「ちょ、ブン太重い!」
「先輩、もっとそっちいって!」
「いやまずブン太が、」
コートの隅でおしくらまんじゅう状態なのは、予想外に気温が下がったからだ。
桜は散り、いよいよ春の暖かさを目一杯楽しめると思っていたのに、どうも今年は寒春らしい。
いちいち朝の天気予報をチェックする習慣のない奴らはこうやってツバメの雛のように身を寄せ合って暖をとるしかない。
身体を動かせば少しは温まりそうなのだが、二面しかないコートは真田と柳、幸村とジャッカルがそれぞれ使用中だ。
「」
真田との試合をわざわざ中断して、柳がこちらへやってくる。
「寒いのならコレを着ていろ」と自分の上着をに寄こし、またすぐにコートへと戻っていった。
それを受け取ったは申し訳なさそうに、けれど嬉しさを堪えきれずはにかみながら、身体に合わないサイズの上着を羽織った。
「『』だってー! ねぇ、先輩も柳さんのこと『蓮二』って呼んでるんスか?」
赤也が子供のように囃し立て、が「う、うるさい!」と顔を赤くする。
上手くいっていないと落ち込んでいたのはつい最近の話だが、どうやらそれも無事解消されたようだ。
尻ポケットに入れていた携帯が短く震え、メッセージが入ったことを知らせる。仁王からだ。
やはりメッセージは短い。
〈パス〉
これは今日ここには来ない、という意味だろう。
この間の居酒屋も仁王は〈パス〉をして来なかった。
これで〈パス〉二回目。だいたいのゲームは〈パス〉は三回までだから仁王が使える〈パス〉は残り一回ということになる。
だが、仁王はそんなこと無視してこれから先もこうやってある意味律儀に〈パス〉を使い続けるんだろう。
誰か幸せの裏で誰かが泣いている。
仕方がない。同時には叶わない願いがあることをもう子供ではない丸井はちゃんと知っていた。
◇◆◇
仁王がの名前を呼ぶとアイツはレモンの皮をそのまま齧ったような顔をする。
まずと柳が付き合って、別れる。そしたら次は仁王とが付き合って、別れる。そんで次はアイツと仁王が付き合って別れて——
っていったいなんの順番待ちだ。
丸井は自分にセルフツッコミを入れて、そのままダラリと自分の机に突っ伏した。
高校二年生の春だった。
丸井とはD組で、仁王がとなりのE組。そして、柳がF組だ。
「」
休み時間、仁王が教室の後ろのドアからの名前を呼んでいる。
どうやら何か忘れ物をした仁王がに借りにきたようだ。
こういうとき、以前だったら柳生に借りていた仁王だが、柳生に借りるといちいちお小言がうるさいと最近はもっぱらのところへ来るようになっていた。
が「またぁ?」と言いながらもロッカーから出した自分の日本史の資料集を仁王に貸してやる。
仁王はそれを「ありがとさん」と受け取り、飴玉を一つ、にくれてやっていた。
「こんなんじゃ誤魔化されません」とムッとするの膨れた頬を仁王が片手でつまんで潰す。
二人はそのまま教室の後ろでしゃべっていた。
やべ、そういえば俺も数Bの教科書持ってきてたっけ?
慌てて自分の机の中身を確認しようとしたときに、自分と同じく仁王たちを見ていた人間をたまたま見つけた。
周りの友人だちが盛り上がってるなか、その子だけが鋼鉄のお面をつけたように血の通わない表情をしている。
ふと、そんな彼女と目が合った。
が、すぐさま逸らされ、彼女は作った笑顔で友人たちに向き直った。
そういうことか、と丸井はひとり悟る。
「ねぇ、ブン太!」
に呼ばれて数Bの教科書がちゃんとあることを確認してから丸井も二人のところへ向かう。
チラッと横目で再び彼女を見やれば、また目が合ってしまい、何故か今度は丸井の方が先に視線を逸らしてしまった。
そんなことがあった数日後の席替えで、何の因果か丸井は彼女ととなりの席になる。
「シクヨロ」
丸井がふざけてウインクをすると、彼女はきちんと「よろしく」と笑い返してくれた。
なんだ、ちゃんと笑えんじゃん。
勝手に抱いていた根暗な印象がそこで覆る。
それに、結構可愛い顔してやんの。
呑気にそんなことも思った。
となりになってわかったことは、彼女も甘い物が好きだということ。特に洋菓子が好きらしい。
あとは、体育が苦手そうにみえるが実はそんなことはなく、逆に勉強は言うほど得意じゃないこと。それから——
「」
スイーツ特集が載っている雑誌を二人で覗き込んいたら、仁王の声が聞こえて二人揃って振り返った。
すぐに向き直ったが、一瞬彼女の表情が凍ったのを丸井は見逃さなかった。
やっぱりコイツ、仁王のこと——と、丸井は改めて思う。
「コレ、美味しそうだよね」
彼女はトンットンッと指で雑誌に載っている菓子を指して、丸井に「ね?」と同意を求めた。
銀座に本店のあるパーラーの夏季限定の焼き菓子だ。丸井は過去に一度だけ、母が得意先から貰ってきたとかなんとかで食べた経験があった。
「パッケージもレトロで可愛いし、私レモンのお菓子って特別好きなんだ」
丸井は「わかるわかる! この時期になると食べたくなるよな!」と返事をする。
その日の夜。丸井はキツイ部活後、帰宅してすぐにキッチンへ向かった。
私レモンのお菓子って特別好きなんだ。
その言葉を反芻しながら、「兄ちゃん、なに作ってんのぉ?」とうろちょろする弟たちをかわしつつせっせと手を動かし、焼き菓子を作った。
ウィークエンドシトロン。平たく言えばレモン風味のパウンドケーキだ。
本当は食べたがっていたものと同じくチーズケーキにしようかと思っていたのだが、あいにくクリームチーズが手に入らなかった。
しかし、レモンの菓子が好きならきっとこのケーキも好きだろう。
週末を一緒に過ごす大切な人と食べるお菓子——というのはなんだかむず痒いふれこみのあるフランスの伝統的な焼き菓子だ。
見た目もこだわり、白い糖衣をかけた上に砕いたピスタチオを乗せて彩をたす。
自分で言うのもなんだが、我ながら天才的な出来だ。
「兄ちゃん、兄ちゃん、おれも食べたい!」
「オレも! オレも!」
「待ーてって。今やっからちょっと大人しくしてろぃ!」
さっと温めたナイフで完成したケーキを切り分けていく。
まだまだ質より量な弟たちは一切れ食べたそばから、もう一切れとせがみ出した。
「ダーメ」
「なんで? ケチ! まだあんじゃん!」
「コレは明日学校に持ってくの」
ええ! と不貞腐れる弟たちをよそに二切れ分をキレイにラッピングして、スクールバックの中に入れて、潰れないように気をつけながら次の日の朝登校した。
丸井が彼女にそれを手渡すと、ものすごく驚かれたが、「ありがとう」と笑ってくれる。
彼女の笑った顔がもっとみたい。丸井はそう強く思った。
感情を無理矢理押し込めるような作り笑いじゃなくて、甘い物を食べてほっと落ち着くような、そんな柔らかい幸せそうな顔がみたい。
丸井は自分の気持ちをはっきりと自覚した。
「なぁ、柳ー!」
だから、柄にもなく他人の恋の世話を焼いた。
たとえ自分の恋が実らなくとも、それでいい。
が柳のことを好きなことはずっと前から知っている。
だから、適当に理由をつけて柳を自分のクラスに呼び、その輪の中に無理矢理も混ぜた。
は普段はあけすけな性格だが、恋愛事となると途端と消極的になり、丸井が知ってる限り約四年もの間ただ黙ってじっと柳の背中を見つめて過ごすことに時間を費やしていた。
「話しちゃった! 話しちゃった! 今日は会話が三ターンも続いた!」
丸井の企みとは知らないは柳と話せて単純にはしゃいでいた——のもほんのわずかな間だった。
しばらくすると、勘付いたに余計なことはするなと怒られ、柳はそれを知ってか知らずか、丸井のクラスに来てもとは特段話さなくなった。そして、仁王は最近めっきりうちの教室には近づかなくなっていた。
「もしかして、気づいてる?」
となりの彼女にそう聞かれて丸井はドキッとする。
「あ、そっか。やっぱり」
丸井がなにも答えぬうちに彼女は察して苦く笑った。
違う。違う。俺が見たかったのは、そんな顔じゃない。
「応援してくれるのは嬉しいんだけど、」
言葉が不自然に途切れた。下手なくせに無理に笑おうとしているから、右頬が引きっている。
不器用なんだから作り笑いなんかするなよ、と怒鳴りつけたいが、今そうさせているのは自分だとわかっているから、丸井は黙るしかなかった。
「惨めになるからやめて」
絞り出された声を受け止めたくて、差し出した丸井の手は一度彼女に伸びてから、なにも掴めず力なく下に落ちていった。
◇◆◇
「あ、コレすごく美味しい!」
喫茶店のテーブル席で向かいに座る彼女が瞳を輝かせる。
やっぱり連れて来て正解だった、と丸井はテーブルの下で拳を握った。
味覚が似ているのが単純に嬉しい。自分が美味しいと思ったものを相手も同じように美味しいと感じてくれる。
それは丸井にとってとても大事なことだった。
「そうだ、この間新宿で柳くんとさん見かけたんだけど……」
ケーキを一口大に切りながら、なんてことない世間話のように彼女が語り出した。
「なんか最近とうとう付き合い始めたらしいぜ」と丸井が平然を装って応えると、「へぇ!」と素直に驚きと嬉しさが混ざったような顔をした。
「よかったね。さん」
「……まぁな」
「やっぱり敵わないなぁ」
「なにが?」
「ずっと片思いとか……私には無理だ」
彼女がポットから残りの紅茶をカップに注ぐ。
「いる?」と訊かれ、丸井は首を横に振った。
「仁王くんは?」という問いはなかった。逆に不自然だと思ったが、丸井はなにも言わなかった。
「私なんか好きになってくれてありがとうね、ブン太」
「……“私なんか”なんて言うんじゃねぇよ、バカ」
彼女がはにかむ。
彼女はこの数年で作り笑いも昔より随分上手くなっていた。
今やずっと一緒にいる丸井でも見分けは難しい。
「」
彼女が顔を見上げて「なあに?」と丸井に微笑んだ。
神様は最高に意地悪だ。
彼女の名前は、彼女が恋をした男が恋い焦がれる女の名前と同じ響きを持っていた。