※ヒロインが柳に失恋する描写あり

 特にこれといった問題もなく、平常通り部活が終わる。
一年生とコートの後片付けをしてから、洗濯物を一人で取り込んで、最後に部誌を記入するため部室に戻ると、丁度幸村部長と柳先輩が外に出てきたところだった。
簡単な言葉をいくつか交わし、去っていく二人の背中に一礼して、彼らと入れ替わるように部室に入る。

「……お疲れ」
「うん? お疲れ」

 中に入るとすでに着替えを終えて制服姿の切原がパイプ椅子に足を組んで浅く腰をかけていた。
他の部員はもうみな帰ったようだ。
微妙なためらいを含んだ切原の物言いに若干引っかかるも、まあいいや、と部誌を棚から取り出して、書き込んでいく。
私はこれが書き終わるまで帰れないし、切原も私がこれを書き終えて部室の鍵を閉めるまで帰れない。
必要事項を事務的に埋めていく。なるべく早く済ませようとできるだけ集中してペンを走らせた。

「……なぁ」

 切原の声が静かな部室に響く。
顔を上げて確かめなくてもここには彼の他に私しかいないんだから、私に話しかけているんだろう。
私は部誌を書く手は止めず、切原に「ん?」とだけ返事をした。

「柳先輩にあげたの?」

 目的語がなくて、切原が何を言いたいか一瞬わからなくて考えた。
そしてややあって思い出す。ああ、そういうことか。今日はバレンタインデーだった。
いつもみたいに私を急かすことなく、部室の隅で妙に大人しくし座っていた理由がやっとわかった。

「あげたよ」
「え? マジで? お前、根性あんな!」

 それまで所在無さげに首を下に垂らしていたのに、私の答えを聞いてパッと上がった切原の顔は目がまん丸に見開かれていて、その正直すぎる反応に笑える。

 そんな切原は、私が柳先輩にフラれていることを知っている数少ないの人物の一人だった。


◇◆◇


 全国大会が終わって、私はずっと好きだった柳先輩に勇気を出して想いを伝えた。
勝算があったわけじゃない。でも、もしかしたらって期待する気持ちが全くなかったかと言えば嘘になる。
一縷の望みをかけて挑んだ告白は、「お前の気持ちは嬉しいが、俺はそれに応えることができない」という誠実なでもきっぱりとした否定の言葉で断られた。
「わかりました」と絞り出した声は微かに震えていたが、顔はどうにか笑顔を保てたと思う。
柳先輩が去ったあと、我慢していた涙が頬を伝った。
憧れの先輩がもう絶対に届かない場所に離れていくのを感じて切なくて苦しい。
 独り静かにそこで泣いていると、じゃりっと砂を踏む音が背後から聞こえて、振り返ればバツの悪そうな顔をした切原がつっ立っていた。

「……悪い、聞くつもりなかったんだけど、たまたま……」

 たぶんそれは嘘じゃない。
切原は咄嗟に嘘がつけるほど器用じゃないのを私は知っている。
フラれて惨めに泣いている私を前にして、切原はどうしたらいいのかわからないのか、その場を行ったり来たりして落ち着かない。
 もうなんでもいいから、早くあっちにいってよ! と、ささくれ立ってる心が毒づいた。

「あのさ、」
「……何」
「お前さ、案外いいマネだよ」
「は?」
「ほら、コートのライン引き上手いし、腕筋すごくてめっちゃ重いもんとか自分で持てるし、応援するときとか声一番デカイし!」

 それ全部、マネージャーとしては褒められてても、“女の子”としてはダメ出しされてるようにしか聞こえない。
馬鹿正直な切原が言うからよりタチが悪い。
ナメクジに塩を振ってるってわかってないのか、切原はなおも的外れな言葉で私を一生懸命褒め続けた。
 弁当食べるのも早えし、着替えんのも超早え! えぇっとあと、カップラーメン作るの上手いよな! もうネタ切れなのか、最後の方雑すぎるだろ。

「だから泣くなよ」

 切原のとんちんかんな慰めはその場ではむしろ私を不愉快にさせるだけで大した威力を発揮しなかったが、あとになってじわじわと私の心に響いた。
あのときの切原の必死な顔を思い出すと、思わず笑えてきてしまう。
 くよくよしてても仕方がない。切原が言う通り私ってば結構いいマネージャーなんだからっ! と自分に活を入れて次の日もちゃんと部活に向かうことができた。


◇◆◇


「別にまだ好きとかそういうんじゃないよ。ただ、」
「ただ?」
「前みたいに普通の先輩後輩に戻りたいなって、思ったの。中学卒業してもまた高校は一緒なわけじゃない? 私、高校でもマネ続けたいしさ。だから逆に渡したの。もう私は大丈夫ですよ、って。ちゃんと柳先輩のこと先輩として好きですよってわかるように。わざわざ幸村部長といるときに一緒のものあげたしね」
「……なんだよそれ、わけわかんねぇ」

 不貞腐れて「せっかく心配してやったのに」て顔に書いてある切原。
切原はあれからずっと私を心配してくれている。それがくすぐったくて、暖かくって、なんだか嬉しい。
私、いい仲間を持ったなって思う。
 柳先輩が誰を見つめているか気づいたのは、私が彼に告白してしばらくしてからだった。
いつだって穏やかなはずの目元をほんの少し困ったように歪めて、見つめるその先にあるものは一つ上の先輩マネージャーの後ろ姿だった。
冷静になれば気づけたはずだ。恋ってやっぱり盲目なんだな、と改めて痛感。
二人が上手くいけばいいと心から思える私はもうきっと大丈夫なんだと思う。
長かった片想いを意外とこんなにあっさり整理できたのは、切原のあの不器用な優しさのおかげだ。

「切原」

 まだ拗ねているのか「んだよ」と怖い顔で睨まれてしまって、私は困ったように笑いながら、あとで渡そうと思っていたものをスクールバックから取り出して、切原に向かって差し出した。

「ハッピーバレンタイン」

 切原は一瞬きょとんとした顔になり、それから私と私の手元を視線で何度か往復してからやっと「サンキュ」と溢して受け取ってくれた。

 渡したものの中身はフォンダンショコラだ。
昨日家庭科部主催で行われていたお菓子教室には、部活でどうしても出られなかったので、参加した友達にその日配られたレシピを画像で携帯に送ってもらった。
丁寧に書かれたレシピだったので、なんとか私でも上級者向けのフォンダンショコラを作ることができた。
 焼きあがった一つを試食するため、熱いうちにナイフで半分にする。
途端、真ん中からチョコレートが流れだして、自分で作ったくせに感動してしまった。
 一口頬張る。
外側はちゃんと焼けていてしっとりめのココア生地。けれど内側はどろりと生チョコで、舌の上を時間差で違う食感のチョコレートが滑っていく。
名残惜しくそれを飲み込んだあと、私は何故かまたあの日の切原の顔を思い出していた。

「あのね、切原のは特別なんだよ」
「えっ」
「切原にはいっぱい励ましてもらったし、ほらあと一年、夏までだから半年か、一緒に頑張ろうって気持ちを込めて! 柳先輩たちには二つなんだけど、切原には特別三つ!」
「あ、そういう……」
「え? 何?」
「なんでもねぇよ!」

 なんでかちょっと怒ってる切原に首を傾げながらも、私は言葉を続ける。

「今年こそ全国制覇してさ、先輩たちに自慢しちゃおう! ね、切原部長!」

 切原は幸村部長にも負けないいい部長になるよ。
テニスに一途なことはもちろんだけど、仲間のことも思いやろうとしてるのみんなにちゃんと伝わってるから大丈夫だからね。
そう口に出してしまうと切原はきっと嫌がるだろうから言わないけど。

 切原は「あーっ、ちくしょう」とかなんとか言いながら頭を掻いて、乱暴に「おう!」と返事をくれる。
それを聞いてから「あともうちょっとだから待ってて」と一声かけて、部誌に向き直った。
最後の特項の欄には〈幸村部長が幸村部長にイリュージョンした仁王先輩と対戦して、靴紐が切れるほど仁王先輩を走らせていました〉と記入。あとは戸締りのチェック欄にマークを入れておしまいだ。
「書けたよ!」と報告しようと振り返ったら、さっきあげたフォンダンショコラを今まさに食べようとしてる切原と目が合う。

「待って! ストップ! 家に帰ってレンジでチンッしてから食べて!」

 そう慌てて止めるが、私の意図がいまいち伝わってない切原には「はぁ?」と怪訝そうにされる。
でもその顔は、中からどろりと溶け出すチョコレート見たらきっと驚きと喜びの表情に変わるはずだから、お願い今ここで食べちゃわないで。
切原にもその感情を味わってほしくて一生懸命作ったんだから。