胡散臭い笑みを携え「お前に良い物をやろう」と柳が私の手のひらに何か冷たくて硬い物をちょこんと乗せた。

「何コレ?」
「惚れ薬だそうだ」

 思わず「はぁ?」という大きなリアクションが出た。
私の手の中には怪しげな小瓶が一つ。一見香水のミニボトルのようなそれは、綺麗な切子模様がある透明なガラス瓶で、淡紫色の液体が八分目まで入っていた。

「俺の幼馴染の最新作だ」
「あなたの幼馴染、何? 暇なの? テニスしろよ」
「これを応用して、ダブルスペア同士で飲用した場合強制的に同調シンクロ状態にできないかという研究しているらしいぞ」
「それアウトでしょ」
「試供品として貰ったのがいいが、俺にはあいにく使う必要がとんとなくてな」

 俺はお前とは違って、こんなもの使わなくても意中の異性を手に入れられるからな、と私を馬鹿にする柳の心の声が聞こえた気がして、顔を思いっきりしかめた。被害妄想、じゃないはずだ。
何故こんな嫌味な男がモテるのだろう。顔か? 背か? 将来性か?
何せよ、みんな、目を覚ました方がいいと思う。

「明日はバレンタインだろう」

 柳は、私がひた隠しにしてきた気持ちに間違いなく気づいている。
そしてそれを面白がっている。最悪だ。
意地の悪い笑みで、私を観察する様は、研究者の皮を被った超一級品のサディストの顔である。

「では健闘を祈ろう」
「えっ! ちょっと待って柳! いらない! いらないってば! ねぇ! ねぇ、ちょっと!」


 と、結局家に持って帰ってしまった“惚れ薬”。
一度蓋を開けて匂いを嗅いでみたが、特にこれといった匂いはしなかった。
チョコレートに混ぜるのであれば、味は? 変な味がするんだったら効果が出る前に怪しまれて食べてもらえないのでは?
試しに自分で舐めてみようか? いやいや、そんな怖いことできない。
困った、どうしよう。そもそもコレってどれ位使えば効果がでるんだ? 一滴、二滴? それともこの小瓶全部?

「うわぁぁぁぁ」

 頭がこんがらがってきたぞ。
そもそもこんな卑怯な手を使ってしまって本当にいいのだろうか?
もし万が一、この薬で彼の心が手に入ったとして、私はそれで満足できるんだろうか?
逆に永遠に彼の本当の心は手に入らなくなり、今よりさらに苦しむ未来が待ってるんじゃないのか?

「うわぁぁぁぁ」
「さっきからうるさいわよ。もう、あとどんだけかかるの? お母さん、そろそろ明日のお弁当の用意したいんですけど?」

 気がつけば、どうしたものかとかれこれ二時間も自宅のキッチンにこもっていた。
丁度良く、オーブンがチンッと鳴り、焦げる一歩手前のブラウニーを取り出して、慌てて冷ます。
 急いで後片付けをしているうちに幾分か冷静になってきた。
——そもそもコレは本当に“惚れ薬”なのか。
よくよく考えてみれば、おかしな話だ。どう考えても嘘に決まっている。
柳が言うと妙な信憑性があるからついついのってしまったが、普通に考えて嘘、というか偽物だろう。
急に悩んでいたことが馬鹿馬鹿しくなってきた。
もう早く普通にラッピングして、明日の支度をしよう。そうしよう。
 まだ“もしや?”と思う気持ちを完全に捨てられていない自分がいることをかき消すように、私は頭を横に振って作業に集中した。


◇◆◇


 放課後。私はテニス部の部室にいた。
中学三年生といえど、内部進学が多いうちの学校は、受験戦争とは程遠い平和な日々が続いていた。
部活はすでに引退していたが、三年生は自由参加でき、幸村などはほぼ毎日顔を出しては後輩をいびり倒していた。
私も後輩マネージャーが心配で、なんだかんだ理由をつけては月に何度か様子を見にきている状態だった。

 まだ部活が始まる前の静かな部室で、ひとり盛大なため息をつく。
手には昨日作ったブラウニー。最後のひとつだ。
これだけは見分けがつくようにラッピングを他の友達に配ったものとは別にしてあった。
 ブルーのりぼんを指で弄びながら、ひょろりとした猫背を思い出す。
朝、ラケットバックを抱えている彼を見たからきっと今日は彼も部活に顔を出すつもりなんだと推察してここで待ってみてはいるが、果たして本当に彼がここに来るかは半信半疑だった。
 さて、どうしたものか……。

「おう、なんじゃ、今日は随分と早いのう」

 絶妙なタイミングで部室のドアが開き、独特なイントネーションの掠れた声が聞こえてドキリとする。
振り向けばそこには予想通り仁王が立っていて、わかっていたのにその姿を見てまた心臓が大きく跳ねた。

「……まぁね。てか、仁王も早いね!」
「まぁのう」
「珍しくて、雪降ったりして」
「勘弁してくれ。寒いのは嫌じゃ」
「暑いのもダメ、寒いのもダメ、仁王くんはダメダメづくしですなぁ」
「俺は繊細なんじゃ。つか、お前さんは手に何持ってるん?」
「え、あ、コレ? ブラウにーだよ」

 私の手元を凝視する仁王を見て、遠慮がちに「いる?」と差し出せば、仁王は「丁度腹減っとったんぜよ」と嬉しそうにそれを受け取った。
すぐさまその場でガザガザと音を立ててラッピングを解いて、私が作ったブラウニーを口に運ぶ仁王の一連の動きを目で追いかける。
一口、二口、もぐもぐもぐ。一口、二口、もぐもぐもぐ。

「毒でも入ってるんか?」
「えっ!」
「そんなに見られちょったら食べられん」

 私があまりにも真剣に見つめすぎていて不審に思ったんだろう。仁王が冗談を言って笑った。
今日の仁王はよく笑うなぁ、と頭の片隅で思いながら、私も下手くそな笑みを浮かべて誤魔化した。

「ごちそうさまナリ」

 ぺろりと親指を舐める仕草が悔しいくらい似合ってて見惚れてしまう。
気がつけば仁王は袋に入っていたブラウニーを全てぺろりと平らげ、ラッピングに使っていた袋とりぼんを丁寧にたたんでいるところだった。
 出入口の扉の向こうから幸村たちの話声が微かに聞こえてくる。
これでやっと悲しいかな嬉しいかな二人っきりの緊張した時間は何事もなく終わると、小さく息を漏らした。
 しかし、ほっとしたのも束の間、座っている私に覆いかぶさるように間近に立っている仁王に気づいて、思わず短い悲鳴を上げてしまった。
驚いてパイプ椅子から落ちそうになる私を支えるように伸ばされた左腕に抱きかかえられると仁王がいつもつけているメンズフレグランスと制汗剤との混ざった香りが、ふわりと、でも強引に私の意識を引き寄せた。

「え、な、」
「好きじゃ」
「えっ」
「お前さんが好きじゃ」

 信じられない、といった思いで仁王を顔を見る。

——嘘でしょ?

しかし私をまっすぐ見つめる仁王は、真剣そのもので嘘や冗談を言ってるようには見えない。
自分の心臓が口から飛び出すんじゃないかと思うほどドキドキしているのがわかる。
視線を逸らすことなく、どんどん近づいてくる彼の瞳に、私の方が妖術にかけられたかのように動けなくなってしまった。
「待って」という私の声は、彼の唇で塞がれて紡げなかった。
触れるだけの優しいキスのあと、形のいい薄い唇が離れて、また「好きじゃ」と囁かれる。
懇願するような切ない響きに私も苦しくなって涙が出そうになった。
——何か、私も何か、言わなくちゃ。
そう慌てていると仁王がスッと私から離れ、それに一呼吸遅れて扉が開き、幸村と柳が入ってきた。

「あ、今日、仁王も来てたんだ。珍しいね」
「まぁのう」
「丁度良かった、最近赤也の相手も飽きてきたとこだし、今日は仁王が相手してよ」
「……遠慮しとくぜよ」
「えぇーせっかくだから俺にイリュージョンしてよ! それで俺対俺でやろうよ!」
「それは面白い地獄絵図こうけいが見られそうだな」

 ふざけた冗談を言い合ってる三人の後ろをさっと通って、気づかれぬようにそろりと部室を出た。
部室を無事出られて、緊張の糸が一気に緩み、扉を背にズルズルとへたり込む。
 さっきの仁王の瞳が、唇が、香りが、まだ私の心を雁字搦めに拘束していた。
“そんなまさか”という言葉が頭をめぐる。
柳がどうだ、と言わんばかりの得意げな笑みで私を横目で見ていたように感じたのは、たぶん気のせいじゃない。


◇◆◇


「嘘つき」

 コート傍で幸村と仁王の試合を観戦している柳の横に並び、私も視線は前に向けたまま、冷淡な声で柳を責めた。

「何が“惚れ薬”よ」
「なんだ、てっきりあの様子ではうまくいったんだと思ったんだが」
「私、使ってない」

 そう。私はアレを使っていないのである。
なのに仁王は、私が作った“惚れ薬”が入る計算・・だった、しかし実際はただブラウニーを食べて、突然様子がおかしくなった。

「使っていないのなら、アレが偽物という確証もないはずだが?」
「少なくとも仁王がアレの存在を知っているってことだけはわかったけどね」

 仁王は“惚れ薬”を飲んだフリをしたのだ。
どうしてこんなことになったのか、さっきの今で頭がこんがらがったままで整理ができない。
いつもの悪ふざけか。それにしてはタチが悪すぎる。

「仁王の気持ちも察してやれ。今までの友人関係を壊して新たな関係をつくるには、何か大きな切っ掛けやアクシデントがないとなかなか難しいものだ」

 柳は「お前だってその気持ちが痛いほどわかるんじゃないか?」と笑った。
それは珍しく馬鹿にするような笑い方じゃなくて、困った生徒に手を焼いている老教師のような暖かい笑みだった。
途端、また胸が苦しくなって、さっきなんとかやり込めた涙が再び浮かんできそうなになり、慌てて俯いて誤魔化した。



 私は始め仁王のことがあまり得意ではなかった。
仁王は、何考えてるんだか全然読めなくて、どことなく他人を寄せ付けない雰囲気があるのに、不思議な魅力があって人を簡単に虜にしてしまう。
それがなんだが怖いし、自分のセールスポイントを熟知した上で良いように扱ってる様が器用と言えば聞こえは良いが、私には狡賢く思えて信用ならない。だからマネージャーとして当たり障りのない会話意外は極力彼を避けて過ごしていた。
 けれどその認識が徐々に覆されたのは、幸村が入院してからだ。
幸村が入院して、意外にも一番変わったのは仁王だった。
授業等では相変わらずなようで、部員以外はあまりその変化を知らないかもしれないが、部活での仁王はそれまであったサボり癖が一切無くなり、遅刻の多かった朝練もなんなら一番乗りの日さえあったほどだった。
 そして何より変わったのは試合に臨む態度だ。
余裕綽々な態度を一変、全力で相手を潰しにかかる、そんなテニスを彼がするなんて誰が想像できただろうか。
負けたくない、負けてはいけない、どんな手を使っても絶対に勝つ。
それくらいしかできないと自分を責めたてるように過酷な練習を続ける彼は友達思いな優しい普通の男の子だった。

 そんな仁王に気づいたら、自然と私は彼を好きになっていた。
肉刺が潰れたて硬くなった手のひらを何度も手当てしながら、その手を握って「大丈夫だよ」と励ましてあげたくてしょうがなくなる。
しかしそれが今ではないことは私にだってわかった。
彼のぴんっと張った神経をまだ崩していけない。
幸村が帰ってくるまで、全国大会が終わるまで、部活を引退するまで、全てが終わるまで。
そうやってずっと自分の気持ちを伝えることを先延ばしている理由は、彼の為なんかではなく、本当は己可愛さであることに自分でも薄々気づいていた。
 だから柳が言った「友人関係を壊して新たな関係をつくる」ことがどんなに勇気がいることか私にもわかる。
仁王が、もし、もし、本当に私のことを好きで、今更なんと伝えたらいいかわからずこんな手のこんだことを柳まで巻き込んでしたっていうのなら、私は彼を許したい。



「……ねぇ、私はどうしたらいいの? このまま仁王が飲んでないってわかってるのに飲んだ気になって演技してる仁王に騙されたフリをすればいいの? てゆーか、そもそも仁王は本当に私が入れてないって気づいてないのかな?」
「裏の裏か。まぁ、仁王であれば、お前がアレを入れていないとわかった上で演技をして、お前の出方を伺っているという線も確かに捨てきれないな」
「もう、何! 裏の裏の裏の裏は、表? 裏? どっち?」
「表だな」
「冷静に答えるな! ねぇ、本当に私、どうしたらいいの? もう昨日からずっと脳みそ使いすぎて頭パーンッてなりそうなんですけど!」
「それは興味深いな。脳が自然に爆発でも起こすのか? 是非その頭パーンッとやらを生で見たいものだ」

 さっきの優しい柳は何処へ行った?
こっちが真剣に悩んでいるのに、変わらず人をおちょくった姿勢を貫ける神経はもはや賞賛に値する。
持っていたスコアブックで闇討ちしようとしたら、「お前がスコアブックで俺を殴ろうとしている確率89%」と執行する前に腕を掴まれ捻られた。「痛い! 痛い! 放して、痛い! ごめんなさい!」と何故か私が謝る羽目になる。

「お前は結局のところ、自分ばかりが仁王に翻弄されているようで気に食わないっといった心境か?」
「……まぁ」

 そうなのだ。正直、仁王がどんな形であれ告白してくれたことは嬉しい。
けれど、私は昨日柳から“惚れ薬”を渡されて以来、ずっと普段使わない頭をフル回転させてもうヘトヘトだった。
私ばっかりこんな思いをさせられたかと思うとどうしてもそこだけが腑に落ちない。

「なら、こんなのはどうだ?」

 そう言って柳はことさら悪い笑みを浮かべて私に耳打ちをした。


◇◆◇


「仁王」

 幸村との試合を終えて、何故か校舎に向かった仁王の背中を追って私も走った。

「おう、お前さんか」
「どうしたの?」
「靴紐が切れたんぜよ。予備を確かブンちゃんが教室のロッカーに持っとったから、拝借しよう思おてのう」

 靴を履き替えながら「お前さんはどうかしたんか?」と問う仁王の言葉を遮り、私はあの小瓶を仁王の前に突きつけた。

「ねぇ、コレ。なんだか知ってるよね?」

 仁王からサッと表情が消え落ちた。そして何も答えない。
ある意味それが答えだ。
 私は覚悟を決め、瓶を蓋を開けて一気に中身を全て喉に流し込んだ。
倒れこむフリをすれば、仁王が慌てて私の元へ駆け寄る。

「な、何やっちょるんか! 大丈夫か、!」

 シトラスの香り。仁王の香り。それがまた一段と近くで香る。
心の底から心配そうに私を気遣う仁王の頬にそっと手を添えて、さっき仁王が私にしたみたいにじっと見つめ返した。
私の瞳には、今、仁王しか映っていない。

「ねぇ、私、仁王のこと好きになったみたい」

 そう言って、高鳴る鼓動を隠して、静かに唇を合わせる。

「あの“惚れ薬”が本物か偽物か、仁王だって実のところ確証は持っていないはずだ。なら、それを逆手にとって、お前が目の前で飲んでやれ。そうすれば、そのあとお前が本心で気持ちを言ったのか、はたまた薬のせいで言ったのか悩む仁王が見られるんじゃないか?」

 柳の言葉通り、珍しく動揺してる仁王の顔が見れて、私は悪戯が成功した子供のような気持ちになった。