二月の寒空の下、ため息を吐けばそれは白く濁って、すぐ目の前からたち消えた。
校舎裏のここは日差しもなく、先日降った雪がまだ植え込みの下にちらほらと惨めったらしく残っている。
こんなところ、長居は無用だ。
肩を寄せて、早く自分の教室に戻ろうとしたら、頭上から聞き知った声が聞こえてきて反射的にそちらに顔を向けた。
急に明るい方を見た所為で、瞳孔が急激に収縮を起こし瞳の奥が痛い。
「なぁなぁなぁなぁなぁ! 今の聞いたで! めっちゃかっこよかった!」
外の非常階段をカンカンカンカンとけたたましく鳴らしながら駆け降りてきたのはジャージ姿の謙也サンの彼女で、その後ろにはにこにこしているサンもいた。
「財前クンって普段こっちがヒヤヒヤするくらいマグナムスーパードライやから心配しとったけど、ここぞというときは出来る子やんっ!」
街中のドぎついおばちゃんのようにバシンッと背中を叩かれて前につんのめる。
眉間に思いっきりシワを寄せて睨み返すが、彼女はそんな俺の態度なんか気にもとめてないようで、「やのに、謙也ときたら……チッ」と怖い顔で舌打ちをしていた。
「次、体育なんちゃうの? 大丈夫?」
サンが彼女に声をかけると「あ! そうやった!」とさっき降りた非常階段を今度は慌ただしく駆け上っていく。
それをなんとなく目線で追えば、見覚えのあるスポーツタオルが彼女のジャージのポケットからはみだしていることに気づいた。
いつだったが謙也サンがお揃いなんだと自慢してきたどこにでもあるような普通のタオルだ。
確か他にもお揃いのシャーペン、マフラー、ミサンガ、あとなんやったっけ?
こっちが聞いてもいないのに、いちいち報告してくる先輩のだらしなく緩んだ顔を思い出して隠れて舌を出した。
謙也サンの世界の中心には彼女がいて、謙也サンの彼女の世界の中心にも謙也サンがいる。
頭の中万年お花畑カップルだ。
「相変わらず素直で可愛え娘やねぇ」
感心するようにそう言いながら、サンは彼女に手を振って見送る。
「せやけど光」
「なんスか?」
「さっきチョコくれようとした子に「彼女のしか受け取らん」ってかっこよお断っとったけど、ほんまは単にホワイトデーとかめんどくさいだけやんな」
「……なんのことっスか?」
サンは「まぁ、ええけど」と可笑しそうにクスクスと笑って、すぐそばの陽の当たっているコンクリートに腰を下ろして上半身をぐいーっと伸ばしていた。
謙也サンの彼女はチョロいから騙されていたが、サンにはやっぱり見抜かれていた。
彼女の言う通り「彼女のしか受け取らん」発言は建前で、本音は欲しくもないものを渡されて、なおかつ一ヶ月後にそれのお返しを要求されるなんて堪ったもんじゃないと思ったからだ。
「あ、でも、そんなら今年は光、チョコなしやわ。ごめんな」
「まぁ、そおやろとは思っとったんで、別にええっスわ」
「さすが光やね」
「受験生にはクリスマスも正月もバレンタインもないっスもんね」
「ねぇ。まぁ、しょうがないわ」
彼女を置いて俺だけここを去るのはなんとなく躊躇われて、彼女の隣に腰を下ろす。
日陰は恐ろしく寒かったが、陽が当たっているところはぽかぽかと思いの外暖かい。となりに座った俺に彼女はいつも通りの涼しい笑みを浮かべて歓迎を示した。
「……そういえば、あのへっぽこも白石部長にあげるって騒いどりましたわ」
“へっぽこ”というのは俺と同じ二年のマネージャーだ。つまり彼女の後輩。
限度を超えたミスを連発するそいつを俺は“へっぽこ”と呼んでいた。
「へぇ〜、ついに言うんや。うまくいくとええねぇ」
「どう考えてもベソかくのがオチやろ」
相手はあの白石部長だ。
おそらくへっぽこはフラれる。それがへっぽこらしいラストだ。
ただ無謀にも自分の気持ちを素直に伝えようとするその勇気は、尊敬に値する。
へっぽこができることすらできない俺は、その点に関してはへっぽこ以下だ。
心の中でわざわざ自分を罵っていると、サンはおもむろに制服のポケットから小さな包みを取り出して、何かをパクッと口にした。
「いる? さっき友達に貰おてん」
「……いや、ええっスわ」
「これ、オランジェットっていうやて。乾燥したみかんの皮にチョコ塗ってあんねん。フランス人はようこんなん考えたよね。ハイ」
「いや、せやからいりませんって」
なおも勧めてくるのを丁重にお断りする。
今日はチョコレートなんかとても食べる気になれない。
ましてや誰が作ったのかわからないものなんて絶対に口にしたくなかった。
「そう? 皮のわりに結構美味しいのになぁ」と言ってもぐもぐと口を動かす彼女の横顔は、そんな俺の本心をおそらくわかっていながらもわからないフリをしてる楽しそうな笑顔だった。
俺は視線をコンクリートの床に落としす。
サンが、自宅から一時間半もかかる私立の女子校が第一志望だと知ったのは、つい最近だ。
しかも本人の口から聞いたわけではなく、たまたま白石部長と謙也サンが話しているのを俺が盗み聞きしたのだ。
この人の描く未来には自分がいないことを改めて思い知らされたようで、それを聞いて以来ずっと上手く彼女の顔が正面から見られない。
“独り相撲”。そんな言葉が頭をよぎる。
——俺ばっか好きでほんま阿呆みたいやわ。
瞼を閉じれば光の残像のように彼女の微笑みが浮かび上がった。
◇◆◇
中学に入学して、テニス部に入部して、そこで出会ったのがマネージャーで一つ上のサンだった。
彼女と出会うまで、俺の世界は俺だけのもので、これから先誰とどんな風に過ごしたところでそれは未来永劫変わらないものだと思っていた。
ひとはみなひとりっきりで、むしろそれが当たり前なのだ。俺は俺なりにそれを解釈して受け入れていた。
なのに、彼女が俺の手を握り「よろしくね」と微笑んだ瞬間、どうしようもない圧倒的な寂しさに逃げる間もなく襲われて動けなくなった。
俺はそのときはじめて独りを寂しいと思い、そしてこれが恋なんだと悟る。
それ以来、俺はただ彼女の瞳に映りたくて、自分なりに彼女の気を惹こうとするがまったく上手くいかない日々が続く。
その頃の俺は、いや今でもか、誰かに想われるのは慣れていても、誰かを想うことはまだまだ不慣れなガキそのものだった。
手を伸ばしては、かわされ、手を伸ばしては、かわされ。やっと裾を掴んだかと思えば、次の瞬間彼女は美しい蝶になり、ひらりとどこか遠くへ飛んでいってしまう。
そんな夢を気が狂いそうになるくらい何度も繰り返し見る。そして目が覚めたとき、俺はいつも頬を濡らしていた。
入部時は彼女の方が高かった背を二年の春に追い越した。
今なら、無理矢理にでも自分のものにできるんじゃないかと思えて、ひらり、ひらり、と風に舞う大量に干されたタオルの暖簾の隙間をぬい、彼女に手を伸ばしてみた。
思ってた以上にあっけなく触れることのできた彼女の身体に、触った俺の方が緊張して、固まってしまった。
彼女は特段俺に驚いた様子もなく、聖母のような微笑みをこちらに向けて「もう我慢できなくなっちゃったん?」と俺をゆっくりと引き寄せ、そっとキスをした。
おそらく彼女には最初から全部見透かされていたんだろう。
優しい笑顔のその裏に底意地の悪さを感じたものの、俺はこのチャンスを逃すまいとその唇に自ら舌をねじ込んだ。
やっと手に入れた、そう思った。
もうこれで俺の腕は宙を掻くことはなくなり、枯渇していた欲は満たされる。
これでやっと幸せな夢が見られる。
はずだった。
けれど現実は俺にどこまでも厳しい。
言葉や口づけを交わしても、どんなに彼女と同じ時間、場所を共有しても、今まで彼女が俺に心の扉を開いてくれたことはなかった。
彼女の世界にはいつだって彼女しかいなくて、俺の世界も相変わらず俺が独りっきりだった。
二人でいるのに、二人ともひとりぼっち。
それを素直に寂しいと伝えられない俺が悪いのか。寂しいとすら思っていない彼女が悪いのか。
考えれば考えるほどわからなくなり、苦しくて悲しくて、そしてやっぱり寂しくなる。
◇◆◇
「来年は光にだけ、とびきりなの用意するから今年は我慢してな」
彼女の呑気な物言いに、ふつふつと腹の奥で何かが蠢くのを感じる。
“来年”——それは果たして本当に俺らにやってくるんだろうか。
物理的な距離にすがっているようなこの関係の崩れゆく音が、俺ははっきりと聞こえている。
「そんときまで俺ら付き合うてるんスかね」
自分の口が、望んでもない未来を勝手に予言した。
虚勢を張って作った笑みは強張るばかりで、右頬がぴくぴくと痙攣する。
「え? なにそれ?」
「サン、遠くの女子校受けるって聞きましたわ」
「うん。そうやけど、なんでそれが別れ話に繋がるん?」
「俺、男子なんスけど」
「知っとるよ?」
「男子は女子校行けんのわかってます?」
「わかってるよ」
「なら、」
「わかってるけど、私は私でやりたいことがあったから、それにあった志望校を選んだだけやで?」
わかってるいる。理解している。
彼女は夢を自分で叶えようとしているだけだ。彼女はいつだって正しい。
真っ直ぐ自分の足で立ち、どんな道もひとりで突き進む。彼女の脆いところなんて、俺は見たことない。
謙也サンように、お揃いのものをねだられたこともなければ、嫉妬なんかされたこともないし、甘えられたことすらないとに気づき、もういっそのこと笑えてきた。
彼女に謙也サンの彼女のようになってほしいわけじゃない。
ただ彼女の世界に俺も存在したかった。
「光は、私が光だけを見とらんとどっか他所へ行ってまうん?」
違う。そうじゃない。俺だけを見てほしいんじゃない。
中心じゃなくていい、ただとなりを一緒に歩かせてほしい。
それだけなのに。
「なぁ、なんか怒ってるん?」
俺の気持ちなんかこれっぽっちも理解してないフリをする彼女の声色が、俺の敏感に尖った神経を逆なでする。
「なぁ、」と俺の腕に触れてきた手を払って、代わりに彼女を後ろに押し倒した。
彼女の綺麗な髪がコンクリートの上に散らばる。
「なんで俺だけこんな目に合わなあかんねん」
悔しくて、腹立たしくて、彼女に乱暴にキスをした。
口付けで人が殺せたらいいのに、と思う。
あの日、あのとき、彼女に出会わなければ俺だって今もきっと彼女のように寂しさを知らずに過ごせたのに。
自分が涙を流していることに気づいたのは、硬く握りしてた指先が冷えきった頃だった。
舌先にほろ苦いチョコレート味だけを残し、彼女は俺の前から遠のいた。