「おい」
気づいたら教室にいないからどこに行ったかと思って探せば、案の定は家庭科室にいた。
いつもとは違い、陽がさんさんと入るはずの窓は全てカーテンが閉じられ、真昼間にもかかわらず室内は薄暗い。
そんな中で独り黙々と音を立てながら洗い物をしている背中に、俺は苛立ちを隠さずぶつけた。
「おい! おい!」
「もう、なあに? そんなに大きな声出さなくても聞こえてるよ」
三回目でやっとは返事をした。
しかし手元の作業を続けたままこちらを振り向きすらしない彼女に俺の苛立ちは治らない。
「お前さ、なんか俺に渡すモンねぇの?」
「えーなんの話? お菓子なら散々昨日食べてたじゃん」
「昨日は昨日! 今日は今日! つか、お前は独りで何やってるわけ?」
「見てわかんない? 昨日の後片付けだよ」
昨日、家庭科部は家庭科室を開放して、『お菓子教室』なるもを開いていた。
部員じゃなくても参加OKなそれに学年問わずたくさんの女子が集まる。そしてそれに混じって俺も当然参加していた。
も家庭科部の元部長だから、人手の足りない運営側のスタッフとして参加していた。
溶かして丸めるだけの簡単なトリュフを作る初心者コースと、中をとろりと残して焼くのが難しいフォンダンショコラを作る上級者グループに分かれて行なわれたそれは、時期も時期なだけに大盛況のうちに幕を閉じた。
「昨日はバタバタしてて片付けまで手が回らなかったんだよね」
「普通、それお前の仕事じゃなくね? そんなんだから後輩が育たねぇんだよ」
わざと彼女の地雷を踏んでも「そうだよねぇ」となんの手応えもない返事しか返ってこない。
だんだん自分がなんでこんなことしてるんだか、馬鹿馬鹿しくなってくる。
「お前さ、もっかい聞くけど、本当に俺に渡すモンねぇの?」
洗い物をしている彼女のすぐそばまで寄り、さっきからジャージャーとうるさくてしかたがなかった水道の蛇口を勝手に止めた。
それでやっと観念したのか、彼女はひとつため息をもらし、近くに用意していたタオルで手を拭いて俺に向き直った。
「じゃあ、ハイ」
そう言って制服のポケットから取り出したのは、まさかのガム。
今度こそブチギレそうになったが、貰えるもんは全て貰っておく主義の俺はとりあえずそのガムを貰ってからキレてやろうと思い、手を伸ばす。
が、しかし一枚引き抜こうとすれば、バチンッ! と大きな音が鳴り、それと同時に俺の親指に強烈な痛みが走った。
「テッ! なんだよソレ!」
たまらず引っ込めた親指を見ると爪が真っ赤に変色していた。
「仁王が「丸井なら絶対引っかかるぜよ」って貸してくれたんだけど……まさか本当に引っかかるなんて思わなかった」
「お前、もう仁王に近づくな!」
はひとしきり俺の反応で笑ったあと、「じゃあコレ、仁王に返しておいてね」と俺にパッチンガムを寄越し、また水道の蛇口をひねって洗い物を再開した。
ジャージャーと必要以上に大量に流されてるように見える水とを交互に睨んでから、俺はもう我慢ならなくなって家庭科室から去ろうと背を向ける。
「本当はさ、」
家庭科室の扉に手をかけると、水の音にかき消されそうなほどか細い声が聞こえてきて、動きを止める。
「あ゛?」
「……本当は、ちゃんとしたの作るつもりだったんだよ」
あいかわらず水は流れ続けているが、の手はもう完全に止まっていた。
「でも、昨日家に帰ったら妹が先にオーブン使ってて……、終わるの待ってたんだけど、妹、何を間違えたんだかオーブン真っ黒焦げにして壊しちゃったの。だからトリュフくらいしか作れなくて……」
はぐっと何か自分の中に押し込めるように顎を引いて身を固くしていた。
スン、と鼻を鳴らす音が聞こえたような気がして、ドキリとする。
「……丸井はさ、いっぱい貰ってるじゃん。すっごい手の込んだやつとか、高そうなやつとかさ。それ見たら、なんて言うか……こんなのあげられないなって」
水の音だけが静かな家庭科室にジャージャーと響き続ける。
その所為で、彼女の震える声はところどころ聞き取れなかった。
しかしそれでも十分なほどの気持ちは俺にちゃんと届いた。届いた上で、再度腹が立つ。
——何勝手に自己完結してんだよ、バカ!
「以上!」
は極めて明るく声で言い放ち、「もうこれで話はおしまい!」とばかりに両手をパチンッと打った。
それからやっと水道の蛇口を閉め、「ほら、もう家庭科室閉めるよ。出て出て」と、痛々しい精一杯の作り笑顔でこちらに来て俺を追い出そうと背中を押した。
「おい」
「もう、何? 何度も入ってるけど本当にもう何にも、」
「俺はお前が作ったやつが食いたいから、わざわざここまで来たんだよ!」
無理矢理俺の身体を押すその手を掴んで、大声を出した。
驚いたように目を見開くと今日はじめてちゃんと目が合う。
さっきまで水仕事をしていた彼女の手はとても冷たく、ほんの少し荒れていた。
小さな手にさらにぎゅっと力を込めて繋げば、彼女は俺の目線から逃げるように俯いた。
「い、意味わかんない」
「はぁ?」
こいつの気持ちはとうの昔に気づいていた。
だから今日、こいつからは絶対に貰えると踏んで腹を空かせて待っていたんだ。
こいつの作るものはさすが家庭科部部長、何度食べてももっと食べたくなるようなそんなものばかりだった。
だからそれはもう楽しみに今日一日、今か今かと期待して待っていたんだ。
なのに、俺の予想は外れ、放課後になってもは俺に何も渡さないどころか、何を思ったか俺を不自然に避けまくるという奇行に出た。
毎年頼まなくてもバレンタインデーは両手いっぱい抱えきれないほどのチョコレートが集まる。
今年だって、幸村君には負けるけど、すでに紙袋三つがいっぱいになるくらいには貰えていた。
なのに俺はを探していた。
自分からチョコレートを貰いに行くなんて、そんなこと未だかつてしたことない。
けれど誰にどんなチョコレートを貰っても今日の俺は満たされなかった。
たった一つ。それが手に入るまで、俺はきっと満足できない。
認めたくないが、それが曲げようのない事実だった。
「意味わかんないって言ってるの! は、放して!」
「なんでだよ! わかんだろぃ、普通!」
駄々をこねるように頭をぶんぶん横に振って「わかんない、わかんない、わかんないー!」と暴れるを力任せに抱きよせた。
「これでわかったろぃ?」
「……わ、わかんない」
「おっ前なぁー」
こっちがここまで折れてやってるんだから、いい加減にしろよ、と彼女を間近で見下ろすと、「ちゃんと言ってよ」と潤んだ瞳で逆に睨まれた。
「……好きだよ、バカ!」
「最後、余計なの取って!」
「あ゛ーもう! めんどくせぇな! 好きだよ! これで文句ねぇだろぃ!」
なんだこれ?
お前が俺のこと好きだったんじゃねぇの? なんで俺が告ってんだよ。
いろいろと腑に落ちない点は多いが、さっきまでの涙を必死に我慢して苦しそうに歪んだ笑顔が嬉しそうににやけた泣きっ面に変わり、それを手で覆って隠そうとしているは素直に可愛いな、と思えて全部水に流してやることにした。
「お前さ、本当は何作るつもりだったわけ?」
「……ザッハトルテ」
「ふーん。つかさ、作るつもりだったんなら材料まだ家にあるんだよな?」
「うん? まぁ、あるけど……」
「なら、それ持って今から俺んち来いよ! んで、俺んちのオーブンで焼けばいいじゃん!」
俺の有無を言わせずの手を取って家庭科室から出た。
下駄箱で何故か立ち尽くしているユニフォーム姿の仁王を見つけ、すれ違いざまにさっきのパッチンガムを投げ返し、校舎を出た。
外は陽が落ち始め、北風が吹いて恐ろしく寒い。
けれど繋いだ手とマフラーで隠した頬だけが異様に暑かった。
俺、いつからこんな純情キャラになったんだ?
そう思いながらも、それも悪くないんじゃないかと鼻歌交じりに大股で歩く俺は、なかなかバレンタインデーに浮かれた男子の一人に違いない。