初めにが真田を見つめていることに気づいたのは二年生になったばかりの頃だった。
彼女の視線は時より最短距離直線で真田を捉える。
奇特な子もいたもんだ。あんな天然記念物並みの堅物をと面白く思い、密かに彼女を観察していた。
しかし、それがいつの間にか自分もあんな風に見てもらいたいと思うようになってしまった。
真田もを同じ目で見つめていることは知っている。俺はその願望がこれ以上大きくならないうちに、そっと陰に隠すことにした。
俺を見て。いや見ないで。
俺は真田の様にテニスや友達を大切にはできないから。
子供頃から転校が多かった。幼稚園は二箇所。小学校だけでも三箇所。北は青森、南は広島まで。一時しか過ごさない場所でも子供にとっては濃密で、ありとあらゆる方言が俺の中で混じった。ある時に同級生にお前の話し方は変だと馬鹿にされた。確かに、自分でもそう思った。けれどそれは自分の所為ではない。親が子供の都合など考えなしに引っ越しを繰り返すせいだ。腹が立った。そして悲しかった。
そんな幼少期を過ごした俺はいつの間にか誰とも付かず離れず、愛着や執念を何にも抱くことができないようなつまらない中学生になっていた。
俺は所詮根無し草だ。根をはれば、抜かれるときに痛みを伴う。痛いのなんて好きじゃない。それを回避するための処世術は知らぬ間に身についていた。
◇◆◇
「なんだ仁王!今日の試合は!」
「どんなことしてでも勝て言ったのは真田じゃろ」
「だからといって、あんな
煩い、煩い、煩い
幸村が倒れて以来、真田はより一層テニスに専念していた。それ以外のことを考えたら、天罰が下るとでも思ってるんじゃないだろうか。
馬鹿らしい。そんなことしたって幸村の病気が治るわけでもないのに。俺たちは所詮何もできない。あの花を差し出す健気な手も守れないとマネージャーの小さな背中を思い出す。
だからこんなに必死になるのは馬鹿げている。なのに気が付くと目の前の黄色い球に必死に食らいついてる自分がいて、その矛盾に奥歯が鳴る。
真田の視線が随分前からを追わなくなった。もとより特別仲がよいというわけではなかったので表面上は特に変わることがないが、真田はどうもを避けているようだ。事の経緯はわからないが、二人がハッピーエンドを迎えたわけではない事は確実だ。
真田も上手く割り切ればいいのに。今の真田は実に滑稽だ。自分独りで全てを背負い込もうとしている。
あれよあれよとドミノ倒しのように負が連鎖していく。
そして関東大会決勝。立海は負けた。幸村の手術にも間に合わなかった。
「俺を殴れ」
俺は躊躇せずに青学のチビに負けた真田を殴る。
真田、前だけを見るな!隣を見ろ!後ろを見ろ!
独りよがりは見ていて気持ちが悪い。
何故気付かない。お前は俺と違って、部員から尊敬され、彼女から愛されているのに。何故自分からそれを手放せるんだ。
「真田って、俺がいない間あの応援部の子と何かあった?」
他の奴らとは少し離れた木陰で休憩をとっていると幸村がいつの間にかすぐ側にいた。
「…さぁのう?なんで俺に聞く。真田のことなら策謀に聞く方がわかるじゃろ」
幸村は八月、全国大会前無事に復帰を果たした。
約十ヶ月のブランクなんて彼には全くないようだ。今日も先ほどまで涼しい顔で赤也を扱き抜いていたはずだ。
「だって、彼女と今同じクラスだろ?仁王はそういうのに鋭そうだから、知ってるかなって思ったんだけど…」
幸村はよっこいせっと隣に腰を下ろす。何か話すまでどかないぞっという意志を感じてため息をついた。
「たぶん…まぁ、うまくいっとらんのは確かじゃろ」
「ふーん…俺の…所為かな?」
「違う。真田が馬鹿なだけじゃ」
「仁王はさ、なんであんな試合しはじめたの?」
急に話が変わった。
あんなとは多分、他人になりすます試合を指しているのだろう。あれは確か幸村が倒れた後にやり始めたから幸村はよく知らないのかもしれない。
「君は君で充分強いじゃないか。こうして常勝立海のレギュラーだ。君というだけで恐れる者だって多いだろう」
「俺は自分がないんじゃ。信念とか根性とかそういうのがさっぱりでのう。他人に成りすました方が真剣になれるんじゃ」
自分で自分の言葉にはっとした。俺はそんな風に考えていたのか。それを初めて自覚する。
「あいつならこんなとこでミスしたりしない、あいつならこんなところで諦めたりしない。あいつなら…って」
“あいつ”って誰だ?
何もできないと憂うのは、何かしたいと思ってたからだ。
でもこんな自分では何もできない。どうしたらいいのかさえわからない。
全てを差し出し孤独になっても戦う姿を馬鹿にしながら、本当は心の底から羨ましかったんだ。
きっとみんなも彼女もそういうあいつを尊敬して、好いている。
俺も大切なものを大切にしたい。守りたい。
大切なものなんてなかったはずなのに、いつの間にか俺の手の中はなみなみと大切なものでいっぱいになっていた。少しでも、動けば溢れてしまいそうで怖い。
「君は本当は誰になりたかったの?」
「…勘弁してくれ…」
「君は君にしかなれないよ」
スッと幸村が立ち上がった。風がふわっと幸村の肩のジャージを揺らす。こちらを向いた顔は儚げな笑顔だった。
「俺がテニスを捨てられなかったみたいにね」
「のう…幸村」
「何?」
「俺…、のことが好きなんじゃ」
初めて自分の気持ちを第三者に話した。
これでこの恋を終わらせることができる気がした。
俺は真田になりたかった。そのことをやっと自分で認められた。
そして全国大会。
俺たちは負け、長かった夏が終わった。
◇◆◇
新学期。特に何も変わった様子はない。
最近真田は放課後四階の特別教室にこもりきっている。どうやら風紀委員の仕事らしいが、お前には他にもっと大事なやらなければならないことがあるだろうと怒鳴りたかった。
だから今日、あの計画を実行する。
これは彼女のためじゃない、もちろん真田のためでもない。間違いなく自分のためだ。
真田がいつも通り特別教室に入るのを見届けてから、トイレに向かう。
個室で変装を整え、鏡で細部を確認する。まぁ、ぱっと見なら誤魔化されるだろう。
トイレを出て廊下を歩く。仁王雅治は猫背だが、真田弦一郎は胸を張って歩く。別に誰も不審に思っている様子はない。
変装に一番大事なのは度胸だ。俺はそれを詐欺師が出てくる映画で学んだ。
彼女がいる教室に差し掛かる。今は放課後、掃除の時間だ。教室掃除担当の彼女は廊下側の窓を拭いているところだった。だから彼女はすぐにこちらの視線に気づいた。
窓ガラス越しに視線が重なる。
俺にはこのくらいの距離が丁度良い。触れないし、触られもしない。
が不思議そうに俺を見ている。否、真田を見ている。
あぁ、あの視線は正面から受けるとこんな風なのか。初めて知った。喉の奥が焼けるように渇く。
どれくらいそうしていただろう。あまりもたもたはしていられない。
手を挙げて四本の指を二度折り曲げ、おいでのポーズ。これは真田らしくはないかもしれないが、意図は伝わったようだ。が教室から出てくる。
それを見て俺はやや小走りである場所に足を進める。早すぎてもいけないし、追いつかれてもいけない。一度振り返ると彼女はちゃんと付いてきていた。
目的の階に着き、すっと身を隠し彼女の様子を見る。
彼女はキョロキョロとあたりを見回している。彼女は決して馬鹿ではない。きっとあの場所に気づいてくれるだろう。俺に出来るのはここまでだ。
「先ほど真田くんに変装していたでしょう」
本当は夏休み中に部室の個人ロッカーを片付けるように言われていたが、気が進まず後回しにしてたらとうとう新部長に怒られた。
危なっかしく初々しい部長姿かと思った後輩は、意外と頼もしくやっているようだ。
片付けるため、久しぶりに部室に顔をだすとそこには柳生がいた。彼は自分の(元)ロッカーではなく、奥の資料やら何やらを片付けていた。
「…面倒な奴にバレたのう。でも結構自信作じゃったんじゃがな、プリ」
「姿形は似ていましたが、真田くんは廊下をあんな風に走ったりしません。仁王くんはいつも詰めが甘いですね」
「まぁ真田と俺は正反対じゃき、そういう奴になるんは難しいぜよ」
パタンとロッカーを閉める。もとよりあまり物は置いていないし、半分はゴミみたいな物だ。
柳生はまだファイルを出したり、仕舞ったりを繰り返している。彼の後ろ姿はこんな地味な作業をしているときでさえ背筋が伸びていて尊敬する。俺には無理だ。
「そうでしょうか?私は似ていると思いますよ」
「どこがじゃ」
柳生が資料を片手に振り向いた。微笑んでいた。その顔はいつかの幸村と重なる。
「不器用だけれど優しいところが」
そんなことはない。優しいのはお前だ。優しいのは幸村だ。優しいのは真田だ。
俺はお前たちみたいになりたかった。何かに正直に一生懸命になれるのが羨ましい。
「じゃあ、柳生、結婚してくれ」
「ではアメリカにでも行きましょうか」
「アメリカ?」
「最近、全州で同性婚が認められたそうですよ」
クイっとメガネを持ち上げながら真面目な口調で言うもんだから吹き出してしまった。
「俺はまったく、愛されてるのう」
寂しく終わるはずの今日だったのに、不意な優しさに救われた。
本当はシクシク泣いて忘れるつもりだったのに、どうやらそれもできそうにない。
願わくば、優しいみんながハッピーエンドを迎えられることを