私にとってお正月は誕生日よりもクリスマスよりも、もっとずっと尊いものだった。
何度着たって着慣れない振袖を着て、私は忍足家のチャイムを鳴らした。
さしていた傘をたたむ。天気は生憎の雨だ。
私を迎えてくれたのは、謙也でもマリコおばさんでもなく、謙也の従兄弟の侑士くんだった。
「久しぶりやな」
「今年は帰ってたんだね。明けましておめでとう、侑士くん」
新年の挨拶のついでに「また一段とべっぴんさんになったんちゃうか」とお世辞を言ってくれる侑士くん。
つくづく侑士くんと謙也は正反対だな、と思う。
私の「謙也は?」という問いに侑士くんが苦い顔をした。そこにあくびをしながら謙也が二階から降りてくる。どうみても寝起きだ。
謙也は侑士くんの影に隠れていた私を見つけてやっと約束を思い出したようだった。
「ケ〜ン〜ヤ〜!!」
「あぁ、そやったそやった、すまんすまん。秒で準備するからちょ待っとき」
「それがひと様にお願いする態度か! 跪け! 崇めろ! 奉れ!」
「なんでお前にそこまでせなあかんねん!」
このまま口喧嘩がエスカレートしそうなところで侑士くんがやんわりと止めに入ってくれた。
謙也は面倒くさそうに頭を掻きながら洗面所に消える。後ろ髪にはしっかり寝癖がついていた。
侑士くんは「玄関冷えるからリビングで待っとき」と私を家にあげてくれた。
「相変わらずやな」
「お見苦しいところをお見せしました」
侑士くんが暖かいお茶をお盆に乗っけて二つ持ってくる。
家の中は静かで他の人の気配はなかった。
「他の家族やったら本家やで」と私が疑問を口にせずとも察してくれた侑士くんは私のとなりに腰をおろし、お茶に口をつけた。
「謙也、昨日遅かったん?」
なんでもない風に私がそう訊くと侑士くんは微笑んで何も答えなかった。
沈黙の合間にもガタンとか、バシャンとか、荒っぽい音が洗面所の方から聞こえてくる。
侑士くんが「相変わらず、か」とさっきと同じ台詞をさっきより心情を込めて口にした。
「ええねん、別に。昨日謙也が誰とどこで何しとっても」
侑士くんは優しいから「ほんまか?」なんて意地悪なことは言わず静かに私の話を聞いてくれる。
だから、好きだ。好きだ、と笑って言える。
「今日、私と初詣行ってくれたら、あとはもうええねん」
いつからだっただろうか。初詣を謙也と行くようになったのは。
いつだっただろうか。それが当たり前にじゃないと気づいたのは。
はっきりと覚えているのは、当たり前じゃないと気づいたときにはもうすでに謙也のとなりに自分じゃない女の子が並んでいたことだ。
私と謙也は幼馴染だ。
私がまだ一歳にも満たない頃、ウチの父は三十五年のローンを組んで一軒家を建てた。
私を抱いた母が隣の家へ引っ越しの挨拶に行くと、出てきたのは驚いたことに知った顔だった。
それが謙也の母、マリコおばさんだ。ウチの母とマリコおばさんは看護学校の友人だった。
母は現役だったが、マリコおばさんはその頃すでに看護師をやめていて、母の代わりにマリコおばさんが私を保育園に迎えにきてくれることも多々あった。
そんなときは大抵そのまま夜まで忍足家で謙也や謙也の弟の翔太と一緒に遊んでいた。
謙也の家はソファで飛び跳ねても怒られなかったのが嬉しかったのをよく覚えている。
引っ越してからずっと、それこそ本当の兄妹のように育ってきた。
誕生日もクリスマスも一緒に祝うし、正月には初詣に出かけることが両家のしきたりみたいになっていた。
けれど、年頃になった私たちは各々の事情でその行事を欠席したりするようになり、その風習も段々なくなりつつあった。
謙也が部活以外の理由でクリスマスを一緒に過ごせないと初めて言ったのは中学三年生のときだ。
どうして? どうして? と、大体察しはついているくせに問い詰めるマリコおばさんを謙也が赤い顔であしらった。
その年の初詣は「なんかダルい」という理由で私は行かなかった。
中学を卒業して、謙也とそのときの彼女は別れたらしい。
そのことを新しい彼女ができてから、私は知った。
その次もその次も——……
だから、私にはもうお正月しか残されていなかった。
誕生日やクリスマスは恋人と過ごしても、お正月は家族で過ごす。謙也的にはお正月はそういうものらしい。
謙也にとって私は“家族”だから、誕生日やクリスマスは一緒に過ごせなくても、お正月なら一緒に過ごすこともできたし、初詣は一緒に出かけられる最高の口実だ。
元旦の神社は混むから待ち時間が嫌いな謙也は嫌がったけれど、その分一緒にいられる。
一年に一回。今日だけは謙也が私の謙也になる日だ。
それにどれだけの意味があるかなんて考えないことにしている。
「阿呆やな、謙也は。こんなええ子がそばにおるのに気いつかへんなんて」
「私、全然ええ子ちゃうよ。だって毎年『謙也が彼女と早う別れますように』って神様に祈ってんねんもん」
私なりのブラックジョークに侑士くんは笑ってくれた。
そこに「なに笑てんねん」と支度を終えた謙也がやってくる。
「そんな奴としゃべっとらんで早う行くで」
「それがひとを待たせた奴の態度か! 跪け! 崇めろ! 奉れ!」
「さっきからそれなんやねん!」
「侑士くんとこの学校のスローガン。やろ?」
「なんでやねん」
侑士くんに見送られて、私たちは家を出た。
謙也がいつも通りの歩調で進むから、着物を着て歩幅が狭い私は小走りでついて行かなくちゃならない。
「待ってよ」と抗議しようとしたところで、謙也が突然ピタリと立ち止まった。
私の傘が謙也の背中にぶつかって、ダウンジャケットが雨水を弾いたせいで、私の目に入った。
「さっきのほんまか?」
謙也は振り返らずそう訊いた。なんのことだかわからない。
「さっきって?」
そう訊き返すと「さっきはさっきや」と低い声が返ってくる。
「……さっきはさっきって、わからへんから訊いてんねんけど」
「さっきはさっき言うてるやろ、ドアホ!」
やっと振り向いた謙也は苦い粉薬をしこたま呑まされたあとみたいな顔をしていた。
謙也は医者の息子のくせして粉薬が苦手だ。
そのことを歴代の彼女たちは知っていただろうか。
「……俺が彼女と早う別れますようにって毎年祈ってるって。嘘やろ?」
謙也が嘘であってほしいと思いながらそう訊いてるのが私にはわかった。
私の瞳からはさっき入った雨水が溢れおちそうになる。
「嘘に決まってるやろ。私、そんなに性格歪んでへんで」
たぶん今、謙也はあからさまにほっとした顔をしただろう。
俯いているから確かめられないけど。
謙也の背中がまた遠ざかっていく気配がした。
でも、すぐに立ち止まって「なにしとんねん、早行くで」と私を呼んだ。
どこまでも勝手だ。
悔しくなって、止められなくなって、私は「ほんまはな」と叫ぶ。
雨音は私の声を掻き消してくれなかった。
「ほんまはな、私、『自分が早謙也のこと好きじゃなくなりますように』って、毎年祈ってんねん」
傘をさしているはずなのに、私の頬にはポロポロと雫が流れていく。
いつかはこんな日がくることを私はちゃんと知っていたし、ちゃんと知っていたから、いつまでもこんな日が来なければいいと願っていたはずなのに。
「俺、どないしたらええねん」
そんなことを言われても、私は答えてあげられない。
inspiration by music:indigo la End『雫に恋して』