辺りをきょろきょろと見回し、知人がいないことを確認をする。
誰もいないことを確かめてから、セーターのお腹に入れていたソレを取り出そうとした瞬間——

「おう! やん! 三年の下駄箱で何してん?」

 ひゅっと息を飲み、慌ててソレを再びお腹にしまう。
自然と前かがみになりながら振り返った私に、声の主・忍足先輩は不思議顔だ。

「あ、の、ちょっと、えっと、お腹が痛くて……」
「え! 大丈夫か? 白石呼ぶか?」
「え! やだ、ダメ! なんで部長呼ぶんですか! 冗談は顔だけにしてください!」
「いや、あいつが保険委員やからやけど……つか、後半部分なんでやねん」
「ああ、そういう……あ、えっと、大丈夫です。もうあと帰るだけなんで、本当、はい、大丈夫です」

 とにかく忍足先輩をなんとかやり過ごそうとするも、「ほんまに大丈夫なんか? なんか拾い食いでもしたんやろ? あ、それとも食い過ぎか?」と解放してもらえない。
てゆーか、忍足先輩の中で私いったいどんなキャラ設定になってるんだ。

「謙也ぁー」

 そうこう忍足先輩と騒いでると、となりの下駄箱の列から三年の女の先輩がこちらに顔を覗かせ、忍足先輩の名前を甘い声で呼んだ。
確か、忍足先輩の彼女だ。

「ほら、彼女サン呼んどりますよ」
「お、おん。とりあえず、お前、今日は暖かくして早よ寝えや」
「はい、合点承知の助です」
「お前、古いな」

 私、おじいちゃん子なんで、と忍足先輩の失礼発言を適当に受け流しながら、背中を押して力づくで下駄箱の前からのかす。
忍足先輩の彼女に軽く会釈をして、仲良さそうにくっついて帰る二人に手を振って見送った。

 さ、これで忍足先輩おじゃまむしも消えた。
早くこのミッションを成功させて、私もずらかろう。また誰かに見つかっては面倒だ。
セーターからソレを素早く取り出して、目当ての下駄箱の中に突っ込む。とりあえず、突っ込む。
ガコッ、バコッ、ガンッ、ガンッ。
しかし何度角度を変えてトライしても、ソレはどうしても下駄箱から顔を出して、蓋が閉まらない。
それでもどうにかしようと格闘していると、背後から今一番聞きたくなかった声で自分の名前を呼ばれた。

?」

 ひっ! と驚いてうっかり下駄箱の蓋から手を放してしまい、ソレが落ちて彼の方にコロコロ……と転がっていくのを絶望の眼差しで追う。
包帯の巻かれた綺麗な手がソレが拾い、私の視線もそれにともなってゆっくりと上がった。
 目の前には、ソレ——ラグビーボールをちょっとちっちゃくしたような形のチョコレートの主な原材料、私が落としたカカオの実を抱えて不思議そうな顔をした白石先輩が立っていた。
ジ・エンド! である。

「コレ、落ちたで? つか、ここ俺の下駄箱やん。どないしたん?」

 白石先輩が、こんな不審な行動をする怪しさMAXの後輩にもいつもどおり優しく話しかけてくれて、思わず涙腺が緩む。
混乱する頭の中で、今までの先輩との思い出が走馬灯のように駆け巡った。


◇◆◇


 男子テニス部にマネージャーとして入部した当初、私は本当に阿呆でカスでのろまで使い物にならなかった。(財前談)
備品の発注をすれば〈個〉と〈箱〉を間違え、大量のテニスボールが届いたり、ドリンクを作ればアクエリの粉と洗濯洗剤の粉を間違えて、危うく部員を殺しかけたり、私のミスはデータマンの小春先輩でさえ把握しきれない状態だった。
 私はその日もネットに足をひっかけ、せっかく先輩マネージャーが洗濯してくれた大量のタオルを全部泥の上にぶちまけてしまうという失態を犯していた。
自分のあまりのへっぽこさに部室でひとり落ち込んでいると、白石先輩が「さっきのコケ方、ナイスやったで! 笑かしてもろおたわ」と声をかけてくれた。
後ろでボソッと「笑っとったの部長だけっスわ」とツッコんだ財前は華麗にスルーして、「ナイスズッコケに、一コケシならぬ一絶頂エクスタシーや」と先輩は私の頭を優しく撫でてから、小さな飴玉を一つくれた。
「そやけど、怪我には気いつけや」と微笑む先輩に恋に落ちるなって方が無理な話である。

 私はそんな先輩に丸二年ほど片想いをし続け、何もできぬままとうとう先輩はもうすぐ卒業を迎える。
先輩はテニスの強豪校に早々と推薦合格を決めていた。
進学高でも有名なその高校は、私の頭ではどうあがいても行けそうにない。
だからどうにか繋がりのある今のうちに気持ちを伝えなければ、きっともう私にはチャンスは訪れない。
伝えたい。自分の気持ち、ちゃんと先輩に伝えたい。じゃないとずっと……
だから私は決死の覚悟で今年のバレンタインデーに臨むのである。

 そうとなれば、よし、どんなチョコレートは渡すか考えなきゃ、だ。
先輩は毎年ものすごい量のチョコレートを貰う。
去年は学校からわざわざ台車を借りて、押して帰ってるの見たっけ。
 きっと普通のチョコレートなんかあげても、その他大勢で目立たなくて埋もれて終わっちゃう。
そんな最後悲しすぎる。ちょっとでもいいから先輩に私のこと覚えていてほしい。
何かいいとびきりのチョコレートはないかと財前を捕まえてスマホで検索してもらうことにした。(悲しいかな私はまだガラケーなのだ……)

「コレなんかええんちゃう?」
「え、コレ?」
「絶対誰とも被らんやん、そういう探しとるんやろ?」
「う、うん……そやけど……」
「決定、決定。ほい注ー文っ」
「あぁあ!」
「明後日には届くって。ハイ、これで終い。早よ自分のクラスに帰れ、へっぽこ」

 そう言って終始興味なさげな財前に首根っこを掴まれてポイッと七組から追い出された。


◇◆◇


「ちょ! なんで泣くん? ほんまどないしてん! 腹でも痛いんか?」
「ちが、違いますぅ! し、白石先輩も私のこと食いしん坊キャラやと思ってるんですかぁ、うぅ」
「え? も? ん? いや、なんかってハムスターみたいやから、つい」
「ハ、ハム、スター!」
「ほな、どないしたん? コレが関係あるんか?」

 先輩はそう言って手に持っていたカカオの実を軽く上げて、小首を傾げた。
それを見て再び自分の失態を思い出し、下まぶたに涙が溜まるスピードが加速する。

「ご、ごめんなさい……」

 ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい。先輩を困らせて、ごめんなさい。
感情を言葉にするのが追いつかず、私は泣きながら、壊れたレコードプレイヤーのように同じフレーズだけを際限なく繰り返す。
 こんな風にするつもりなんかなかった。
チョコレートを渡して、笑顔で「好きです」と伝え、「ありがとう、気持ちは嬉しいで」ってちゃんとフってもらう予定だったんだ。
それで全部終わりにしよう、そう思ってた。
 けど、今年もたくさんの女の子から綺麗にラッピングされたチョコレートを貰っている先輩を目の前にして、急に冷静になってしまった。
私の手には苦肉の策でりぼんなんぞ巻いてどうにかプレゼント感を醸し出そうとするも完全に失敗してる無骨なカカオの実が一つ。
当初の目的通り目立ってはいるが、どう考えても場違いで悪目立ちだ。
 私は土壇場で怖気付いて、カカオの実を持って逃げ出した。私は財前がいつも言う通りへっぽこ以外の何者にもなれなかった。
ただそれでも最後にせめてこのカカオの実だけでも彼の手に渡れば私の想いも少しは昇華されるんじゃないかと思って、彼の下駄箱にそっとコレを忍ばせようとしたが、それも大きな間違いだったことに今更気づく。
 こんなの貰っても先輩は困るだけだ。

、顔上げ」

 いやいやと首を振って抵抗する私に、先輩がもう一度「上げてや」と小さな子供をあやすように言った。
先輩のその優しい声色に観念しておずおずと顔を上げれば、突如口の中に何か突っ込まれて、慌てふためいた。
訳が分からず目を瞬かせながら、もごもごと口を動かすと、甘い甘い味が舌の上にじわっと広がっていった。

「生チョコや。昨日妹が作ってるん手伝うついでに俺も作ってん」

 白石先輩は、小さなレンガみたいな四角いチョコレートが綺麗にならんだ箱を片手に、自分より少し低い私の目線に合わせるように屈んでくれていた。

「これ、にあげるから泣き止んでや」
「……え、ええんですか? 私なんかが貰おて」
「おん。いつも頑張っとるご褒美や」

 さっきとは少し違う涙が私の瞳から再び溢れ出る。
あぁ、私はなんて幸せ者なんだろう。
この想いがたとえ恋としては叶わなくても、私は十分すぎるほどの優しさを彼に注いでもらった。
もう何も思い残すことはないじゃないか。
「ありがとうごじゃいましゅ」と受け取ったチョコレートの箱を胸元でぎゅうっと握りしめて、私はさっき食べたチョコレートの味を今一度噛み締めた。

「っていうのは建前で、俺がにあげたかっただけやねんけどな」
「へ?」
「最近はこういうのも流行ってるらしいやん。“逆チョコ”っちゅーんやろ?」
「えっ!」
「俺、部活引退して、しみじみ感じてん。以上に笑いのツボが合うヤツおらへんなぁって」
「は、はぁ……」
「きっと俺ら最高のコンビになれる思うねん!」
「お、おお……?」
「んで、今回のコレや! バレンタインにまさかカカオの実まんま貰うなんて思いつきもせんかったわ! さすがや!」
「せ、先輩……?」
「あ、ちなみに確認なんやけど、」

 ——コレ、本命やって思ってええんやろ?

 怒涛の大ドンデン返しに私の可哀想な脳みそではついていけず、目の前をひよこがピヨピヨ飛んでいる。
しかしどうにか先輩の問いに肯定の意思を示するために、精一杯首を縦に振ると、先輩は「ほな俺ら両想いやな」と満足そうに目を細めて私に笑いかけた。