洗い物をあらかた済ませて、シンクの水気をきっちり拭き取ってから、エプロンのりぼんを解く。
「俺、明日朝練なんで、そろそろ帰りまーす!」
「あ、私も帰る!」
タイミングを逃すとこのままズルズルこき使われそうなので、慌てて支度をして玄関に向かう赤也に続いた。
見送りに来た幸村に「残り物はラップして冷蔵庫に入れておいたから、二、三日中で食べきってね」と伝える。
「赤也、のことちゃんと駅まで送るんだよ」
「っス!」
幸村の命令に赤也が敬礼で応える。
急な女の子扱いになんだか気恥ずかしくなり「え、そんなのいいのに」と照れると、そこはやっぱり幸村。「暴漢も獲物がこれじゃあかわいそうだろ」と満面の笑みで付け足した。
「……どういう意味かな?」
「そのままの意味だけど」
もしもこれが幸村じゃなかったら、靴底で足を思いっきり踏んづけているところだ。
キーッとなる私を赤也が「エレベーター来ましたよー」と促す。振り返ると、幸村は壁にもたれながらヒラヒラと優雅に手を振っていた。
エレベータを降り、ライトアップされてるエントランスの噴水を見て、つくづくここは大学生が独り暮らしをするマンションではないな、と呆れた。
「あー、スッゲェーお腹いっぱい!」
「それはよろしいことで」
自転車を押しながら私の隣に並ぶ赤也はとても幸せそうだ。
自分ではほとんど食べていないが、「うまい、うまい」と言って平らげてくれた赤也が満足してくれたならそれでいい。
「にしても部長の部屋、仁王先輩の部屋と正反対っスね」
一瞬ビクリとしたが、赤也は気づいていないようだ。
赤也は下を向いて少々丸くなった自分の腹をさすっていた。
「仁王の部屋、引っ越して一カ月経っても家電製品ティファールしかなかったもんね」
「俺、最初行ったときまだ引っ越し終わってないのかと思いましたもん」
仁王は高校を卒業する少し前に家を出ていた。彼が選んだ部屋は、大学近くのごく普通のアパート。
ブン太と赤也と三人でそこに押しかけたのは引っ越してすぐのことだったはずなので、もう四カ月以上も前のことになる。
ワンルームの部屋にはベッド以外の家具はなく、冷蔵庫や洗濯機などの必要最低限と思える家電すらも見当たらない。
本当に何もない部屋は、ワンルームなのに広くてすごく寒々しい印象だった。
「ブン太が、ここじゃろくなつまみも食えねぇ! ってブチギレたじゃん? 次の日、本当に仁王のこと家電量販店まで引っ張ってって、ガスコンロとか電子レンジとかひととおり買わせたらしいよ」
「丸井先輩って相変わらず面倒見いいんだか、ジャイアンなんだか……つーか、それまで飯とかどうしてたんスかね?」
当然とも思える赤也の疑問に「全部外で済ますんでしょ」と簡潔に答えてあげた。
赤也は「えぇー……彼女とかは? 作ってもらえばいいのに」と不思議そうにする。
「自分の部屋に女の子連れ込まない主義なんだって」
「え、でも、それじゃあ、え? アレとかどうすんですかね?」
「ん?」
「いや、イチャイチャ的な?」
「あぁ。だからそれも外で済ますんでしょ」
「えっ!青かっ」
とんでもないことを口走りそうになった赤也に素早く「バカ!」とツッコんで黙らす。
辺りはすっかり住宅を抜けてもうすぐ駅に差し掛かろうとしている大通り。周囲には通行人も多くいるのだ。現に今、サラリーマンが一人振り返ったぞ。
体裁を気にして「ホテルでしょ」と小声で言えば、「あ、そっちか」と赤也は納得した。
「まぁ、わからないでもないけどね」
「何がっスか?」
「自分のテリトリー崩されたくないんでしょ。仁王って昔からそうだよね」
「まぁ確かに。でも、そんなんで彼女とかに文句言われないんスかね」
「言われないよ。みんな仁王のこと好きだから強く言えないんでしょ。同じ女子として、そっちの気持ちもわかるかな」
「好きなのに言えないんスか?」
「好きだから言えないんだよ。みんな仁王の機嫌を損ねて嫌われたくない一心なの」
「ふーん……なんかそれって、ウオッ!」
何か言いかけた赤也の身体が突然前のめりに沈んだ。
「ヨッ! おまえら何してんだよ!」
赤也の背中に飛びついた男が勢いよく顔を上げる。暴漢じゃなくて、ブン太だった。
幸村、真田、仁王、そして私は付属の立海大に通っているが、ブン太はこの近くの製菓学校に通っている。
おそらく学校の帰りなんだろう。なんとなくブン太からは甘い匂いがする気がした。
「部長のとこ行ってたんスよ。んで、今帰り」
「えー、俺も誘えよ。まぁでも今日はずっと学校だったから無理だったんだけどな。つか、飯食いに行こうぜ!」
「アンタ、俺の話聞いてました? 俺ら帰りなんスよ。飯なら家帰って食えばいいんじゃないっスか」
「食うよ。帰っても食うよ。でも俺は今、腹が減ってんの!」
ブン太はそのまま赤也の首根っこを腕でロックして引きずって行く。
「赤也送ってくれてありがとー。私、明日朝一限からだから帰るねー」
遠ざかる二人に向かって一応声をかける。「あ、先輩の薄情者! 俺だって朝練!」と泣き叫ぶ赤也の声が辺りに響き、周囲の目線が少々痛い。
先輩に愛されすぎるのも困ったもんなんだな、と苦笑いしながら赤也に「がんばれ〜」と手を振って駅の改札へ向かった。
ちょうど電車が行ってしまったばかりなのか改札口はわりと混雑していた。
ふと、自分とは反対に進む人混みの中に見知った銀髪が見えたような気がしてハッとするも、すぐに見失ってしまう。
探そうかとほんの少し迷ったが、そのまま改札を通り抜け、ホームへと降りた。
電車を待っているあいだ、ホームの屋根の合間から夜空をうかがうと、薄雲のヴェールをまとったぼやけた月が浮かんでいるのを見つける。
どうやら今夜は曇りらしい。
毎年七月七日は天気が悪いような気がするのは気のせいだろうか。
会えない織姫と彦星を思うと他人事ながら切なくなった。
そういえば、私も仁王とはしばらく会っていない。
「会いたいな」とつぶやいた声は電車がホームへ入ってくる音でかき消された。