「やめないよ。来週も報告にくるね」
がパタンと扉を閉めて、再び病室に静寂が訪れた。
あんなことを言うつもりなんてなかった。俺が割った花瓶を拾うの姿が頭から離れない。それを振り払いたくて、共同洗面所まで顔を洗いに行く。
鏡に映る俺は青白く、いかにも病人だった。
◇◆◇
絵を描くのも良いかもしれない。美術館に行って、時間を気にすることなく絵画に触れてみるのもいい。
映画を撮ってみるなんてどうだろう。なかなか面白そうだ。脚本を自分で書くんだ。あえてモノクロームの無声なんて、なんだか洒落てる気がする。
最近興味を持ったフランス文学をもっとよく理解するために、フランス語を勉強してみようか。誰かが訳したものではなく、原文のままで読めたらまた違った感動を得られるかもしれない。
それから、それから…、まだ何かあるはずだ。自分に問いただす。絞りだせ、未来への展望を。そう強く握りすぎた拳は血の気を失い、元より白い肌がより一層生気を欠く。
俺は昔からこの自分の白い肌が嫌いだった。
なんだがとてもひ弱な印象を与えるし、何より日焼けをすると赤く熱を持ち、ポロポロと剥がれて痒くて煩わしい。
しかし、もうそんなことを気にする必要はきっとない。
なぜなら、もう自分はあの照り返す暑さの中、汗だくになりながら黄色いボールを追いかけてラケットを振ることはもう出来ないのだから。
「テニスなんてもう無理だろう…」
医師と看護師が俺の枕元で話しているのを偶然聞いてしまった。
彼らは、俺が眠っていると思っているのだろう。本当に眠っていたらどんなに良かっただろう。
彼らが去っていく足跡と共に自分の血が脈打つのが聞こえた。
けれど、そんな言葉を聞いても俺にはまだそのとき微かな希望が残っていた。
人間の身体に起きることに絶対なんてない。なんていったって俺は「神の子」だ。運命を変えることだって、奇跡を起こすことだって出来るかもしれない。そう自分に必死に言い聞かせた。
テニスは俺にとって何より大切なものだ。今まで全てを懸けてきた。
周りの子が子供らしく遊んでいる間、俺は毎日練習をした。テニスは楽しいけど、やっぱり楽しいだけでは強くなれない。練習は毎日辛かった。
けれどそれをやめようなんて思ったことは不思議と一度だってない。
テニスをすることが当たり前で、それがない生活なんてもう想像もできなかった。
それに人一倍練習をした成果か、試合でも結果を残せるようになった。
いつの間にか「神の子」なんておかしなアダ名がついたときは自分でも笑ったが、勝手に言わせておけばいいと思った。
俺の強さは、天から与えられた才能でもなければ、神から愛されたが故の強運でもない。
全て自分自身の努力の結果だ。そのことは自分がわかっていればいい。
入院生活は今までの生活と比べると恐ろしく暇だった。
こんなに身体を動かさないことなんて未だかつてなかった。
逆に身体を悪くしそうだと思ったが、絶対安静というのが医師からの命令だったので仕方がない。
ただひたすらに時間だけがある。朝がきて、昼がきて、夜がくる。冬が過ぎて、春が過ぎて、雨が窓を叩く日がやっと終わり、夏がちらほらと顔を出しはじめた。
倒れて以来体調は徐々に回復し、それからはあまり変化がなかった。ときより、身体に痺れを感じるもののしばらくすればそれは治まっていた。
早く治したい。そのためだったらなんだってする。
俺には帰る場所がある。何より俺を頼りにして、待っていてくれる仲間がいる。
「まずは自分の身体を治す事に専念しろ」
真田が俺をたしなめるように言う。
「幸村部長がいなくっても立海の三連覇に死角は無いっスよ」
「それはそれでヘコむなぁ」
「えっ、いや…そうじゃなくって」
「嘘だよ」
焦った赤也に冗談だと笑えば、赤也はほっとしたように息を吐いた。
こうして厳しい練習を終えて、みんなで見舞いに来てくれるのも嬉しい。
着実に彼らは三連覇の夢を現実のものに近づけていっている。
早く俺もそこに戻りたい。
彼らが帰ってゆくその後ろ姿を自分の病室から見下ろす。
また一人、また一人と見えなくなり、最後尾のが振り向き俺に気付く。大きく手を振り、彼女もまた木陰に隠れ見えなくなった。
ベットの横のロッカーを開けて、ラケットを取り出した。
軽く素振りをする。なんだ全然動くじゃないか、ほらやっぱり俺は「神の子」だ。
俺は大丈夫だ。自分に言い聞かせるように、また何度もラケットを振る。
振る力がどんどん強くなる。まだまだ、出来る。きっとすぐに元どおりに出来る。
カランと音を立ててラケットが手から滑り落ちた。
ラケットを拾うために、膝をつく。グリップを握ぎって拾い上げようとしたが、それはまたカランと音を立てて床に落ちた。
その音は絶望の音だった。
本当はもうわかっていた。俺は「神の子」なんかじゃない。運命は変わらない。奇跡は起こらない。
最近、身体に痺れがくる間隔が狭くなった。本当はもう歩くのも厳しい。
自分の身体が鳴らすサイレンに、必死に耳を塞いできたがもう限界だった。
◇◆◇
「君、将棋はできるかい?」
共同洗面所から自分の個室に帰る途中、にこやかな中年の男性に声をかけられた。歳は俺たちの父親くらいだろうか。
何度か見かけたことがある人だった。たぶん同じ個室部屋フロアの入院患者だ。
「少しなら…でも」
「じゃあ相手をお願いできないかな。ここの階の人たちはなかなか誘いずらい人ばかりでね」
本当は早く一人になりたかったけれど、あまりにもその人が頼むので、少しだけならっと了承した。
「いやー強いね!声をかけてよかった。僕の人を見る目もまだまだ鈍っていないってことかな!」
そんなことはない。俺は別に将棋なんか強くはない。真田と蓮二の対局を少し横で見るくらいだ。
「ずいぶん利発そうに見えるけど、歳はいくつだい?」
「十四歳です」
「そうか!中学…」
「三年生です」
「そうか、そうか!てっきり高校生かと思ったが中学生か…」
いやー参った参ったっと笑いながら頭を掻く姿は、あまりに朗らかで入院患者らしくなかった。俺とは違い随分健康的に見える。
それからというものプレイルームで顔合わせれば必ず将棋に誘われた。
初めこそ乗り気ではなかったものの、徐々にこの人との時間が楽しくなってきた自分に気付く。
こんなところでなくてはおおよそ話すこともないだろう大人のこの人の話は、どれも興味深いものだった。
そして何より話しを聴かせることがこの上なく上手かった。
冗談のつもりで落語家ですかと問えば大爆笑して、ただの会社員だと言われた。
「大人はみんな口が上手いから気をつけなさい」
そう笑われた。
は相変わらず毎週末、部誌のコピーと小さな花束を持って病室に訪れた。
あの日以来、俺を見舞いに来る部員は彼女だけになった。
静かだった病室に彼女の明るい声だけが響く。
テニスの話はしないでくれという俺の叫びは彼女には全く届いていないようだった。
俺が相槌を打たなくても彼女は一向に構う様子なく、話し続ける。
「」
「なあに?」
が俺の目を今日初めて見た。
「俺、もうテニスは出来ないんだ。母さんに聞いただろう」
「聞いたけど、まだわからないじゃない。手術が成功してリハビルをすれば−」
「それでもテニスの様な激しいスポーツは無理だよ」
「そんなことやってみなきゃわからないじゃない。頑張ろう、私もリハビル一緒に手伝うから」
が俺の腕にそっと触れた。俺はその手を思いっきり振りほどく。
「なんでわかってくれないんだよ!もう忘れたいんだ!テニスなんて出来なくても死ぬわけじゃないだろう!」
必死に前向きにこれからのことを考えてようとしているのに、どうして彼女はわかってくれないんだろう。
どうして忘れせてくれないのだろう。どうして俺を責める様にテニスの話ばかりするのだろう。
「…もう来ないでくれ」
一刻も早く、目の前からテニスに関する全てのものを消したりたい。
お願いだ。もう、許して欲しい。
「でも私、テニスしてる精市好きだな」
彼女はまた来るねと笑顔で立ち去った。
俺の心からの叫びは、何故彼女にこんなにも届かないんだろう。
こんな俺なんて早く見捨てて、どこにだって勝手に行けばいい。
彼女がこんな態度を自分対してとるなんて正直驚いている。
彼女は今までずっと俺の後をただひたすら追ってきているだけだと思っていた。
俺はそれを可愛く感じていたし、同時に煩わしくも感じていた。
俺がいないと何もできない、そう思っていた。俺の言うことなら何でも聞くと思っていた。
だから彼女が、いつ俺の言葉にびくともしない鋼の心臓を手に入れたのかわからない。
ずっと一緒にいたと思っていたのに全く気づかなかった。
俺が知っている泣き虫な彼女はもう何処にもいなかった。
彼女が来たその日の夜、俺は浅い夢を見た。
夢の中の彼女は俯いていた。きっと泣いているのだ。彼女は泣き虫なのだから。
俺は彼女を慰めるためそっと近づく。
しかし俺に気付き、顔を上げた彼女は泣いてなんていなかった。俺の肩越しに何かを見つけ、嬉々として俺を置いて歩き出す。
俺の横をすり抜ける彼女の腕を慌てて掴む。
此処は暗くて広くて寒くて独りでは恐ろしい。
待って、行かないで、置いていかないで。必死に彼女の腕に力を込めて引き戻そうとするが、彼女はもう俺なんか見ていない。前にいる彼らを見てる。その先には光輝く星が七つ、煌めいていた。
自分の身体にどんどん力が入らなくなってついには彼女の手を離してしまった。引いてた力の反動で尻餅をつく。
そんな俺を彼女は振り返り、俺の後ろを指差した。
「それは捨てちゃダメだよ。大事なものでしょ」
彼女が指差す先を見ると、そこにはよく見慣れた黄色い球が一つ転がっていた。
何故かどくんどくんと脈打つように動くその球に触れると涙がでた。
そうか、これは俺の心臓だ。
これを捨てて置きざりにすることはできない。
そっとそれを両手で包むように持ち上げた。
彼女はそんな俺を見て嬉しそうに何か呟いた。唇が動いているけれど、音として俺には届かなかった。
目が覚めると頬が不自然に濡れていた。
外はまだ紫色を微かに残した白んだ青だった。
自分の病室を抜け出し、プレイルームまで歩く。
何か冷たいものでも飲んでスッキリしたかった。
とぼとぼと力なく、スリッパを響かせて着いたそこには、こんな時間にもかかわらず人影があった。
「やぁ!おはよう!」
彼はやはりこんな朝から元気爽快だった。
「どうしたんですか、こんな明け方に」
それは自分も同じなのに思わず聞いてしまった。
「老人は朝が早いっていうだろ」
「老人なんて…そんな歳じゃないでしょう」
「僕は今年で還暦だ。立派なおじいちゃんだよ」
てっきり四十代だと思っていたその人は、さらにその二十も上の六十歳だった。
驚いて目を丸くしてると、彼は面白そうに笑いだした。
「嘘だよ。本当は今年で五十二歳。でも君みたいな若い子からしたら、五十二も六十も大差ないだろう」
そういえば、大人は口が上手いから気をつけろと注意を受けたのは先日のことだ。
俺も思わず笑った。
「昨日、検査の結果が出たんだ」
ハイ、とプレイルームに備え付けてある自動販売機で買ったコーンクリームスープを手渡された。
それはこんな真夏にはきっと自分の出番がなんてくるはずないと不貞腐れていたような生ぬるさだった。
「結果はね、悪くなかったんだ。癌の転移が見つかってしまったけれど、手術すれば問題ないらしい」
以前彼が癌の初期段階であることは聞いていた。しかし入院が長引くのは何か理由があると思っていたが、転移していたのか。
「前にも話したけど、僕には君より少し上の娘がいるんだ。母親を早くに病気で亡くしてしまったから、それこそ父娘二人三脚で頑張ってきた」
彼の表情が和らいだ。彼が自分の娘のことを話すとき、決まってこの顔になる。愛おしいと思っていることが惜しげもなく滲み出ている顔だ。
「嘘。二人三脚じゃないな。お互いバラバラに頑張ってた。僕は娘に何不自由させないように兎に角働いて働いて稼いだ。彼女は彼女で僕に面倒はかけまいと、どんどん自立した優等生に育っていったよ」
彼は自分の分のコーンクリームスープのプルタブを開けた。
それを乾杯と俺のもっていたそれにコツンと当ててから飲んだ。
「時は矢のように過ぎてね、小さかった彼女がいつの間にか十八歳になった去年の秋に僕は突然倒れたんだ。癌だと医者に告げられて、ただただ驚いたよ。妻のこと以来健康面にも出来る限り気を使っているつもりだったからね」
俺が倒れた時期と彼が倒れた時期はほとんど同じようだった。俺が倒れたのも去年の秋だ。もう随分昔のように感じる。病院という閉鎖空間は時間の感覚もふやかされ麻痺してしまう。
「自分が死ぬかもしれない。そうなって初めて娘に何も残せていないなって気づいたんだ。お金は当分の間心配ないだろう。彼女が大学へ行ける分くらいの貯蓄はある。でもそうじゃない、もっと大切なことがあったんじゃないかって。それをこれから埋めていきたいのにって」
彼が何か思い出すように上を見上げた。
「もうすぐ二十歳だからね、娘が成人式に妻の形見の着物を着ると言っていた。その晴れ姿が見たかった。将来はどんな職業に就くんだろう。どんな仕事だって応援する。でもできれば人間らしい生活がおくれる職がいいと思う。いつかは結婚をしたいなんて言い出すんだろうか、相手の男は娘が選んだ男だ。きっと良い奴なんだろう。だけど一発くらい殴っても良いんじゃないだろうか。僕の手や首にシワが目立つ頃には、彼女によく似た小さな孫まで生まれてるかもしれない。娘に何もしてあげられなかった分と、孫は目一杯甘やかしてしまって、きっと娘には怒られるだろう」
この人がどんなに娘を愛しているのかが伝わってきた。
未来は愛や希望が無ければ描けない。
「本当にこのまま死んだんじゃ、娘に申し訳なくってね。素直に娘に謝ったら、「なんでお父さんはもう死ぬ気でいるの?お医者さんは大丈夫って言っていたでしょ」って呆れられた」
なかなか肝が据わった娘だろ?と笑みがこちらを向いた。
「でもね、その後こうも言われたんだ。悔いが残る人生の方がいいって。ああもっとこうしたかった、ああしたかったって死ぬその瞬間まで、 何かに期待できる人生は幸せだった証だって。だから勝手に死ぬ気になんてなって、大事なものを生きているうちに諦めたらつまらないって」
まだ手放してはいけないとボールを指差した夢の中のを思い出した。
あの夢の意味がやっと今わかった。
「君にはそういうことを言ってくてる人はいるかい?」
「…はい」
俺より俺の未来を諦めず、信じて、帰りを待っていてくれる存在に気づいてたまらなくなった。
「そうか…じゃあ大切にしてあげなさい」
「…はい」
怖かった。大切にし続ければ、信じ続ければ、この苦しさはいたずらに続くばかりでないのか。
必ず報われると約束された努力なんてこの世にない。報われるかわからない中、懸命に挑むから辛いんだ。
そしてその辛さから逃げたら最後、絶対に報われることはない。信じて突き進み、いつしか振り返ったときにやっとそれが枯れたか実ったかを知ることが出来る。
そうわかっている、わかっているのに、俺は逃げた。
希望という名の星はもはや目で見えないほど弱々しい輝きになり、光のない闇夜が訪れた。
早く別の光を見つけることこそ、自分に出来る最も有意義な生き方ではないかと思った。
必死にテニスが俺の全てではないと思おうとした。けれど確かにテニスは俺の全てではないけれど、俺の一部だった。とても大切な決して何にも代えられない一部。それが無くては、俺は生きていくことが出来ない。
そのことに気付いてしまった俺に、この希望を再び捨てる選択肢はない。
今逃げたら一生後悔が残る。
俺も諦めたくない。自分に本当に死が訪れるギリギリまで希望を信じたい。
まだ不安は残るけれど、俺は独りじゃない。
どんな困難な道でも俺の隣には必ず俺を励ましてくれる心強い彼女がいるに違いない。
「あ、コレ、なんかごめんね」
そう言って、彼はまだかなり残った自分のコーンクリームスープの缶を揺らした。
「夏に飲むもんじゃないねぇ」
そうですねっと俺も自分の手の中のそれを見て笑った。
「もう、迷いはない」
関東大会の決勝日が俺の手術の日と重なった。
手術前、真田から電話をもらう。
予定通り勝ち進んでいるようで安心した。
「…頑張れよ。手術前にはそっちへ向かう。関東優勝の土産を持ってな!」
「うん。頑張る。じゃあまたあとで」
ガチャンと病院の公衆電話の受話器を置き、自分の病室に戻る。
手術を受けるためにストレッチャーに乗せられた俺の手には、に頼んで持ってきてもらったテニスボールがある。
これは俺の心臓だ。絶対に手放したりなんかしない。そう強く握りしめ、手術に臨んだ。
手術が終わり、俺が自分の病室で目を覚ますと既に日が沈み、部屋には静寂と闇が訪れていた。
俺のテニスボールを握る右手を両手で包むようにして握りながら、身体を折って眠っているに気付く。
自然と表情が緩んだ。
ふと枕元の花瓶に大きな向日葵が生けてあることに気付いた。
その太い茎に触れる。細かい毛で覆われているそれは、なんだかテニスボールに似ているなと思った。
がゆっくりと目を覚ました。
「おはよう」
「おはよう!アレ?」
はまだ少し混乱している様子で瞬きを何度もして、必死に脳みそを起こそうとしていた。
その姿が彼女らしくて可愛くて笑いが溢れた。
「コレ、が生けてくれたの?」
「え?あ、うん。そうだよ。ここに来る前に学校に寄って引っこ抜いてきたの」
「え?引っこ抜いてきたの?」
「大丈夫だよ。裏門前の精市の花壇で、私が育てたやつだから」
確かに裏門前の花壇は、俺が倒れる前に美化委員で担当していた場所だった。
しかし俺が担当していた頃は別の花が植わっていたはずだ。
冬になりその花は枯れ、春になり彼女によって新しい種が植えられ、そして夏にまた花を咲かせた。
それだけの季節、彼女はずっと俺を見守り続けてくれた。
「おかえり」
まだ眠たげにそう言った彼女の唇の動きは、あの時の夢で見た彼女のそれと同じだった。
「うん、ただいま」
俺は俯いて唇を噛みながら、絞り出した声で返事をした。
◇◆◇
リハビリも無事終え、俺は全国大会前にテニス部に復帰することが叶った。
退院の日に彼に挨拶に行くと初めて彼の娘にも会えた。
確かに彼が、誰これ構わず声を大にして自慢したくなるのもわかるほど美人な娘だった。
「君にいい人がいなかったら、ぜひ娘の彼氏になって欲しかったんだけどなぁ」
すいませんと言って苦笑した。しかし、そんなこと言って本当にそうなったらこの人はこんな穏やかなまま俺に接してくれるのだろうかと考えて、また苦笑する。
「お父さん勝手なこと言わないで。それに私、好きな男の子ならいるわよ」
「え!お父さん聞いてないよ!そんなの聞いてない!」
本気で狼狽え出す父親を見て、娘は心底面白そうに笑っていた。
彼らに別れを告げて、病院を出る。ここで過ごしたのは、十四年と四ヶ月分のたった十ヶ月だ。
その永遠に等しく思えた短い時間も外から見上げた俺がつかっていた個室も既に遠い彼方に感じた。
復帰の日、朝一番に部室につきユニフォームに着替え、用意をしているとが部室に入ってきた。
おはようと声をかけられたので、俺もおはようと返す。
が支度を終えて、先に部室を出た。入れ違うように、部員が次々と姿を表す。みんな口々に朝の挨拶をして、ネクタイを緩め始める。
丸井が朝から菓子パンを食べ出している。しかもジャッカルにジュースをたかってる。
赤也が蓮二に夏休みの宿題の進捗状況を尋問されて冷たい汗をかいている。
仁王は眠たげに大きなあくびをした。柳生はその隣で着替えをもう済ませて、メガネを拭いていた。
真田はすでにもう朝のロードワークを一通り終えてからここに来たのだろう。初めからジャージ姿だった。
それはまるで、倒れる前の部活となんら変わりない風景だった。
俺は長い夢でもみたいたのではないだろうかと錯覚しそうになる。
練習が始まる時刻になったので、用意を済ませた部員から部室を出る。
蓮二が俺の肩に軽く手を置いてから出て行く。その後、赤也もまた俺の肩に触れてから柳を追うように扉から出る。
ブン太、ジャッカル、柳生、仁王とそれは続き、真田が最後に少し強めに俺の背中を叩いた。
それが彼らなりの気の使い方なのだと思うと少し笑えた。不器用にもほどがある。でも嬉しい。
そして俺も彼らの背中を追うように部室を出る。
うだるような暑さと蝉の鳴く声が俺を包む。
俺は間に合った。あとは勝つだけだ。
それが今まで苦労かけた仲間たちへの一番の「ありがとう」に繋がると信じて。
◇◆◇
幸せに音があるなら、きっとこんな音ではないだろうか。
協会の鐘が頭上で鳴り響く。
式が終わり、同じ建物内の披露宴会場にみんなで移動する。
たちはまだ先ほどの興奮が忘れられないようで、女の子同士でキャッキャとはしゃいでいる。
「しっかし、本当意外だよなー」
「まさか仁王が一番だとはね」
「俺は一番はブン太か幸村だと思ってたぜ」
あの夏からもう十年の時が経った。こうしてみんなで集まるのも久しい。
「で、あそこでごにょごにょ言ってるオッサンはなんなの?」
丸井が壁際で必死にメモにかじりついている真田を指差す。
「友人代表のスピーチ頼まれたんだって」
「へー、てっきり柳生あたりがするかと思ってた」
「いえ、私は余興担当です!楽しみにしててください」
「…すげー怖いんだけど」
「仁王先輩緊張してたっスね!」
赤也が無邪気に笑う。ワックスで多少抑えているものの相変わらず髪の毛はもじゃもじゃと自由に飛び跳ねていた。
「あ!赤也、ネクタイ曲がってる!」
と一緒に話していた女の子が赤也の歪んでいたネクタイを締め直しにくる。
この子は高等部からテニス部のマネージャーになった子だ。
にとっても初めての後輩で、嬉しかったのだろう。二人は今でも大変仲が良い。
「相変わらず、尻にひかれてんなぁ、赤也」
「な!ちげーし!コイツが勝手に−」
「はぁ?アンタがいつもちゃんとしてないのが悪いんでしょう!」
いつもの痴話喧嘩が始まる。赤也とこの子が付き合い始めたのは、俺たちが高校を卒業する直前だった。
「 仁王の奥さん、大学の後輩だっけ?柳生は会ったことあるんだよね?」
が興味深々で柳生に尋ねる。
「はい。とても素敵な方でしたよ」
ほとんどなんの前触れもなく、仁王から結婚式の招待状が届いたのは三ヶ月前のことだ。
仁王は昔から突飛な行動が多かったから、そのときもなんとなく納得してしまった。
もちろんすぐに出席に丸をつけて、返信した。
元テニス部メンバーは同じ円卓を囲み、披露宴が始まった。
そしていよいよ真田の新郎友人代表のスピーチの番になる。
真田があまりにも緊張するものだから、こっちまでそれが移る。
ハラハラしながら壇上に立つ真田を見つめる。
真田は簡単な自己紹介をして、今日は新郎への手紙を書いてきたので、それを読みたいと便箋を取り出した。
親愛なる君へで始まったそれにみんな度肝を抜かれた。
丸井は飲んでたカクテルを吹いていた。
しかし最初こそそんなはじまりだったものの、それは真田なりの優しさと暖かさの詰まった良い手紙だった。
隣のは感動のあまり涙を流していて、そっとハンカチを手渡した。
柳生のとんでもない余興(レーザー光線を駆使した一人Perfumeダンスパフォーマンス)も終わり、披露宴は新郎新婦から両親への花束贈呈で幕を閉じた。
そして二次会、三次会を終える頃にはすっかり日を跨いでいた。
みんなと分かれて、と二人手を繋いで帰路につく。
「いい式だったね。私たちのときもあの演出できるかな?」
「式は来月なんだからもう変更は無理だと思うよ。それに俺たちは俺たちの式でいいんじゃない?」
「ハーイ」
鍵を取り出し、玄関のドアを開ける。
が適当に脱いだハイヒールを揃えて、俺も革靴を脱ぐ。
ドレスのままベットに倒れたを無理やり起こし、シャワー室に放り込む。
そのあと自分も簡単にシャワーを済ませ、寝る支度を整える。
「おやすみなさい、精市」
「おやすみ、」
目を閉じて、今日のことを、十年前のことを、仲間のことを、君のことを思い起こした。
俺も親愛なる君へで始まる手紙を書いてみるのもいいかもしれない。そう思いながら、君の隣で静かに眠りについた。
今年、向日葵の咲く季節に俺たちはハッピーエンドを迎える。
病めるときも健やかなるときも、富めるとき貧しきときも、死が二人を分かつまで
新たな誓いは愛と希望の光に満ちていた。