運命だと思った。
その瞬間、大音量で響いていたはずの音楽は鳴り止み、踊り狂っていた周りのやつらもすべてマネキンになる。
ミラーボールのきらめきが彼の乾いた肌に当たり、弾け飛ぶ様を私は息をするのも忘れて魅入っていた。
これを逃したら一生後悔する。
そう脳が判断するよる前に身体が勝手に動いていた。
プライドや恥を捨てるのには案外抵抗はなかった。
「ねぇ、——」
こんなところで自分から声をかけるのは初めてだから言葉が上手く続かない。
いきなり後ろ腕を掴まれた彼はこういうことに慣れているのか少しも驚いている様子はなさそうだ。
「一緒に外出るか?」
耳元でそう誘われる。
渡りに船。素直に頷くと、彼は目を細めて妖艶に笑い、地上へ出る階段を上っていった。
ついて来いということなのだろう。
あとはもう欲望のままに動いた。
手近なラブホテルに入り、ドアが閉まると同時に彼の首に腕を絡ませキスをする。
彼もちゃんとはじめから応えてくれたのが嬉しい。
キスをしながら大きな掌で腰や太腿を弄られ、身体が勝手に淫らにうねる。
シャワーもそこそこに大きなベッドに倒れこむと、一気に貫かれて、理性もなにもかなぐり捨てて一心不乱にふたりで乱れ合った。
ここまで約三十分。
地下のフロアからふたり抜け出して、ホテルに入って、はい本番。
日頃の運動不足が祟たり、私はすでに体力の限界の門をくぐろうとしていた。
煙草を燻らす背中をベッドの中からぼんやりと見やる。
日焼けすると赤くなって皮が剥けるタイプの肌だろう。それに代謝も良くなさそうで、さっきの今でも汗ひとつかかずザラリと乾いた質感のままだ。
肉付きは全体的に薄く、背骨がポツポツと海に浮かぶ小島のように目立つ。
どう贔屓目に見てもあまり健康的には見えない。
「ねぇ、なんかちょっと元気ない?」
「なんじゃ満足できんかったか?」
「そういうことじゃなくて……気持ち的な話」
何を言いだすんだこの女、と小馬鹿にされるように首を捻られた。
沈黙の中で彼が煙草を吸い続ける。
どうせ尋ねたところで行きずりの女相手に人生相談もないだろうとは思っていたので諦めた。
「フラれた」
ポツリと彼がそう言ったのは、彼が煙草を吸い終えて、私が瞼を閉じきる寸前のことだった。
「……彼女に?」
「違う。片想い」
似合わない、と率直に思う。
私がそう思ったことを敏感に悟った彼は口元に薄ら笑いを浮かべて、「ハハッ」と乾いた声を出した。
直感でしかないけれど、本当の話をしているんだろうな、と思った。
「そんなにその子のこと好きだった?」
さすがに「さあのう?」と惚けられた。意地の悪い質問だったかと反省する。
「ねぇ、どんな子?」
「ん、そうじゃのう……頑固で融通が効かんくて諦めの悪い女かの」
「ふーん、いいな子なんだね」
丸く曲がった背中が寂しそうに「……そうじゃな」と呟く。
その寂しさの百分の一でもその彼女に示すことができれば、きっと何かが変わったのかもしれないのに、と自分のことのように悔しくなった。
真実を語るように嘯き、嘘をつくように真実を語る。
きっと彼のそんな捻くれた性格が彼の恋を実らせなかった要因の一つなのだろう。
◇◆◇
「ほんまにおった」
ひとり公園のブランコを揺らしていると、聞きなれない声に話しかけられた。
ぎょっとして身を固くする。だがすぐにその人物がさっきまでお邪魔していた友人宅の上の弟だということがわかり小さく息を吐いた。
「どうせそこらで落ち込んでるだろうから、送ってってやれって命令されたナリ」
陽はすっかり暮れていて、欠けた月がやけに冴えていた。
住宅地であるのここらへんは街灯があっても、夜は人通りは少なく確かに危ないかもしれない。
友人なりに気を使ってくれたのだろう。
ありがたい。が、今は正直ありがた迷惑だ。
それに、姉に似て派手な容姿をしている上の弟はさぞや異性にモテるだろうというオーラが凄まじく、それがなんだか今は無性にいけ好かない。
どうせなら、下の弟の方が良かった、と思う。
「いらっしゃい」ときちんと挨拶してくれたところがポイント高かった。
まぁ、小学生が護衛になるとは思えないが。
「男にフられただけでようそれだけ泣けるのう」
私が座っているブランコのとなりのブランコにひょいっと弟くんが飛び乗る。
なんで知ってるんだとひと睨みすると「ピヨ」っとわざとらしい裏声で鳴いた。
「うち、壁薄いから丸聞えじゃ」
あーそうですか。そうですか。なら、私が五股かけられたあげく、逆ギレされて、ポイ捨てされたのご存知なんですね。
ささくれだった心は自分を傷つけるのが大得意だ。
友人の前では「アイツほんとサイテー!」と罵りまくって強がっていたが、夜の公園で独りしくしくと泣きたいくらいには落ち込んでいたし、好きだったんだ。
そっとしておいてほしかった、というのは我儘なのだろうか。
「俺の名前、知っちょるか?」
やや間をとって、「マサハル?」と答えれば「正解」と褒められる。
なんだ突然、と思いつつもなんとなく話に乗っかった。
独りになりたいと願いつつ、本当は独りにはなりたくなかった心がそうさせた。
「“ナツミ”に“マサハル”に“アキヒコ”だっけ? 一貫したネーミングだよね」
「ほんじゃ、一番下はなんて名前でしょう?」
三姉弟だと聞いていたが、最近また産まれたんだろうか。
「……わかないよ。ヒント頂戴。せめて男か女か」
「オンナ」
「えー……っと、“フユコ”、“フユミ”、“フユカ”、“フユ……わかんないっ!」
降参! と白旗を揚げた私にマサハルくんは「俺ら、三人姉弟じゃ」と言って笑った。
揶揄われたと悟り、半ば八つ当たりのような恨みも込めて彼の腕を平手で容赦なく叩く。
けれど、「少しは気、紛れらじゃろ?」と言った彼の前で、そういえば、という顔をしてしまった私は負けだ。
「そろそろ行くか」
そう言って先に立ち上がったマサハルくんに素直に続く。
もうだいぶ気持ちを落ち着いていたし、何よりこれ以上彼を自分に付き合わせるのはさすがに悪い。
私がついてきてるか確かめるように振り返ったマサハルくんが私の名前を呼んだ。
「……せめて“さん”くらい付けてよ」
いきなり下の名前を呼ばれたら、そりゃあ年下の、友人の弟でさえ、少なからずドキッとする。
「可愛い名前じゃな」
「君はなに? その歳でジゴロですか?」
ハハハッと笑った彼は姉の言いつけをしっかりと守り、私を家まできちんと送り届けてくれた。
「ほんじゃ、またの。オネーサン」と言われて、名前を呼んで欲しかったと思ってしまった自分に慌てて喝をいれる。
「私ら本当は四人姉弟だったんだよね」
そんなことがあって、だいぶ経ってからのことだった。
友人がなんだか遠くを見るような目つきで語り出したので、私は黙って聞いていた。
「みんな楽しみにしてたんだけど、」
お腹の子は産まれる前に流れてしまったらしい。
「まぁ、みんなって言ってもマサもアキも小さかったから覚えてないだろうけどね。名前まで考えてたのよ。“ナツ”に“ハル”に“アキ”だから、今度は真夏に産まれようがなんだろうが絶対“フユ”を入れようって」
急にこんな話してごめんね、と笑った彼女とは高校を卒業するタイミングで疎遠になってしまった。
弟もちゃんと覚えていて、その傷はあなたと同じようにきっと一生モノだよ、とは慰められなかった自分がひどく人でなしに思えたけれど、あの夜の出来事を誰かに口外する気にはどうしてもなれなかった。
大好きだった彼氏に裏切られて泣いたあの夜は、友人の弟の感傷に知らずに触れてしまった日に上書きされて、何年も経った今でも私の心の部屋の壁に画鋲で貼り付けられたままだ。
何かの折についつい思い出してしまう。
私の名前を呼んだあの優しい声がいつのまにか宝物になっていた。
◇◆◇
「ねぇ、その子、名前なんていうの?」
確証があったわけではなかったが、そんな予感はしていた。
彼が教えてもいないはずの私の名前を呼んでつい笑いそうになるのをなんとか堪える。
そうか。可愛いと褒めくれたのは私の名前じゃなかったんだ。
知りたくなかったけど、知れてよかった。
これでようやく謎が解けた。
何故あのとき、彼があんな話を突然私にしたのか。本当はずっと引っかかっていたんだ。
ねぇ、本当は誰にその話を聞いてもらいたかったの?
「じゃあ、今夜は私のことそう呼んでいいよ」
後ろからそっと彼を抱きしめた。
慰めたい気持ちを隠して精一杯素知らぬふりをして大人の女の顔で笑う。
「お前さんとは初めて会った気がせんのう」
「そういう気の利いた台詞はもっと早く言ってよ」
目を合わせて笑い合った。
月もブランコもないけれど、夜の静けさだけならここにもある。
今夜出会ったばかりで互いの名前も知らぬ男女が、嘘を隠して抱き合っている。これはただそんなありふれた話だ。