一段と騒がしい廊下をすり抜け、二組の教室に向かう。
ぴょこりと後ろの扉から顔を出せば、丁度何人かの女の子が白石と謙也を囲んでいるところだった。
彼らの手には今しがた渡されたのであろうものが握られている。
「謙也」
一呼吸置いてから、いつまでも自分の存在に気づかない、彼氏の名前を呼んだ。
振り向いてほしかったのは謙也だけだったのに、つられたように白石もその周りの女の子たちもみんな私の方を向く。
「帰ろ」
白石も女の子たちもできるだけ見ないようにして謙也だけに声をかける。
謙也は白石たちに「ほなな」と挨拶をしてから、私の元にすぐやってきてくれた。
肩には三年間使い古したスクールバック、手には——真新しい光沢のある紙袋。
「? どないしたん?」
私が俯いてじっと立ち止まってるもんだから、謙也が不思議そうに私の顔を覗き込む。
そんな彼の仕草に軽く苛立つも、そこはぐっと押し込め、可愛い笑顔で「なんでもない」と返事をした。
横目でちらちらとさっきの女の子たちに見られてる気がして、私は「早よ、帰ろ」と謙也にだけに聞こえるようにこぼし、彼の学ランの裾を掴んで足早に昇降口へ向かった。
今日は彼の家で勉強を見てもらう約束だった。
謙也は、一足先に推薦入試で私立の高校に合格を決めていて、最近はもっぱら私専属の家庭教師となっていた。
謙也の家に着き、おばさんに挨拶してから、二階に上がる。
——あと少し。
先を歩く謙也の大きな背中を射程内におさめ、自分に言い聞かせる。
——もう少し。
謙也が自室の扉を開けた。
そして何か思い出したように後ろの私に振り向いた瞬間、私は精一杯背伸びをして彼の頬を手で押さえつけ、思いっきり唇をぶつけた。
「っな!」
驚いて慌てる謙也なんか無視して、自分が知ってるかぎり一番のキスをする。
動揺しまくってる彼を後ろのベッドに突き飛ばし、倒れた彼の上にそのまままたがり、キスを再開。
彼を内側から舐めつくして、どろどろに溶かして、型に流して、私だけのものにしたい。その欲求が派手に弾ける。
それにしても、二人っきりになるまでちゃんと“待て”ができた自分を褒めてあげたい。
「ちょ、ま、ストップ! ストップ! どないしてん!」
されるがままになっていた謙也がどうにか私を腹にのせたまま、上半身を起こす。
ベッドの上なのに、謙也は学ランを羽織ったままだし、私にいたってはコートもマフラーも身につけたままだった。
私を心配そうに伺おうとする謙也の視線から逃れるように、彼の懐に滑り込んで額を押し付けた。
学ランの下に来ていた分厚いトレーナー地のパーカーにぽつっぽつっと水玉模様が浮かび上がったのが見える。
「……謙也は私のやもん」
震える声に気づかれたくなくて、早口でそう言った。
ぎゅうっと謙也の腰にしがみつき、下唇を噛み締めている私はきっとすごくブサイクな顔をしているに違いない。
今日は二月十四日。バレンタインデー。
女の子が、好きな男の子に愛を込めてチョコレートを贈る日。
謙也は今日一日で紙袋一袋分の愛を受け取っていた。
こうなることくらい事前に予想はついていた。
だから彼女たちの先まわりをして「絶対に貰わないで」と彼に釘を刺すことも出来たんだ。私は彼女なんだから。
けれどそれをしなかったのは、そんなことをしなくても私以外のものは断ってほしい、という身勝手な願望があったからだ。
私に言われたからなんかじゃなくて、自分の意思で断ってほしかった。
ただよく考えれば、優男な謙也が女の子を邪険に扱う場面なんてまったく想像できない。
当然、謙也は断ることなんかできず、「いいから、いいから」と押し付けられるように渡されるチョコレートを休み時間ごとに増やしていっていた。
「え、なん? ほんまどないしてん?」
私の様子が本格的におかしいことに今更気づいた謙也はおろおろしはじめた。
謙也は人の気持ちに聡い、なんて誰が言ったんだ。彼の仲間内ではそうかもしれないが、彼氏として、男として、及第点はあげられない。
謙也は、女の子の気持ちにいつだって自分からはなかなか気づいてくれない。
そんなところすら可愛いと思えていた時期はもうとうに過ぎていた。
ベッドに下に落ちていた自分のスクールバックを拾い、中から綺麗にラッピングした小さな箱を取り出す。
それを無言で謙也の口にまるごと押し込めた。
「むがっ、も、な、ってん、ちょ、やめやっ!」
「食べて! 今すぐ開けて、全部食べて!」
「た、食べるから、ちょ、待てや! ちょ、なんぼ俺でも箱ごとは無理や! ちょ!」
謙也は「今日のお前、ほんま意味わからん」とぶつくさと文句をたれながら、受け取った箱のりぼんをほどいていく。
せっかちなわりに、包装紙を破いたりはせず、セロテープを爪で剥がしながら丁寧に開ける様子に、さすがのお育ちの良さやなぁ、と口には出さず揶揄した。
箱を開ければ、ココアパウダーでお化粧された歪なチョコレート菓子が六つほど顔を出す。
昨日苦労して作ったトリュフだ。溶かして、冷やして、丸めてるだけなのに半日も家の台所を占領してお母さんに怒られたのを思い出す。
今年は受験生だから友チョコは用意してない。
謙也だけ。彼だけの為に一生懸命作ったチョコレート。
私はそれを彼より先に一つ摘み上げ、自分の口に放り込んだ。
そして「あ?」と短く訝しげな声を上げた彼の唇を素早く再び自分のそれで塞ぐ。
チョコレートが溶けきる前に、自分の舌を使って口から口へとそれを受け渡す。
「……ハッピーバレンタイン」
「全然、ハッピーって顔ちゃうやん。なぁ、俺、ほんまになんかした?」
「……別に。ただ、謙也はやっぱり謙也やなぁって思っただけ」
「なんやねんそれ」
「……財前クンは、」
「あ?」
「全部断っとったよ。「彼女以外のはいらん」って」
今日、たまたま見かけた後輩の意外な言動を思い出す。
普段彼女にすらまったく愛想のない後輩を見て、よくこんなんで耐えられるよなぁ、と彼の彼女に同情していたものだが、どうやら財前クンは謙也とは正反対のタイプだったらしい。
ここぞというときに乙女心を鷲掴みにする後輩のそのテクニックに思わず見惚れて拍手までしてしまった。
“羨ましい”。
気がつくと思わずいつもとは真逆の眼差しを幸せそうに微笑む彼の彼女に向けていた。
「私も、謙也には受け取ってほしなかった」
本当はこんなこと言いたくなかった。謙也の前ではずっと可愛い私でいたい。
みっともなく嫉妬してる姿なんか見せて引かれたらおしまいだ。
しかし、この思いをひた隠しにしたところで、それは一生消えることはなく、きっと永遠に私の心の底に黒い塊となって漂い続けてしまう。
本当は、それを自ら察した彼の手で掬いとってほしかったんだけど、それが到底望めないことだと改めて今日痛感した。
なら、財前クンみたいな子が良かった? と自問自答する。
答えは“NO”だ。私はやっぱり謙也がいい。
女の子の気持ちにはどこまでも鈍感でそこは救いようがないけれど、自分の心を嘘偽ることなく正直にひとと接することができる彼は、自然と私に安心感を与えてくれる。
相手の言葉の裏を勝手に深読みして、傷ついたりしなくていい。彼の言葉は、そのままの形で信じられる。
それって結構すごいことだと思う。
良いところもあれば、悪いところもある。
でもそれをひっくるめて全部謙也だ。
私だってきっとそう。だから謙也にも私の全部を知って、それで好きでいてほしい。
「チョコ貰ったん怒ってるん? そやかて、これほとんど白石のついでみたいに押し付けられたもんばっかやで?」
わかってない。本当にわかってない。
そうやって断られないように予防線を張って友達面でチョコレートを渡す女の子の気持ち。
謙也は何一つ、わかってない。
でも、さすがにそこまで彼に教えてあげられるほど私はお人好しにはなれそうにない。
まだ少し女の狡さをひっそりと胸の内に隠していることは、どうか見逃して欲しい。
「それでもあかん。謙也は私だけでええやろ?」
わざと不安げな表情をつくって彼を見上げれば、「お、おん」と顔を赤らめて強く頷いてくれた。
◇◆◇
パキンッとハート型のチョコレートをわざわざ真っ二つにしてから自分の口に運ぶ。
そして余った歪な形の方を今や完全に私の背もたれと化した彼に渡した。
とりあえず学ランとコートは脱いで、ベッドをソファー代わりに私は謙也に後ろから抱きかかえられるように座っていた。
「おいしい?」
謙也が「おん」となんの迷いもなく言ったので膝をぺちんっと叩いてやった。
「誘導尋問や」と嘆く彼を無視して紙袋から新しいものを選んで開けはじめる。
謙也が私以外からもらったチョコレートは全部で五つ。とりあえず全部私が開けて謙也より先に齧ってやる。
本来ならば、窓を開けて遠く見えないところまで投げ捨ててしまいところだが、食べ物に罪はない。
「なんやお腹いっぱいになったら眠なってきた」
「お前、勉強はどないすんねん」
「うーん……」
「一緒の高校行くんやろ?」
そうだ。謙也の合格した学校は結構な進学高で、私ではかなり頑張らなければ、合格は難しかった。
親や担任には何度も志望校を考え直すように諭されたが、私は頑としてそれを跳ね除け続けた。
絶対に彼のそばから離れたくない一心に。
「行くぅ……」
「ほな、ちょっと待っとき。眠気覚ましに下でコーヒーでも淹れてくるわ」
謙也はそう言って私を一旦自分の上からのかし、ベッドから立ち上がる。
あやすように優しく頭を撫でられ、くすぐったい気持ちが溢れて、部屋から出て行こうとする彼に後ろから抱きついた。
「変なやきもち焼いてごめんな。来年はもっと大人な私でいられるよう頑張るから、これからもそばにいさせてな?」
「……おん。つか、はそのままでええで。来年は、俺がお前の以外断るようすればええ話や」
「嘘やん。謙也、優しいからそんなん絶対できひんで」
「できるわ」
謙也はくるりと私に向き直り、今日初めて自分から私にキスをした。
「俺、お前のためやったらなんでもできんねん」
太陽みたいな謙也の笑顔を見て、胸の奥がじわりとあたたかくなり、彼を想う私の心がチョコレートのようにどろりと溶けていくのを感じた。