全国大会が終わり、その足で皆と焼肉に行った。
昨日までの自分たちは何処へいったのだろうかと思うほど、皆いつも以上に笑って、はしゃいで、騒いでいた。それを弦一郎も叱りもしないで目を細めて見ていただけだった。
夏が終わった。望む形ではなかったが、それでも終わった。俺は実のところ負けた悔しさや、やりきった達成感よりも終わったことによる安堵感に包まれていた。
その後皆と分かれ、俺はまっすぐ彼女の家へと向かった。
何度か彼女を送ったことがあるので自宅は知っている。
彼女が住むマンションの下までつき、その建物を見上げる。彼女の部屋は高層過ぎて、明かりがついているのかいないのか此処からでははわからない。
玄関の自動ドアをくぐり、ポストに鞄から取り出した包みを入れる。
カタンと音を立ててそれは落ちた。
本来なら借り物をこんな風に返すのは礼儀に反するが、致し方ない。彼女も俺の顔などもう見たくもないだろう。
そして俺はマンションを後にした。


◇◆◇


二年生の秋、精市が原因不明の難病で倒れた。
突然のことで部活はしばらく騒然としたが、現在は落着きを取り戻しつつある。ある一部の人間を除けばだが。
部活が早めに終わった後、市の図書館に向かった。学校の図書館ではないのは、この手の本を見ているところを誰かに見られたくなかったから念のためだ。
夕方の市の図書館はそれなりに混んではいたが、俺が目的の場所は比較的静かで人気はなかった。
背のタイトルを頼りに何冊かその場で要点だけ読む。免疫、発症、痺れ、完治、死亡率…
「お医者さんにでもなりたいの?」
急に背後から話しかけられ驚いた。振り向くと制服姿の女性が俺を後ろから覗き込んでいた。
うちの制服ではないことにほっとしつつも、誰だから分からずしばし観察する。ややあって昔の記憶に引っかかるものを見つけた。
そうだ、微かだが面影を残している。最後に会ったのは三年前だろう。話しかけてきたのは姉の友人のだった。
「ずっと医学書ばかり読んでるから、珍しいなと思って」
「いえ、少し調べたいことがありまして…さんは?」
さりげなく持っていた本を棚に戻す。
「私は受験勉強だよ。蓮二くん」
四つ年上の姉と同い歳のこの人は、高校三年生。来年大学受験を控えているのだろう。
静かに微笑む顔は俺が知っている頃より確実に大人びていて、既に少女ではなく女性の出立ちだった。

その約一週間後。再び彼女に会った。
「あれ?蓮二くん?」
またもや後ろから呼びかけられ振り向くと彼女がいた。
本当に驚いた。まさか図書館に引き続きこんなところで会うなんて。
「また会ったね!最近よく会うね。今日は病院なんて、どうしたの?」
「友人のお見舞いです」
「そう」
さんは…」
「奇遇ね。私は父のお見舞い」
「ねぇ、奇遇ついでに、この後一緒にお茶しない?」

ここは大きな総合病院なだけに、施設内にカフェテリアも併設されていた。
そこに彼女と入り、注文を済ませて座る。
「お友達は何で入院してるの?」
「…免疫系の病気だそうですが、原因ははっきりとはしていないようです」
「そう…早く良くなるといいわね」
さんのお父さんは…」
「父は、癌よ。て言っても早期のだから死んだりはしないみたいよ」
「…それは良かったですね」
記憶に間違いがなければ彼女は一人っ子で父子家庭だったはずだ。
唯一の家族が癌で入院なんて、さぞ心細いだろう。しかし目の前にいる彼女は、気落ちした様子は微塵もなく、図書館で会ったとき同様自然体だ。そう見えるだけなのだろうか。
「あ、ねぇソレ、見せて」
彼女は俺の鞄の中を指差す。それは、今日ここにくる途中に寄った本屋で買った新書だった。
鞄から取り出し、彼女に手渡す。
表紙を見て、裏表紙を見て、中をペラリとめくる。紙を捲る指先がピンと伸びていて美しいなと思った。
彼女はそういった細かい所作が美しい。そんな風に見つめていると本から顔を上げた彼女と目が合う。そして目を細め微笑みかけられる。
「なぁに?」
「いえ、良かったら貸しましょうか?」
「ありがとう。でも蓮二くんが読んでからでいいよ」
そう言って彼女が俺に本を返す。その本には本屋のレシートが挟まっていた。
さんもよく本を読むんですか?」
「そうね、本は好き。でもあんまり新しいのは読んでないな」
「何故ですか?」
「専ら図書館なの。昔は買ってたんだけど、遂に置く場所がなくなっちゃって…もう借りて読むことにしたんだけど、あそこ新書入るの遅いし、人気であんまり借りれないのよ」
「よくあそこに行かれるんですか?」
「うん。最近は毎日。ここに寄った後に行ってるかな。蓮二くんは?」
「俺は専ら学校の図書館ですが、専門的なものが読みたいときは市の図書館へ向かいます」
「そうなの。勉強熱心ね」
この人はもしかしてまだ俺が医学の道を目指していると思っているのだろうか。
何故か後ろめたい気持ちになった。
「お茶、付き合ってくれてありがとう。この間はあんまりおしゃべりできなかったから嬉しかった」
彼女が空のカップを乗せたトレーを待ちあげる。
立ち上がり、去ろうとする彼女の手を思わず掴んでしまった。
「…本をお貸しするのに連絡先を伺ってもよろしいですか」
一瞬驚いたような表情が浮かんだが、またすぐに目を細め、微笑まれる。
彼女のこの表情は年下の俺に対する余裕が滲み出ていて、正直気のいいものではない。
しかし同時に何故かとても強く惹かれるものがあることに自分でも気がついていた。


こうして三年ぶりに彼女と再会を果たし、そして彼女に頻繁に会う様になるまでそう時間はかからなかった。
会う場所はほとんどがあの市の図書館だ。
俺は部活終わりに向かうので、既に彼女が帰ってしまっていることも多いが、それでも一週間に二、三度は顔を合わしている。
図書館なので話をすることはあまりできない。ただ隣で本を読んだり、勉強したりするだけだった。それでも、隙を見て互いのお勧めの本を紹介したり、ときには全然関係のないこともほんのわずかな声量で忍様に話した。彼女がすっと近寄り耳元に唇を寄せると甘い香りが鼻腔をくすぐる。
「ねぇ」
「なんですか?」
これ、っと彼女の指がノートを端を叩く。
そこにはこけしの様な絵が描いてあった。それが何なのかなんとなくわかりつつも念のため確かめる。
「…何ですか?」
そう問えば、予想だおり自分の名前を言われたのに、不覚にも吹き出してしまった。
その所為で周りから咎める様な目線が集まったが、彼女はその様子にも面白い様で肩を上げて声を殺して笑っていた。
相変わらず微笑む彼女は強かだった。しかし、最近はときよりこんな子供の様な顔も見せてくれるようになった。
年が明け、日が暮れるのが遅くなってきたとはいえ、閉館時間の二十時を過ぎれば外はすっかり夜だ。
このまま彼女を一人で帰すのはいささか心配で、家まで送ることを申し出たのも自分からだった。
寒い日はいちいち白い息を楽しむ様に歩く様に昔の出会ったばかりの少女だった彼女の思い出が重なりほっとする。
手を繋ぐでもなく、腕を組むわけでもなく、ただ拳三つ分開けた距離で進む帰り道なのに永遠に続けばいいと思う時間だった。
学校や部活、友人のことを頭の隅に押しやり、彼女のことだけを考られる時間だ。
今の俺にはどうしもこの時間が必要だった。一時の安らぎ。張り詰めた緊張をじんわりと溶かすその熱は心地よかった。
もう精市が入院してから半年が経とうとしていたが、彼はまだ白い狭い部屋から帰ってこない。


◇◆◇


二年生の夏。それは二度目の全国大会が終わり、幸村が部長に就任して間もない頃。
マネージャーが部活が終わったというのに、珍しく部室で唸りながら書き物していたことがあった。
何を書いているのかと思って覗き込むと、そこには「テニス部レギュラーのプロフィール」と書かれていた。
「おい」
「わ!柳、いつからそこにいたの?」
「それはなんだ」
「新聞部に頼まれてたみんなのプロフィール」
「…おおかた頼まれていたのを忘れていて、今慌てて書いている確率−」
「百%でございます。精市には内緒にしてね」
体重身長などは部の記録にあるとして、どうやらその他の項目はマネージャーが勝手に埋めているようである。
「えっと…確か…んーまぁ、こんな感じでいっか」
「他の部員が見たら怒るぞ」
「大丈夫。学校新聞なんかみんな見ないでしょ」
「…少なくとも柳生あたりは読むと思うが」
「じゃあ、柳生のは丁寧に書いてあげよう」
そうではないだろうとツッコミたかったが、意味がなさそうなのでやめておいた。
もう書き終えたであろう彼女の右側に積まれた書類に目を通す。

「…お前には、一度俺のことをどう思っているのかきちんと聞く必要がありそうだな」

 好きなタイプ:計算高い女

計算高い女なんてそんな性格が悪そうな女は好みではない。
俺はどちらかといえば、こちらに支配権のある淑やかな女が好みだ。


◇◆◇


久しぶりに図書館ではなく、病院で彼女にあったのは関東大会の中間報告を真田とマネージャーと一緒にしに行ったときのことだ。
幸村の病室へ上がるエレベーターを待っているとそこで彼女とたまたま鉢合わせた。
「今日はお友達と一緒なのね」
「はい。同じ部活の部員とマネージャーです」
突然見知らぬ年上の女性に話しかけられ弦一郎が狼狽えていた。マネージャーはこんにちはと真田の陰からひょっこり顔を出して挨拶をした。
「こちらは俺の知り合いのさんだ。お父さんがこちらで入院されているんだ」
簡単に挨拶が済んだところで丁度エレベータが音を鳴らした。俺たちは一緒に乗り込んだ。
「蓮二くんのお友達もまだ入院してたんだね。ねぇ、せっかくだから私も一緒にその子のお見舞いしたら迷惑かな?」
彼女の突然の申し出に驚いたが、別に断る理由はない。弦一郎たちにも了解を得て、皆で精市の部屋に向かうことにした。
「あ、コレ邪魔だよね。私は先に父のところに花を置いてから行くね、お友達の部屋は何号室?」
「九〇七号室です。では俺も一緒にお父さんのところへ行ってもいいですが、その後二人で精市のところへ行きましょう」
今日はそもそも簡単な報告にすぎない、弦一郎とマネージャーだけでも問題ないだろう。
弦一郎とマネージャーと分かれ、彼女の父親の病室へ向かった。
彼女の父親に会うのはなかなか緊張する。彼女は俺のことをなんと紹介するのだろう。
いや、友人とし紹介する以外ないのだが、それでもやはり背筋が伸びる。
彼女の父親の病室も幸村と同じフロアの個室だった。
彼女がスライド式の個室のドアを開けるとそこには誰もいなかった。只今検査中という札がベットの備え付けられている机に置いてあった。
「あら、すれ違っちゃったね。花だけ置いて、お友達のところに行こうか」
残念な様な安心したような気持ちになり、自分に苦笑した。
「あ、そういえば、この間蓮二くんが読みたいって言ってた本持ってきたよ」
そう言って文庫本の小説を手渡された。礼を述べて、受け取り鞄に仕舞う。
その間に彼女は持っていた花を手早く花瓶に生け、そして二人で部屋を出た。
廊下を歩きプレイルームを越えた角を一つ曲がると、精市の個室が見えた。
そのとき廊下の自分たちにまで届く大きな怒鳴り声が響いた。
何事かと歩く速度が自然と早まる。真田が病室から出てきたが俺たちに気づくと首を横に振って、それから目を逸らした。
マネージャーはまだ出てきていない。
開いた扉の隙間から精市とマネージャーの会話が漏れ聞こえる。

「来週は他校と練習試合があるよ。それから−」
「やめろって言ってるだろ!」

ガシャンっと大きな何かが割れる音がした。

「やめないよ。来週も報告にくるね」

しばし間を置いて、マネージャーが静かに出てきた。
手にはゴミ袋があった。ゴミ袋の中身を盗み見るとそこには、割れたガラスの破片とここに来る前にマネージャーが幸村のために選んだ花が入っていた。
マネージャーが無言のままエレベーターホールへ向かう。その後ろを俺たちも無言で付いて行く。
いつかこんな日が来るんじゃないかとは思っていた。しかし来なければいいと願ってもいた。
精市の入院が長引くと報告を受けて、自分がマネージャーに言った言葉を思い出した。
「精市にテニスを続ける様に言い続けろ。それがあいつの心の支えになる」
マネージャーはそれをきちんと遂行しようとしてくれている。
エレベターターホールに着くとそれまで俯いていたマネージャーが俺たちに振り向き笑顔を向けた。
「怒られちゃったね。今日のお昼ご飯嫌いな物でも出たのかな」
弦一郎も俺も何も答えられなかった。
すると突然隣の彼女が走り出し何処かへ消えた、そして戻ってきた手には一輪の花が握られていた。
それは先ほど彼女が父親の部屋に生けたばかりの黄色い大きな夏の花だった。
彼女はそれをマネージャーに差し出す。突然のことでマネージャーは戸惑うかと思ったが、そんな様子はなく、ありがとうございますっとお礼を言ってそれを受けっとっていた。
そのままエレベターターに乗り、病院の玄関で弦一郎とマネージャーと分かれた。バイバイっと手を振るマネージャーは笑顔だった。

「お友達、あんまり容態良くないの?」
「いえ、徐々に回復の兆しは見えてきたようで、今度手術をする予定になってます。なのでそう悲観することはありません」
ただ、またテニスができるかどうかは別の話だが、その話を彼女にする必要はないだろう。
「リハビリの積めば、日常生活に支障のない程度には回復します」
「蓮二くんが言うんだか本当にそうなんだろうね」
彼女が歩き出したので、後を追う形で俺も歩き出す。
「お父さんね、癌の転移が見つかったんだ」
初期段階の癌にしては入院が長いと思っていた。彼女と初めてここで会ったのはもう半年以上前だ。
「お医者さんも検査の結果が出てないからなんとも言えないけど、悲観する必要はないって言ってた」
俺の今の位置からでは彼女の表情は読めない。
「でも、やっぱり不安なんだ」
彼女が立ち止まり、俺も立ち止まる。
「蓮二くんはいつも冷静ね」
振り向いた彼女は微笑んでいた。
彼女の声には何も責めるような色は含んでいないのに、一瞬にして俺の心を凍らせた。
何か弁解の言葉を紡ごうにもうまく頭が回らない。
「今日はまだ早いから送ってくれなくて大丈夫だよ」
そう言った彼女の背が遠ざかる。
俺は結局それから一度もあの図書館には行っていない。そして必然的に彼女にも会っていない。
だからずっと俺の鞄の中には彼女から借りた本が入ったままになっている。


◇◆◇


三度目の全国大会が終わった。
そう全て終わった。準優勝の盾を弦一郎が受け取り、抱えている。
本来ならば部長の精市が受け取るのが通常だが、精市が弦一郎にその役を代わらせた。
そこに二人の強い信頼関係を見た気がした。
閉会式を終え皆バラバラと暗い通路を歩き出し、コートを出る。一番後ろにいた赤也が立ち止まっていることに気がつき、振り返る。
赤也はコートに立ったまま俯いている。暗い通路にいる俺からコートにいる赤也を見ると眩しかった。
そんな赤也に精市が駆け寄ると赤也は泣き出したようだった。
勝ちたかったと叫ぶその姿を精市が優しく抱きしめている。俺はそれをただ離れた場所で眺めていた。
程なくして赤也は、目元をぐっと腕で擦り、こちらに駆け出した。
そして俺を追い越し、前にいる弦一郎たちのものへ行く。
その背中を見送っていると、精市が後ろから俺に追いついた。
「赤也は凄いね、今回一番成長したのは赤也なんじゃないかな」
「そうだな」
精市と肩を並べて歩みを進める。俺たちが最後尾だ。
「…蓮二もありがとう」
「何がだ」
「全部だよ。全部。あいつに俺を励まし続けるように言ったのは君だろ」
やはり精市は気づいていた。俺は肯定も否定もせずに精市から目を反らす。
「だって、あいつ一人じゃ絶対あんなの耐えられるわけないもん」
精市はさっきまでの死闘が嘘だったかのように爽やかに笑っていた。
「…すまない。俺は…」
「謝る必要なんでない。あいつも君に助けられた。とても一人では耐えられなかったはずだよ。俺も、君たちがいたからここにまた立ててるんだ」
それは違う。マネージャーが耐えられたのは彼女自身の強い信念故だ。少なくとも俺はマネージャーを助けられたことなんかない。
精市がもっとも苦しんでいるとき、それを全て彼女に背負わせたのは自分だ。
選手には選手の役割がある、マネージャーお前にはマネージャーお前の役割があるはずだと。
「本当だよ。君たちとの約束の言葉は俺の道標だった。どんなに暗闇でもそれだけは変わらず輝いていたんだ。大丈夫、この約束は北を示す星だ。それを頼りに俺は歩き続けられるって」
精市が右手で自分の左胸を触る。
共に三連覇を果たそう。そう誓い合ったのはまだ中学に入ったばかりの頃だった。
あの頃の俺たちは皆、未来の光を疑わず、自分たちがこのまま歩めば、それは必ず掴めると信じていた。
「だから、蓮二が自分を責める必要なんてどこにもないんだ。」

俺はマネージャーの健気さに漬け込んだ。赤也の危うさに目をつぶった。弦一郎の意地を見て見ぬ振りをした。そして幸村の強さにすがった。
この混乱した状況下で心を殺して冷徹に振る舞うことの方が、よほど楽だった。だから策謀という立場を利用して、俺は逃げた。
全ての役割を決め、割り振り、他人を動かした。そしてそれを俯瞰して、全体の流れを操ることこそ自分の役割だと割り切った。
あいつらに寄り添い、励まし、共に歩むのではなく、常に自分を優位な立場に置いた。
しかし本当はいつも心の中では、彼らとの距離に苦しんでいた。
勝手に自分でこの状況を作っておきながら、いつかこんな自分に皆が背をむけるのではないかと怯えていた。
 「蓮二くんはいつも冷静ね」
 「俺は柳さんみたいにいつも冷静じゃいられない!」

彼女の最後の言葉と赤也が先日俺に言い放った言葉が重なる。
そう思われても仕方ないことをしている自覚はあるのに、はっきり言葉にされると傷つくなんて身勝手も甚だしい。

「精市、すまない…」
「だーかーら、謝らないでよ。それに真田だけだったら今頃部活は、空中分解してたよ」
精市がケタケタと笑っている。なのに俺はそれが良く見えない。
「気持ちに寄り添うだけが、支え方じゃないと思うんだ」
程なくして、自分が泣いていることに気づく。ああだからこんなにも視界が不鮮明なのか。
「テニスを捨てなくてよかった。そう君達に伝えたくて勝ちたかったんだけど…ダメだった。ごめんね」
謝らないでくれ、お前は何も悪くない。
そう言いたいのに音にすることができなかった。
「みんなさ、蓮二に感謝してるんだよ」
精市が先ほど赤也にしたように俺の背を撫でた。
こんな風にしてもらえる資格なんて俺にはない。そう思うのに、その手に縋る自分はなんて醜いのだろう。

「蓮二はさ、ちょっと物事を悪い方へ、悪い方へ考え過ぎる癖があるよね。他人の言葉に裏の意味を持たせようとしすぎなんじゃない?」
集合場所に着く頃、精市がそう言った。
そんなことはない。全て物事を冷静に判断した結果に過ぎない。
現実とは常に冷酷なものなのだ。


◇◆◇


新学期になり、部活を引退すると生活が一変した。
今まで如何に部活中心の生活だったのかを思い知る。
突然与えられた時間に困惑しながらも、自分がしなくてはならないことを黙々とこなしていたある日、久しぶりに赤也が俺の教室までやってきた。

「てっきりお前は、データになど興味はないと思ってたんだがな」
赤也に今までのデータや資料、スコアブックの整理を一緒にして欲しいと頼まれたときは驚いた。
「あ、ひっでぇー俺のことバカにして!」
「馬鹿になどしていない。どういう心境の変化なのかと思っただけだ」
精市引退後、赤也は新部長になった。何度か練習を遠巻きに見たが、なかなか頑張っているようだった。
「俺、今までずっと一人でテニスしてるって思ってたんスけど、きっとそうじゃないんだなってやっと気がついたんス」
赤也が手を止めて、横の壁を見上げた。俺もつられてそちらを向くと、そこには歴代テニス部の集合写真が飾ってあった。
そして一番右には俺たちがついこの間撮った写真が飾られていた。
「俺一人の考え方とか、やり方だけじゃ勿体ない、今まで先輩たちが積み上げてくれたもの全部生かしたい」
精市が真ん中で、隣に盾を持った弦一郎。その隣に丸井、ジャッカル、赤也と続き、後ろには仁王、柳生、そいて一番端に俺が立っている。
「俺一人が立海ここで戦ってるわけじゃなくて、今までの歴史があって立海ここなんだって」
赤也は集合写真たちに愛おしそうに微笑みかけている。
そこにはもういつも俺たちの後ろを必死で追いかけてきた後輩の姿はなかった。
いつの間にか赤也はきちんと自分の脚で前を向いている。
「お前は、きっと良い部長になるんだろうな」
「その確率何%っスか?」
「…六十八%といったところかな?」
「何スか!そのリアルな数字!柳さんのバカ!」
きっと本当に赤也は良い部長になるだろう。確率計算なんて馬鹿馬鹿しいくらいに。
「柳さんの冷静でどんなときでも動揺しなくて、でもちゃんと俺らのことも見てくれてて…そういうところ尊敬してるんス。ま、たまにマジでムカつくこともありましたけど、でもやっぱり尊敬してるんス」
こちらに向き直った赤也の八重歯が見えた。
赤也がそんな風に自分のことを思っていたなんて思いもしなかった。てっきり俺の冷徹な態度を軽蔑してるんだと思っていた。

 「柳はさ、物事を悪い方へ、悪い方へ考え過ぎる癖があるよね」

精市の言葉を思い出す。
本当にその言葉を信じて良いのだろうか。俺もずっと独りで戦っているような思いだった。けれど、赤也や精市の言うように俺は自分が思うほど独りではなかったのかもしれない。
そう思った途端、数々の場面が思い出された。どの場面も全てに部員の顔や家族の顔、そして彼女の顔があった。
「あ、そういえばマネージャーが柳先輩は好きな人がいるって言ってたんスけど、本当っスか?」
突然の赤也の発言に咳き込む。
「え?マジ?俺、絶対嘘だと思ってたのに」
「…何故…」
「女の勘って言ってたっスよ」
そういえばマネージャーは一度彼女に会ったことがあったのを思い出した。
女の勘とはこんなに恐ろしいものなのかと初めて思い知った。


◇◆◇


俺は精市と赤也の言葉を聞いて、一つの仮説を立てた。
それを立証するには、彼女に会わなくてはならない。

図書館へ来たのは二ヶ月ぶりになる。
彼女が今日ここにいるかどうかなど確証はない。いつもの癖で確率計算はしたが無意味に感じて途中で止めた。

あたりを見回しながら、静かに歩みを進める。
まだ夏の暑さが残る外気にしばらく晒されていたので、図書館の涼しさが際立つ。
また一つ、また一つと書架を通り過ぎる。
そして目当ての書架に着くと彼女の後ろ姿を見つけた。久しぶりに見る姿に安堵と緊張が同時にやってきた。
小さな声で彼女の名を呼ぶ。
彼女は本から目を離し、静かに俺に振り向いた。
あのときとは逆の立ち位置で目を合わせている。あのとき名を呼ばれて振り向いたのは俺だ。
振り向いた彼女は何も言わない。俺をまっすぐ見つめ、言葉を待っているように見えた。

「俺は貴女が好きです」

俺のことを嫌いなのかと聞くより、この方が遥かに簡潔な答えがえられるだろう。
彼女の黒い瞳がゆっくりと細くなり、俺のよく知った表情になる。
「いつ言ってくれるかなって思って待ってた」
ああ、やはりこんな表情は好きじゃない。手の内全て見透かされているようで、居心地が悪い。
けれどどうしようもなく知りたくなる。その表情の向こう側を。これは未知なる領域への探究心だろうか。

いつかマネージャーが勝手に書いていた己のプロフィールを思い出す。

 好みのタイプ:計算高い女

あながち間違いではなかったのかもしれない。本当に女の勘というのは馬鹿にできない。
彼女に翻弄されるなら本望だ。