○ジュエリーショップにて
有象無象の視線など気にしないとして意気込んで午後の仕事に挑んだだが、一日が終わる頃にはどっと疲れがでていた。
やっと解放される。しかし、また明日も状況はさして変わらないだろう。自分が慣れるしかあるまい。それにしても手塚は何故自分に連絡をくれないのだろうか。帰国しているならなおさらだ。もしかして菊丸とのことでなにかしら思うことがってに連絡を取らないのだとしたら、そっちのことの方が問題だ。
肩を落として会社のエントランスをとぼとぼ歩いていると、通り過ぎようとした受付で「経理部のを呼び出してもられるだろうか」と言う声が耳に飛び込んできた。
まさかと思い、振り返るとまさかのまさか。そこには手塚がいた。
驚いて悲鳴をあげそうになるが、なんとか堪えて手塚のもとへ急ぐ。
「えっ、なんで?」
「突然押しかけて驚かせてすまない。アクシデントで連絡手段を失ってしまい今まで連絡ができなかった。すれ違いにならず会えてよかった」
落ち込んでいたところに手塚が現れて今すぐにでも抱きつきたいほど嬉しいのに、さすがにここではできない。
なにより手塚は気にしていない様子だが、先ほどから周りの視線を痛いほど感じていた。
ここ数日ニュースで手塚の顔が映らない日はない。
現に目の前の受付嬢は手塚を見る目がハートだし、そのとなりにいる別の受付嬢は手塚とが一体どういう関係なのか探るような目をしている。
周りの目を気にしすぎないと決めた矢先だが、このまま手塚をここに留まらせるわけにはいかない。
「もう仕事は終わったのか」と尋ねる手塚に、「うん。だからとりあえず出よ」と告げ、は足早に会社を離れた。
「仕事終わりに悪いが、もしよかったらこれから付き合ってもらいたい場所があるんだが」
ふぅ、ここまでくれば一安心、などと追ってを巻く子悪党のようなことをひとり考えていると、手塚が「いいだろうか」とに答えを求める。
「え?」
「……明日にした方がいいか?」
「違う、違う! 全然大丈夫! えっと、どこに?」
すぐに着く、と言われ、場所は教えてもらえなかった。
そして、本当にすぐ着いたその先はが今まで足を踏み入れたことのない世界にも名高いジュエリーショップ。
え、え、と呆気にとられているうちに店の奥に通される。おそらくこれがVIPという扱いなのだろう。
どっしりとしたソファに座らせられ、「サイズはおわかりですか?」と店員に優しく話しかけられる。
「もし、お分かりになられないのでしたらこちらでお計りください」と輪っかがたくさんついたものを渡された。
えっと……とまだまごついているの左手を手塚が取り、いくつかの輪っかを薬指にはめられる。
「キツくはないか?」
うん、とが答えると、店員はにこりと笑って一度奥に戻っていった。
手塚とふたり残され、これは……とが手塚に問いただそうとしたときにまた店員が戻ってきてしまい失敗に終わる。
「婚約指輪でしたらこちらがお勧めでございます」と差し出されたそれに、は「婚約っ?!」とこの店には相応しくない大声を上げて驚いてしまった。
その様子に終始にこやかだった店員も虚をつかれたように同じく驚いた。
「さっきこの店に入って自分で選ぼうとしたんだが、生憎おまえの指輪のサイズを知らないことを忘れていた」
「いや、そうじゃなくて……」
私たち結婚するの? とがおずおずと尋ねるとそこではじめて手塚も自分に失態に気がついたらしい。
コホンッと小さく咳払いをし、仕切り直しとばかりにの手を取り、しっかりと向かい合った。
「今まで待たせてすまなかった。そして待っていてくれてありがとう。こんな俺でよければ結婚してほしい」
これまでの日々の記憶に今日の出来事が覆いかぶさる。
手塚とともに歩むということは、これからも少なからずこういうこともあるのだろう。
そんなとき、またこうやって向き合って見つめ合えれば互いのことを信じ抜いていけるだろうか。
臆病風に吹かれてこの手を離してしまわないように、ぎゅっと力をこめては手塚の手を握りかえす。
「こちらこそよろしくお願いします」
ふっ、と微笑んだその優しい表情は十年前と何も変わっていなかった。