<The afternoon of July.8 / by heroine>

 高等部の卒業式は予定通りの時刻で終わった。
 式のあとも別れを惜しむように教室や廊下で集まる同級生のどの輪の中にも目立つはずの銀髪が見当たらず、自分もそっと抜け出し校舎をいったん後にする。そのまま無人のテニスコートの脇を通り抜け、海林館・部室棟までやってきた。
 さすがにこんな日はどこの部活も休みのようで、人気のない部室棟は蟻の足音さえ聞こえそうなほど、しんっと静まり返っている。
自分の心音すら気になって、紅白のりぼんでできた徽章の上から自分の左胸を押さえつけた。
 棟の出入口に近く、シャワールームやその他施設にも行きやすい一番優遇された場所にテニス部の部室はある。
テンキー式のドアのロックを解錠して極力音を立てぬようにドアを静かに開けた。
瞬間、少し冷たさの残る春の風がシトラスの香りを乗せて私の鼻先を軽やかにすり抜け、淡い期待が確かな輪郭を持つ。
 そこには期待通り、仁王雅治がいた。
彼はパイプ椅子に座って長机に突っ伏した状態で悠々と寝入ってるようだった。
写真一緒に撮ってください、ボタンください、ネクタイください、ずっと好きでした、付き合ってください。
そんな女の子たちをかわすのが面倒になってここへ逃げてきたのだろう。
確かにここなら基本関係者以外立ち入り禁止だから安心だ。
 珍しいことに仁王は顔を隠すことなく眠っていた。
スーッ、スーッ、と規則正しい呼吸に合わせて上下する長い睫毛。
こんなにまじまじと仁王の顔を見つめたのは今日が初めてのことかもしれない。
 そっと隣のパイプ椅子に腰掛けてみる。が、まだ起きない。
「おーい、におーくーん」と小声で呼んでみる。が、まだ起きない。
「ねぇ、ホントに寝てるの?」と訊いてみる。が、まだ起きない。
 ならば、と顔を出した欲がじわじわと私を揺さぶる。
 大丈夫。たぶん本当に寝てる。誰も見てない。もうこんなチャンスきっと二度とやってこない。これが最後。これで最後。
 悪魔の囁きに唆された私は、眠っている仁王の渇いた白い頬に自分の唇を微かに当てた。
刹那の出来事。なのに、きっと永遠に忘れることのできない記憶。
卒業式の日に、ずっと、ずっと好きだった相手にキスをした。この思い出だけで、これから一生生きていけるような、そんな気すらして、高揚感が身体中を駆け巡る。
 その間、仁王は変わらずずっと眠り続けていた。
王子様はお姫様のキスでなければ目を覚まさない。
気づいてほしくない、気づいてほしい、相反する気持ちが同時に胸を締め付けた。
そして、気づかなかったという事実が緩やかに私にとどめを刺す。
急に自分がした先ほどの行為がとてつもなく虚しく思えて、一気に気分は萎んでいった。
——バカみたい。なにしてるんだろう、私。
 一刻も早くここから立ち去りたくなって、この部屋の唯一の出入り口へ向かう。
そのとき初めてドアがうっすら開いていることに気づき、嫌な予感に身体が強張った。
恐る恐るその隙間を見上げると、そこには幸村の姿があり、瞬時にその場で凍りつく。
 幸村は「見ーちゃった」と新しい玩具を手にいれた子供のような笑みを私に向けた。
 これが、のちに続く奴隷生活の原因だ。



 幸村の独り暮らしの部屋で延々おつまみを作らされた次の日、学食で母が作ったお弁当をつついているとブン太から連絡が入った。

〈仁王風邪引いてんだって〉
〈結構ヤバそう〉
〈おまえ代表でちょっと様子見てこい〉

 通知音が連続で鳴る。
すぐにブン太に承諾の返信を打ち、仁王へ送るメッセージを考えた。
何文字か打っては消し、打っては消し、そうしてる間に午後の授業の予鈴が鳴ってしまう。
結局、〈ブン太から風邪引いてるって聞いたんだけど大丈夫?〉と当たり障りのないメッセージを送信して、慌てて次の授業へ向かった。

 午後の授業が全て終わった頃になっても仁王からの返信はなかった。
いつも意味不明な短い言葉が多いながらも必ず返信はあるので、何もないというのはいよいよ彼の体調がまずい状況にあるのではないかと心配が大きくなった。
 学校を出て、ドラックストアとスーパーに寄る。
あのスタイリッシュ過ぎる部屋に薬や氷枕、胃に負担をかけずきちんと栄養が取れる食べ物があるとは思えない。
必要そうなものを思いつく限りカゴに入れていった。
心配の大きさと比例するようにそのカゴがどんどん重さを増したが、そのカゴが重くて片手じゃ持ちきれなくなったところでふと我に返り、ほとんどの商品を棚に戻した。
結局レジに持っていったのは、風邪薬と冷却シートとスポーツドリンクのペットボトル二本。計千四百円弱。
消耗品だし、これくらいの物量ならもらう相手もさして負担に思わないだろう、と親切の押し売りにならないように細心の注意を払う。
友人としての距離を見誤ってはいけない。
私は友人だからこそ、変わりなく仁王の側にいられるのだから。ちゃんとわかってる。
 念のため〈学校終わったから差し入れ持ってくね。いなかったら、玄関のドアにかけておきます〉と仁王に一度連絡をいれてから、マンションへ向かった。

 マンションに着き、エレベーターを早る気持ちで待っていると、きれいな女の人が私のとなりに並んだ。
私が先に乗り、「何階ですか?」と尋ねると「三階をお願いします」と微笑まれる。笑うと美しさが際立ち、同性の自分ですら緊張した。
彼女の行き先は三階。ほんの少しだけ胸が嫌な感じに騒いだ。
 彼女がエレベーターを降りてから、遅れて私も同じ三階で降りる。
わざと携帯を確認する振りをして、彼女の背中をちらりと見送った。
嫌な予感が当たりませんように、とただひたすらに願いながら。
 彼女のヒール音が三〇二号室の前で止まった。
インターフォンの音が響き、間も無く玄関のドアが開く。
それを見た私は踵を返して、再びエレベーターに乗り込んだ。

 走って走って、ひたすら走っていたら、足がもつれて固いアスファルトに膝と手をついた。ばしゃんっと水が跳ねる。
それでやっと雨に降られていることに気が付いた。仁王の部屋に着く前は確かに晴れていたはずなのに。夏の夕立だろうか、激しい雨が容赦なく身体を突き刺し、絶望に追い打ちをかけた。

「この部屋に入れる女はおまえさんだけじゃ。トクベツ」

 何気なく仁王が言ったその甘い言葉がなんとも残酷なタイミングでフラッシュバックした。
耳を塞いでそれを拒絶するも、直接脳に響いてる声は掻き消せない。
 今までに何度も仁王が自分ではない女の子と一緒にいるところを見てきたが、その誰もが仁王の分厚いバリケードを破れず、または破こうとせず、季節をまたがないほどの早さで離れていったのを知っている。
仁王はどの女の子とも長続きしなかった。
だから、春の仁王も、夏の仁王も、秋の仁王も、冬の仁王も、全部全部私だけが知っている、と勘違いな優越感に浸っていられたのだ。
 たとえ友人としてでも、自分が一番彼の領域に踏み入ることを許されている。私は彼にとってトクベツ。
思い上がりもいいところだ。わかっていた。わかっていたのに、悲痛な叫びが心をビリビリに引き裂いた。
 前髪から滴る冷たい雫が頬を伝い、途切れることなく悲しみの跡を作った。
ここが道端であることも忘れて、そのまま顔を覆って泣き崩れる。

「おまえ、馬鹿なの」

 突如雨が止んだ。否、何かが私に降り注ぐ雨粒をそっと遮った。
驚いて声がした方を見上げれば、そこには傘をさした幸村が感情が読めぬ表情で立っていた。
幸村はわざとらしく溜息をついてから、私を立ち上がらせ、自分の傘にもう一度迎え入れた。
 なぜ幸村がこんなところにいるのだろう。幸村の家は駅を挟んだ反対側だ。学校の帰りだろうか。だとしてもこんな裏道を通るのはおかしい。
いろんな疑問がすでに混乱していた脳内をさらに乱暴に掻き乱した。

「……欲しいものは自分から奪いに行く俺がさ、おまえのことはずっと待ってたんだよ」

 幸村の親指が私の濡れている頬を撫でる。
 言葉の意味がわからず戸惑う私を幸村は苦しそうに歪んだ微笑みで見つめていた。
その視線に胸の奥をぎゅっと掴まれ、言葉が出ない。

「もう俺にしなよ」

 抱きしめられて耳元で囁かれる。
遠くで大きな雷鳴が響き、その轟音が私の中のなにもかもを打ち砕いた。

03.
降り出した雨