※悲恋

勝ちたい。だって俺が先輩のためにできることはそれくらいしかない。


勝って当たり前のうちは、もちろん勝っても褒めてはもらえない。負けたときは容赦ない制裁があるくせに、不公平だと思う。
そんなことを愚痴ったら、丸井先輩にそんなに鉄拳喰らいたくなきゃ、勝ちゃあいい話だろぃと言われた。
そういう話じゃない。
頑張ったら褒めて欲しい。勝利したら一緒に喜んで欲しい。
ここに入る前はいつだって、すごいすごいと言われてきた俺にはそれが少々不満だった。

「赤也、頑張ったね、お疲れさま」
だけど先輩たちの中でマネージャーの先輩だけが、いつだって俺に労いの言葉をかけてくれる。
試合が終わったあと、新しいタオルとドリンクと、先輩の笑顔。
それは俺にとってささやかなご褒美だった。


「丸井先輩、彼女いるってどんな感じっスか?」
レギュラー陣の中で唯一彼女持ちの丸井先輩に聞く。てゆーか、なんでこの人モテんだろ、わっかんねぇ。
「…別に、まぁメールの返信とか、一緒に帰る帰らないとか、面倒くさいときもある…」
「ふーん」
「でも、悪くはない…」
「ふーん…」
「てか、なんだよ急に!あ、お前、好きな奴でもできたの?赤也のくせに生意気だろぃ!」
「ちょっ!違うっスよ!」

好きとかじゃない。好きとかじゃ、決してない。だって先輩には幸村部長がいる。
付き合ってるとかそういうわけではないらしいけど、それでも先輩は幸村部長しか見ていないのは俺にだってわかる。
だから好きになったってしょうがない。報われないとわかっていて好きになるなんて格好悪い。


◇◆◇


そんな風に思っていた一年のときの自分を思いだして、辟易する。
今日は夏休み前、最後の登校日。朝会とHRしかない。
全く受け取りたくない成績表を名簿順に渡されて、席に着く。
夏休み前だからってクラスの奴らは浮き足立ってる。いつものHRの時間より数倍賑やかな教室にうんざりする。
終わるまでまだ時間がかかりそうだと思い、机の上に突っ伏しる。目を閉じて寝ようと思ったが、無理だった。
そのままの体勢でいると、ふとテニス部という単語が聞こえてきた。
どうやらクラスの誰かが何か噂しているようだ。

「テニス部、この間負けたんだろう?」
「まあな。でも全国大会には行けるよ」
「部長の先輩ってまだ休んでるんだっけ?」
「うん。今リハビリ中、でも近々復帰予定」
話し声の主は、俺の斜め前のテニス部の奴とバスケ部の奴だ。
“負け”という単語に奥歯が鳴る。
「つか部活ずっと休んでるのに部長ってどうよ?それで帰ってきて全国大会いけるんだから楽したようなもんじゃね?」
「まぁ確かに。あー俺も部活サボリてー」

気がついたらそいつらを何発か殴ったあとだった。俺は教師に羽交い締めにされた上に何故か全身びちょ濡れで、周りにはなぎ倒された机と椅子が転がっている。
廊下には水が出てるホースを俺に向けた柳さん。床には俺が殴った奴ら。それから…そこで初めて血の気が一瞬にして引いた。そこには膝を折り、左肩を押せて俺を見上げる先輩がいた。
「みんな、うちの後輩がすまなかった。、大丈夫か?」
「あ、うん。ちょっとガラスで切っただけだよ」
先輩の肩は真っ赤な血が滲んでている。手で押さえているのにそれはじわりと広がり、ポタリポタリと一滴ずつ床を汚す。
「切原!こっち来い!」
先輩に何か言いたいのに唇が動かない。俺は教師に引きずられる様にその場から連れ出された。
それからしばらく特別指導室に呼ばれて担任と副担任、副校長、学年主任という豪華なラインナップで説教をされた。
一応殴ったことは謝罪したが、俺は最後まで殴った理由は言わなかった。
特別指導室での長い説教が終わって、やっと外に出れるとそこには真田副部長が待ち構えていた。間髪入れず鉄拳が俺の左頬を打つ。
「何度言ったらわかるんだ!自分を見失うな!」
副部長は俺が試合で赤目モードになる度怒っていた。精神の鍛錬がなってないとか言って。けれどいつからか何も言わなくなった。
それは何よりも勝利を優先したからだろう。
「副部長が言ったんじゃないっスか!何をしても勝てって!」
俺はその場から駆け出し、副部長から逃げだした。
俺だってそうだ。何より今、勝利することが大事になった。目の前の敵を倒すことだけに集中した。そうすると不思議と周りが敵だらけに見えてきた。
どいつもこいつもみんな俺を嫌い、馬鹿にして、蔑んでいるように見えてくる。
だから倒す。倒す、倒す、倒す。そうするといつの間にかコートに立っているのは自分だけになった。
俺はいつも一人きりだ。


もうとっくにHRは終わって本来なら部活の時間だ。とりあえず無人の教室に戻ったものの、自分がこれからどうすべきなのか悩む。
もういっそのことサボってしまおうか。
しばらくすると誰かの足跡が聞こえた。もう校舎には人影がないので、その足跡は嫌に耳についた。
廊下から柳さんが姿を表す。

「そろそろ説教が終わる時間だと思ってな。迎えにきた」
「…迎えなんていらないっスよ…」
「そうじゃないとお前がサボる確率は八十二%だったのでな」
言い当てられて不貞腐れる。柳さんから目を反らすと割れたガラスが目に入った。
「…これ、俺がやったんっスよね?」
薙ぎ倒した机や椅子は元に戻され、床に散らばった破片は片付けられていたが、ガラスは割れているまま窓枠に収まっていた。
「あぁ。そのおかげでお前にホースで水をかけるのに、窓を開ける手間が省けた」
「…なんで、ホースで水なんか…」
「ここは水道から少し離れているから、バケツで水を運ぶより楽だろう」
「そういうことじゃないっスよ…」
「冷たい水は興奮状態で熱が上がっているお前を鎮めるのに効果的だと思ってな」
確かに俺が自我を取り戻したのは頭に強烈な水圧を感じた後だ。
「…先輩は…」
「大丈夫だ。肌の上皮を少し切っただけだ。しかしあとで謝っておけ」
先輩も俺を止めようとしたんスよね…」
「あぁ。しかしの力ではお前は到底抑えきれなくて、振り払われた拍子に転んで、そのときに肩を怪我した」
先輩の俺を心配そうに見上げる顔を思い出す。俺はいつもあの人に心配かけてばかりだ。
「…何があったか話せ」
俺は無言で柳さんからまた目を反らす。
「部活の…精市のことを何か言われたそうだな」
「なんで…!」
「殴られた方の生徒を尋問させてもらった」
「俺、俺…」
「ああいう奴らには勝手に言わせておけばいい」
「俺には無理っス!俺は柳さんみたいにいつも冷静じゃいられない!俺は、もう無理っス!」
「…一度の負けで全てを手放すのか?」

いつからテニスをすることがこんなに苦しくなったんだろう。
ここに入る前は向かうとこ敵なしで、みんなにちやほやされて、神童だとか言われて、いい気になってた。
自分一人で好き勝手にテニスをしてた。
テニスは俺をヒーローにしてくれる。そんな場所だった。
でもここでは違う。俺より強い奴がいて、倒したいけど倒せなくて、ムカつく。けれど同時に心強いチームメイトでもあった。
チームで戦うなんて今まで考えたことなかった。
俺の勝敗は俺だけのもので、誰かの為に勝ちたいなんて思ったことなかった。
勝ちたいが勝たなくてはいけいに変わり、責任という形で重くのしかかってきた頃、部長が倒れた。
副部長が掲げた無敗で部長を待つという約束は、いつの間にか願掛けに等しくなっていた。
いよいよ勝たなくてはいけいという思いが重みを増す。もし、負けたら、そう思うと正気でいられなくなる。
勝ちたい。勝ちたかった。勝たなきゃいけなかったのに。
「…柳さんにはわかんないっスよ」
そう吐き捨てて教室を出る。俺は今度は柳さんからも逃げ出した。
俺は逃げ出してばかりだ。
重圧や責任。嫉妬や羨望。今の俺には抱えきれなくて、投げ出した結果がこれだ。
きっと先輩たちだって心の中ではこんな俺のことお荷物だと思ってるに違いない。


教室を出ると廊下には先輩がいた。
「赤也大丈夫?どこかまだ痛む?ここ、真田に殴られちゃったの?」
俺の顔を見て、先輩は心配そうに俺の左頬に触れる。
痛い。そんなところじゃない。心が全部痛いよ、先輩。
「先輩…ごめん…俺…」
負けちゃった。あんなに勝ちたかったのに。
俺は鉄の掟を破ってしまった。
部長の手術にも間に合わなかった。
「ごめんなさい…」
先輩は部長が入院してからも、俺があんな試合するようになってからもずっと変わらず俺に優しく接してくれる。
先輩だけが唯一の俺の光だ。
だけど本当は違うことを知ってしまった。変わっていないように見えて先輩も本当はずっと辛かったんだ。
青学戦で負けた俺にタオルを差し出したとき、先輩の手は震えてた。
けれど表情はいつもの優しい笑顔だった。それを見て俺は、いつも以上に自分が情けなくなった。
先輩だってこんなに頑張ってるのに、俺はなんでこんなに脆いんだろう。
何故こんなにも俺は弱いのだろう。
何故こんなにも彼女は、みんなは、強いのだろう。
「大丈夫だよ。大丈夫。だから泣かないで」
先輩が俺を包み込むように抱きしめる。それはまるで小さい頃に母親にあやされている感覚を思い出すものだった。


◇◆◇


全てが終わった。閉会式後のコートには誰もいない。
「赤也、何してるの。もう戻るよ」
「部長…」
俺たちは青学に再び負け、全国大会優勝三連覇を成し遂げられなかった。
「俺、勝ったら嬉しいし、負けたら悔しいっス」
「うん」
先を歩いて部長が俺のところまで引き返してくれた。
「俺、勝ちたかったっス。先輩のために、部長のために、みんなのために、勝ちたかったっス」
「うん、ありがとう。ありがとう、赤也」
部長がそっと俺を抱きしめる。それはいつかの先輩のような優しさに満ちていた。
「来年は、…来年は絶対勝つ…っス…」
俺はずっと守られてきた。情けなくてみっともなくて惨めなこんな自分をみんな切り捨てずにずっと守ってくれた。やっとそれに気づいた。
これからは俺が誰かを守れるほど強くなりたい。
アンタの様に、優しく微笑む部長を見た。



新学期になって一ヶ月が経った。それは即ち俺が部長になって一ヶ月が経ったということだ。

先輩は引退した今でも時々手伝いに来てくれる。
後輩のマネージャーは結局育たず、一年生が彼女の仕事を分担することになった。
だから様子を見にきてくれている。

先輩と部長が付き合い出したのだと聞いたのはほんの数日前のことだった。
しかし俺はそれを聞いてもさほど悲しみや落胆はしなかった。そのことが少しだけ自分で誇らしい。
良かったね、先輩と彼女の元どおりの笑顔に素直にそう思う。

「赤也、随分部長らしくなったね」
「まあね!」
「頑張ってね!応援行くから!」
「ハイ!」
二人で話していると少し離れたところから先輩を呼ぶ部長の声がした。先輩がそれに大きく手を振り応え、俺に背を向け歩き出す。

先輩!」
その背中に向かって俺は大きな声を上げる。きっと部長にも聞こえているだろう。
「大好きです!」
振り向いた先輩は俺を見てにっこりと笑う。
「私も大好きだよー!」
そういう意味じゃない。先輩が言っている好きと俺の好きは違う。けれどいい。先輩は笑ってる。その顔が見たかったんだ。



ハッピーエンドじゃないけど、バッドエンドでもないんじゃないかと思う。
俺は俺の脚でまた歩き出す。今度こそ本当に強くなるために