「んで、どっちっスか?」
カウンターに座って図書カードを整理している私から少し離れた場所で返却された本を書架に戻す作業を黙々とこなしている財前くんが唐突に口を開いた。
放課後の図書室はこれでもかというほど静寂に包まれていて、聞こえる音といえば音楽室から漏れるチューニング中の楽器の音や窓の外の運動部の掛け声くらいなのに、彼の声が聞き取り辛かったのは彼が書架に向かってしゃべったせいかもしれない。
辺りを見渡しても利用者はいない。今ここにいるのは図書委員で本日当番の私と彼だけだ。
すなわち先ほどの言葉は私に投げかけられている、はず。そう、はず、である。
こんな状況下でもそれを疑ってしまうのは、彼の問いかけがあまりにも突然で、なんの脈絡もなく、私には一体全体何のことを言ってるのか理解できなかったからだ。
訝しげにクエスチョンマークを頭上にたくさん浮かべたまま彼の整った横顔を窺うが手掛かりはない。
「聞いてます?」
私がいつまでたっても何も答えないものだから、彼の声は不機嫌そうに捻れた。
しかも今度はこっちに鋭い視線まで向けられて思わずヒッとたじろいでしまい、せっかく学年・クラス・出席番号順に並べ終えた図書カードを床にバラまいてしまった。
急いで椅子から降りて掻き集めるが、これじゃあ最初っからやり直しだ。
また鈍臭いと呆れられそうで、そうされることを予想して予め勝手に落ち込む。
「えっと……何の話かな?」
手元は動かしながら、カウンターから頭だけ出してなんとか応えた。これ以上彼を不機嫌してはいけない。
彼はそんな私を無言のまま数秒睨んだあと、フイッと視線をまた元の書架に戻し、何も言わず止まっていた自分の作業を再開しはじめた。
いよいよ意味がわからない。
私の問いは至極真っ当なはずなのに、まるで察せないこっちが悪いかのような態度だ。
けれど、まがりにも先輩に対してその態度はどうなん? と憤る気持ちより、何故彼の機嫌を損ねてしまったのか、という困惑の方が胸に広がる。なんて立場の弱い先輩なのだろう。
「財前くん……?」
「部長と謙也サン、どっちっスか?」
「えっと?」
「せやから、どっちのことが好きなんか聞いとんねん」
思わず「ハイ?」と間抜けな声が漏れた。しかも勢いよく立ち上がったもんだから、ガツンッと膝をさっきまで座っていた椅子にぶつけて地味に痛い。これ絶対青あざになるやつだ。押したら痛いんだよな。でも気になって押しちゃうんだよな。あざって意外と治り遅いのに嫌だな。あー……。
そして、目の前の後輩クンの言ってることが本気でわからない。
「それはつまり……なんかのアンケート?」
ぶつけた膝を涙目でさすりながら椅子に座りなおした。
白石派? 忍足派? その話題はうちのクラスでもよく女子同士で盛り上がる。
二人とも整った顔立ちになうえ、スポーツも勉強もできるんだから当然といえば当然だ。
優しくて典型的な王子様タイプの白石と元気で明るいやんちゃな忍足。
私が知る限り女子の票は意外と忍足優勢。
忍足派の友人曰く、「あの人懐っこい笑顔を撫でくりまわしたい」だ、そうだ。私はふと柴犬が思い浮かんだ。
「なんでそんなアンケート俺が取らなあかんねん。先輩がいっつも部長か謙也サンの話しかせえへんから、てっきりどっちかのこと好きなんやと思おとったんスけど、ちゃうんスか?」
財前くんは空になったワゴンを押しながらカウンターへ戻ってくる。
古い校舎で凹凸のできたリノリウムの床に車輪が取られてるせいか、財前くんが手荒いせいか、ガラガラとうるさい。
「まぁどっちやとしても、俺は他人の恋愛のお膳立てとかしち面倒くさいことやるつもりないんで、他当たってもらえますか。つーか、先輩同じクラスやねんから自分でどうにかしいや。後輩頼るとかどんだけ必死やねん」
財前くんは鼻で笑ったあと、ワゴンをカウンター裏の指定の位置まで戻すと、私のとなりの席に置いてあった自分のスクールバックを手に取った。
「ほな、今日の自分の分の仕事は終わったんで帰りますわ」
確かにこのまま図書室開けていたところでいつも通り利用者はゼロに等しいままだろう。
今日返された本を書架に戻す作業と図書カードの整理を終えて、簡単な掃除と戸締りさえ済めば、時間より多少早くあがったところで咎められることはない。
それでも今までの私たちだったら図書室解放時間いっぱいの十七時までカウンター席に肩を並べることが常だった。
当番は週一回。月曜日の放課後。
性別も学年も部活も違う私たちは、暇で暇でしょうがないこの時間を雑談に当てるのにも苦労した。
結局私が彼に振れる話題といえば、私のクラスメイト兼彼の先輩である白石や忍足のことばかりだ。
なんとかこの無愛想な後輩と打ち解けようと気さくに話しかけてみるが、だいたいが「はぁ」とか「まぁ」とか「そっスか」とやる気のない返事ばかりで会話なんてろくに続きやしない。
最初の頃は二人でカウンターに無言で座っている間中、時計の針を指で無理矢理早回しにする妄想をしていたものだ。
なのに、チャイムが鳴り「ほな、お疲れさまでした」と背中を向けられると、なんだか別れが惜しくなっている矛盾に気づいたのはいつ頃からだっただろうか。
花の咲かない会話でも、自分の投げかける言葉が無視されたことはない。
話を聞いていないようで聞いていて、聴きたかったと言ったCDをわざわざ貸してくれたときは驚いたし、とても嬉しかった。
だから、次はもっと仲良くなれれば、もっと話しができれば、もっと、もっと——当番の帰り道はもっぱら脳内反省会で、けれど次の委員会の日が待ち遠しくて仕方がなかった。
今では時計の電池を抜く妄想をよくしているくらいだ。
「せやから、どっちのことが好きか聞いとんねん」
低すぎない掠れた彼の声で聞く“好き”という単語が胸で切なく響いた。
——違う、どっちも違う!!
叫びたい衝動を脚力に換えて、まさに今図書館を出て行こうとする財前くんを追いかけた。
「ま、待って!」
イヤフォンを耳に装着しようと上がりかけていた彼の右腕を後ろから掴んだ。
見開かれた瞳が私を見下ろす。
「なんスか?」
気持ちを察してほしくて、縋るような目で彼に視線を送ったが、そんなの知るかとばかりに鬱陶しそうな表情。
怯みそうになる。
さっきまでの強い覚悟が砕けそうだ。
「用ないんやったらもうええっスか?」
私の手を剥がしてイヤフォンを自分の耳にねじ込もうとするので、慌ててそれを阻止して、ついでにすでにはまっていた左耳のイヤフォンも引き抜いた。
「何すんねん」というツッコミを私の声が遮った。
「すき」
イヤフォンから漏れる音楽とは呼べないノイズ音にかき消されそうなほどのか細い声。
だがしかし、彼の動きはピタリと止まっていた。だから聞こえていたはずだ。
「ハ?」
「すき」
「……あーハイハイ。んで、部長っスか? 謙也サンっスか?」
スーッと息を飲み込む。肺いっぱいに空気を吸って、それを吐き出すように力任せで自分の気持ちを言葉にした。
「私がすきなのは、——」
スルリと彼の手からイヤフォンが落ちて、カッツーンと勢いよく床で跳ねた音がした。
時計の針は角度を変えて時を刻んでいく。
私はズルイから彼にだって私と同じ気持ちが芽生え始めていることをちゃんと知っていた。