<The evening of July.7 / by heroine>

 暑い。とにかく、暑い。
換気扇がすごい音を立てて働いてくれているが、もちろんそれで涼しくなるわけがない。
パチパチと跳ねる油から衣をまとったなすを取り出して、用意していたバットに並べていく。
ツーッとこめかみから垂れてきた汗を思わず手の甲で拭ってしまって、慌ててバットと菜箸を置いて水道水で手を洗った。
 こうして汗だくで料理をしていると、夏の合宿がよみがえる。
私が去年の夏まで所属していた男子テニス部は、八月の頭に強化合宿を行うのが通例だった。全国大会に向けての最後の追い込みである。
練習は朝から晩まで隙間なく、そしてそれ以外の煩わしい雑多なこともすべて自分たちで取り仕切らなければならないのがこの合宿の決まりだ。
食事の準備もそのうちで、私はマネージャーだったから、一年生たちと協力して毎食五十余名分の大量のご飯を炊き、大量のおかずを作るのが仕事だった。
天ぷらなんて揚げ物はさすがにできなかったが、少しでも美味しいものを作って部員の疲れが紛れるように、と必死に大鍋を振るい、合宿が終わる頃には利き腕はいつもシップだらけだったっけ。
 今となってはそれもいい思い出の一つだが、まさかそれを卒業した今年もする羽目になるなんて……。

「ねぇ、次のツマミまだ?」

 ぶつくさと文句を言っていたのが聞こえたんだろうか。ひょっこり幸村がキッチンに顔を出した。
それに「ハーイ、タダイマ」と怖いくらい愛想のいい返事をする。

「何か言いたそうな顔だね」
「いえいえそんな! とんでもない!」
「ならいいんだけど。あ、次はホッケ焼いてね」

 ひくひくと頬がつるのをなんとか抑え、揚がった天ぷらをリビングに持っていこうとしたら、ピンポーンッとインターフォンが鳴った。

「お邪魔しマース!」

 玄関で靴を脱いだ赤也がコンビニ袋をガサガサ言わせながら、「てか、ここすごくないっスか?」と遠慮なしに辺りをキョロキョロと見回す。

「赤也、いらっしゃい」

 家主の幸村が笑顔で赤也をリビングに迎え入れた。
「それ酒?」と嬉々として赤也の手元を覗き、それがただの炭酸ジュースとスナック菓子だと知ると、「気が利かないなぁ」と態度は一変、文句を垂れる。
それに対してリビングですでにくつろいでいた柳が「制服で酒が買えるわけがないだろうからむくれてやるな」と静かに諭した。



 幸村が「んっ」と笑顔で空のグラスを私に向けるので、さっと冷えたビールを注いだ。私もだいぶ奴隷が板についてきたもんだ、と乾いた笑いが出る。
赤也がそのとなりで天ぷらを口いっぱいに頬張りなばら、「そうだ」と汚いかばんをガサゴソとあさりだした。
「コレ! みんなで書きましょ!」と赤也が手にしていたのは、縦長に切られた色紙の束。

「へぇ、そういえば今夜は七夕か」
「ここ来る前の商店街でもらってきたんスよ!」
「いいけど、書いたあとはどうするの? 笹なんてないよ?」

 あ、と漏らした赤也がキョロキョロと部屋を見回し、「アレにつるせばいいんじゃないんスか」と、さも名案とばかりに窓際の観葉植物を指差した。幸村が笑顔でその指を握り、赤也が悲鳴を上げる。
「では、俺が帰りにでもまとめてつるしてきてやろう」という柳の提案でようやく幸村は赤也の指を離した。

「んー……急に願い事って言われてもなぁ……」
「なんかないんスか? なんでもいいんスよ?」
「うーん……レポートの締め切りが明々後日までに伸びますように?」
「なんスかそれ! 一年に一回の願い事がそれって……。まぁ、俺はもう願い事決めてあるんスけどね!」

 赤也は「よし! 俺でーきたっ!」といち早く書き終わり、満面の笑みで「じゃーん!」と自分が書いた短冊を見せびらかした。

「『全国四練パ!』か。おまえは本当に期待を裏切らないな」
「ん? なんスか?」
「俺もでーきたっ! 『赤也の頭がよくなりますように By 神の子』」
「そうだな。俺も同じことを書くことにするとしよう」
「え? あれ? なんで? パって漢字書けなかったから??」

 三人のやりとりを苦笑いで見守りつつ、自分の短冊には結局『立海大付属高校男子テニス部が全国大会四連覇できますように』と書いた。それを横から覗いた幸村が「おまえも馬鹿だね」と笑うので、自分も漢字を間違えたのかと確認したが、特にミスは見当たらない。
「どういう意味?」と訝しげに尋ねても、「そのままの意味だよ」としか幸村は答えてくれなかった。

「次は何書っこかなー」

 二枚目の短冊に手を伸ばそうとする赤也を柳がやんわり制す。

「赤也、強欲は身を滅ぼすぞ」
「えーせっかくこんなに短冊もらってきたのに!」
「本来七夕の願いは願掛けの等しく、神の力で叶えてもらうのではなく、自分の力で成就させると誓いをたてることだ。だから、あれもこれもと欲張って書くと自分の首を絞めることに繋がるぞ」

 柳の言葉に赤也は大人しく「ハーイ……」とペンを置く。
幸村が「叶えたい願いがあることをきちんと自覚してるのは良いことだと思うけどね」と赤也をフォローしたので、珍しいなと思った。



「つーか、部長はなんで急に独り暮らしなんか始めたんスか?」

 赤也がふと思い出したように幸村に尋ねる。

「んー、大学に入ってみたらさ、独り暮らししてる奴って案外多くて。結構楽しそうだし、他の奴らにもできるなら俺にもできるかなって」

 思いついたその日に部屋決めちゃった、と言う幸村は確かに楽しそうだ。
だかしかし、事前に誰かに相談していれば、間違いなく止められていたであろう。少なくとも、私と真田は絶対に止めていたはずだ。まぁ、それに効力はさしてないだろうから、結果は同じかもしれないが。

「幸村、どんなに整理しても量が多すぎて押入れに入りきらんぞ」

 珍しく疲労困憊気味の真田が奥の部屋から数時間ぶりに姿を現した。
それを見て「あれ、副部長いたんスか?」と赤也が驚き、「弦一郎、押入れではなく、ウォーク・イン・クローゼットだ」と柳がいちいち訂正を入れ、「えー、じゃあ冬物は実家に送りかえそうかな」と幸村は勝手なことを言った。
 柳のとなりに腰を下ろした真田に冷えたビールを差し出したが、「俺は飲まん」と怖い顔で断られる。

 幸村がここに越してきて約一カ月。
リビング以外の部屋はまだダンボールだらけだし、すでに自炊はおろか洗濯はほぼほぼクリーニングに出す始末。
要するに、どう考えても幸村は独り暮らしには向いていないのだ。
だから、誰でもいいので、どうかできるだけ早く実家に戻るように幸村を説得してください! いちいち呼び出されては家事をさせられる私のために!!

01.
願い事はひとつだけ