「それでね、聞いたわけよ、『どこ行くの?』って。そしたら、平然と『山だが』って。『山だが』って? 久しぶりに
向かいに座る菊丸と不二が「手塚らしい」と遠慮なく大爆笑したので、話す相手を間違えたと瞬時に悟った。
きっとこれが女友達だったら「なにそれ! 信じらんない!」と共感して同情してくれているはずだ。
ふくれっ面で横を向くと、店の壁に掛けられているテレビが目に入った。運悪く、ちょうどそのとき画面には私に「山だが」と言い放った人物が白いティシャツ姿で浜辺を颯爽と走る姿が映し出されていた。
「手塚、またスポンサー増えたんだね」
「これでまた結婚遠のいたね」と笑う不二は悪魔か。
そろそろ今日ここに来たことすら後悔しはじめる。
そんな私を見てさすがにまずいと思ったのか、菊丸が「いやでもさ、手塚も悪気はないんじゃないかなぁ?」とさりげなくフォローに回った。
悪気があったか、なかった、そんなことは問題じゃない。フォローはフォローでもそれは完全に男側のフォローだ。
私のやさぐれてた心を癒すわけもなく、私はジョッキグラスを一気に煽った。
「で、結局本当にそのあと山には登ったの?」
そう訊く不二に「まさか!」と答えた。
膝丈のワンピース、小さな合皮の鞄、下ろしたてのパンプス。私の出で立ちを改めて見た手塚は無言になり、一呼吸置いてから「今日は街にでるとしよう」と切り替えた。私の落胆を見抜いたのだろう。自分はポケットが十個も二十個もついていそうなベストを着ているくせに街へ行くと言う。
となりに並んだわたしたちはちぐはぐだった。
些細なすれ違いの原因はなんといってもコミュニケーション不足だろう。誰に指摘されるまでもなく、自分が一番よくわかっていた。
プロテニスプレイヤーの手塚国光。そのとなりにいるべきは本当は私じゃないんじゃないか。昔も今も私の悩みは変わらない。
「手塚、まだしばらく日本にいられるんでしょ? なら、リベンジしなきゃね」
私は力なくうなづいた。手塚とはまた週末に会う約束をしていた。
私はどきどきしながら、家を出た。
着慣れない服が新鮮だ。今度こそ喜んでくれるかな。そう思いながら、待ち合わせ場所へ向かった。
そして、着いた瞬間後悔をした。
そこには細身のパンツに革靴の手塚が立っていた。もちろんポケットがいっぱいついてるベストは着ていない。
手塚は私の服装を見て、またも無言になった。
それもそのはず、今日の私は些か流行遅れだが、完全に『山ガール』そのものだった。
「よく似合っている」と褒めたのは手塚なりの気遣いだろう。
またもやってしまった。ちゃんと事前に確認すればいいだけのことなのに。
でも待ち合わせ場所が高尾山口駅だったら勘違いするでしょう?
「今日は麓に新しく出来たレストランを予約してある」って言われても気分は沈んだままだ。
しかも向かい合って食べるのはまさかのフレンチ。
店に入った瞬間“ドレスコード”という言葉が過ったが、特になくも言われることもなく、個室へ通された。
ナイフやフォークを使うたび、シャカシャカと音を立てるナイロンパーカーが恥ずかしい。
「大石に窘められた」
手塚が口を開いたので顔を上げた。いつの間にか俯いて自分の皿の上ばかり見てしまっていたことに今更気づく。
手塚は言葉少なに大石たちとのやりとりを語った。
どうやら、手塚も私が菊丸や不二にしたように気のおけない仲間たちに自分たちのことを相談していたらしい。
「サプライズのないデートはデートではないと先日跡部に教わったのだが、大石には跡部の言うことをいちいち真に受けるのはよせ、と止められた」
特技げな跡部くんや頭を抱えている大石の様子がありありと浮かんで、私はつい、ふふふと笑みを溢してしまったが、手塚の眉間に皺がよったのを見て慌てて口をつぐんだ。
馬鹿にしたと思われだろうか。そうじゃない、と否定しようとしたが、先に話し始めたのは手塚だった。
「あの日、本当は山頂から見える景色をお前に見せたかったんだが……」
「手塚って自分がイイって感じたものは、他人も絶対イイって感じるって思ってる節あるよね」と言っていた不二の言葉を思い出す。
まさにそうなのだろうと私も思う。
「お前の意見も聞かず申し訳なかった」
頭を下げる手塚に私は首を横に振った。許さない。ということではない。
謝罪はいらない、ということだ。
「手塚、誤解してると思うから言うんだけどね、私別に山登りが嫌だったわけじゃないよ。なんて言ったらいいのかな……なんていうかね、私たちってデートっていう恋人同士だったら当たり前のことすらちゃんとできないんだな、ってショックを受けただけっていうか……」
手塚が「本当にすまない」とまた頭を下げた。私はそれを「やめてやめて」と止める。
「だからね、今度は約束して山へ登りに行こう! そのときはまた今日みたいな山登りの格好で来るからさ」
だから、ちゃんとふたりでいろいろ話し合おう。
どんなに時間や距離が私たちを邪魔しても、やっぱりその手を離す気にはなれないんだ。
私がそう提案すると手塚がおもむろに給仕を呼んだ。そして何かを指示して、一旦部屋を離れた給仕が何かを持って戻ってきた。
それを受け取った手塚が、私に再び向き直る。給仕は気配もなく部屋から消えていた。
「受け取ってくれないか」と差し出された箱に私は恐る恐る手を伸ばす。
「開けてもいい?」と聞いてから、リボンを解いて、包装を解き、箱を開けた。
「辛く険しい道かもしれないが、俺とともにこれからの人生を歩んでいってはくれないだろうか」
プロポーズと思わしき言葉に添えられたのはダイアモンドが輝く指輪でも真っ赤な薔薇の花束でもなく、とても頑丈なトレッキングシューズだった。
きっと今日の私にはよく似合うだろう。