

〈毎年恒例の寮での忘年会が少々盛り上がりすぎてしまいましてね。我々が気が付いたときにはもう外はこんな様子だったんですよ。裕太くんはそれでもどうにか帰ろうと手段を探したんですが、電車も動いていないようですし、タクシーなんかに乗って何か大きな事故にでも巻き込まれたらそれこそ大変でしょう。なので、今日そちらへ帰るというお約束は反故にさせていただきます。そもそも——〉

 状況は把握した。
これ以上観月の話を聞いても意味がないと判断して、受話器を置いた。

「裕太、なんだって?」

 キッチンから母さんが顔を出した。
カレーのいい香りが漂ってくる。きっとかぼちゃ入りだ。裕太の好物。
冷蔵庫には姉さんの作ったラズベリーパイだってちゃんと用意してあるのに。

「今日、帰って来られないって」

 母さんは「そう、残念ね。でも、この雪じゃしょうがないわね」と言ってさして落ち込んだ素振りも見せずに微笑む。
長年単身赴任する夫を持つとこういうアクシデントには強くなるらしい。
むしろ「ならカレー、辛くしちゃおうか」とボクを気遣ってくれる余裕すらある。
 くもり窓の外は夕刻過ぎから降り出した雪がまだ猛威を振るっているようだ。
なんでもっと早く気づかなかったんだろう。気づいていれば、対処のしようもあったかもしれないのに——なんて今更なことばかりが浮かぶ。
 久しぶりに家族が全員揃うということに浮かれていた純粋な少年の心にわざわざ水を差すなんて、なんともまた意地悪で暇な神さまだ。
 まだ開いたままだったリビングのカーテンを閉めて、こんな天気のことも、今日がどんな日かということも、そして裕太のことも全部頭の中から追い出すことに決めた。



「今回の初夢も周助くんが出てくるといいなぁ」

 が靴底で柔らかな雪の感触をいちいち楽しむので、なかなか目的地の神社に着かない。
きっと雪が降ったことが嬉しくて仕方がないのだろう。彼女は幼心のまま身体だけ成長した節がある。もしくはやっぱりシーズー犬。
いつもだったら呆れながらも微笑ましくその姿を眺めていられるであろうに、今日の自分はそれすら億劫で気が滅入る。
ただ自分の不機嫌を悟られるのもなんとなく嫌で表面上はあくまでも何もない素振りを続けた。

「出てきたら報告して。出演料貰いにいくから」
「えー!」
「お年玉貰うだろ」
「ひどいっ!」
「アハハッ冗談」
「もう! あ、そいうえばこの前の夢は、途中で手塚くんも出てきたなぁ。「油断せずに行こう!」って何故か私と周助くんにナスくれたんだけど、そのあと手塚くんだけ鷹に攫われちゃったんだよね」
「何度聞いてもシュールな夢だね」
「ねぇ。でも、手塚くんに新学期学校でこの話したら「縁起の良い夢だな」って褒められて「確かに!」って感動したの思い出した!」

 おそらく彼女は“一富士二鷹三茄子”を未だ勘違いしている。
富士は富士山の富士であってボクの不二じゃない。何度教えれば彼女は覚えるのだろうか。
彼女に気づかれないように吐いた息は白く濁った。

 やっと神社に着く頃には除夜の鐘を突こうとする人の列が境内からはみ出していた。
地元のあまり大きくない神社でもこの日だけは嘘のような賑わいを見せる。
甘酒やおでん、イカ焼き、焼きそば、入口付近には屋台も並び、オレンジ色の白熱電球の明かりが出迎えてくれる。
「寒い」「眠い」「疲れた」「飽きた」ネガティブワードあらゆる方向から聞こえるわりに、それを口にする人々の表情はどこか明るい。
自分たちと同じくらいの学生の集団、仲の良さそうな老父婦、小学生くらいの子供を連れた家族もいる。まさに老若男女。
 明日は普通の明日じゃない。明日は来年であり、今日は最後の今年だ。
見えない境を飛び越す儀式は、祭りのように華やかで、希望に満ちている。
暗い気分の自分だけがぽっかりとその場から浮いた存在な気がしてならない。

「あぁあ、今年になっちゃった」

 並んでる間に年が明けてしまい、彼女が全然残念じゃなさそうに残念と言った。
ただ、この神社の取り決めは緩く、並んでる者には皆鐘を突かせてくれるから、そのまま列は鐘に向かって伸びたままだ。
今世の人間の欲が百八で済まされるとは思えないので、いいのかもしれない。

「周助くん、電話鳴ってない?」

 彼女に指摘されて自分の携帯電話を確認すると本当に着信が来ていた。しかも表示された名前に驚く。
「出ていいよ」と笑顔で促されて、かじかむ指で通話ボタンを押した。

〈……貴?〉

 自分の周りがうるさく、電話越しの声は聞き取り辛い。

〈もしもし、裕太? ごめん、今外なんだ〉

 おそらく自分の声も同様に聞き取り辛いだろうと思い、自然とボリュームが上がった。

〈知ってる。と神社だろ?〉
〈うん。裕太は? まだ寮でお祭りかい?〉
〈いや、流石にもうお開きになった。観月さんが大晦日だからって羽目を外しすぎちゃいけないって〉
〈そう〉
〈あのさ、〉

 裕太の言葉をもう何回目なのかわからない鐘の音が打ち消した。
ごめん、と謝ってから仕切り直す。

〈明日、つーかもう今日か。今日には絶対家帰るから〉
〈わかった。母さんに伝えとく〉

 ふんわりとした無言が続く。その間にまた鐘が鳴った。
自分とって、厳かに低く響く鐘の音より、裕太の声の方がよっぽど自分の穢れを祓う効力を持っていそうだ。
さっきまで自分の心を占拠していた醜い塊が慌てて逃げ出していくのを見送る。

〈裕太、帰ってくるの楽しみにしてるよ。わざわざ連絡ありがとう〉
〈おう。……いや、実はがさ、〉

 ふと、さっきまで隣にいたはずのがいないことに気づく。あれ? いつからいない?
目線をぐるりと走らせたが、こんな人混みの中じゃ簡単に見つからない。

〈どうかしたか?〉
〈ああ、いや、なんでもないよ。それで、が?〉

 しかし、この場にいない裕太に要らぬ心配をかけてもいけないので、声は平静を努める。
それにいくら人が多いとはいえ、すぐにどうこうなるということもないだろう、と自分の不安を誤魔化した。

〈あ、うん……が、年が明けたら直ぐに兄貴に電話しろって〉

 え、と声が出そうになったがすんでのところでそれは音にはならなかった。

〈じゃあ、そういうわけだから! にもよろしく〉
〈あ、うん。あっ〉
〈なんだよ〉
〈明けましておめでとう。今年もよろしく〉
〈うん。よろしく。今年こそ絶対兄貴に勝つから〉
〈楽しみにしてる〉

 おやすみ、と挨拶して静かに電話を切った。
まさにそのタイミングで、彼女が人の隙間から顔を出して、こちらへ駆け戻ってくる。

「コラ、勝手にひとりで何処か行ったら心配するだろ」
「甘酒、買ってきたよ!」

 湯気を立てて見るからに身体が芯から温まりそうなそれを無邪気な顔で差し出される。
はぁ、と溜息が漏れた。
呆れ半分、愛しさ半分。

「ありがとう」
「どういたしまして」

 彼女がフーッフーッと甘酒を冷ましながら口に運ぶ姿を見守る。
「暖かいって幸せだねぇ」とこちらに笑顔を向ける彼女を見て敵わないな、と思い知った。
 何もわからないような子供の振りをして、大人らしい気遣いを見せた彼女。
機嫌が悪いことに気づかれていたことすら悟らせなかったことには驚いた。
ずっと子供の頃から一緒に過ごしてきたから見落としていた成長の差を急に突きつけられたような思いだ。
女の子はやっぱり精神的に早熟で、男なんかよりずっと物事を俯瞰できているのかもしれない。
 途端にさっきまでの自分の身勝手で未熟な振る舞いが情けなくなる。
ただ「ごめんね」は簡単に言えるけど、おそらくそれは彼女の望む答えじゃない気がした。



 名前を呼ばれてこちらを見上げた唇に今年最初のキスをする。
唇が離れる瞬間、ふわりと柔らかな甘い香りが鼻腔をくすぐった。

「ボクの夢が見れるおまじない」

 そう囁けば、彼女はことさら嬉しそうに微笑む。
すかさずポケットに入れていたカメラを取り出してファインダーを彼女に向けた。