○会社にて
週明け、は出社早々上司に会議室に呼びだされた。
そんなこと入社以来初めてで驚きはしたが、なにかしでかした覚えがないには首を傾げるくらいの能天気さが残っていた。
「さっき先方から苦情が入ってね」
とテーブルの上に乱雑に出されたのはよくある猥雑な週刊誌だ。うちの会社の出版物ではない。
ピンときてないの様子に痺れを切らした上司が雑誌をめくって、「これさんで間違いない?」と白黒の荒い写真をに突き出す。
まさか一緒にホテルを出たときに写真を撮られたのであろうかと顔を青くして紙面を見るとそこにはの思っていたものとはまったく違うものが写っていた。
【若手俳優菊丸英二(25)深夜の居酒屋デート】
はその見出しと写真を見てぐらりと目眩を覚えた。
「プライベートなことを訊いて申し訳ないけど、この記事に書かれていることは本当?」と問われ、「違いますっ!」と悲鳴に近い声が出る。
「これは君じゃない?」
「えっと……それは私なんですが、交際はしていません。先週の撮影のあと一緒に食事をしただけです。それに他にも友人がいて二人っきりじゃないし、ましてやデートなんかじゃありません!」
の必死の釈明に上司は渋い顔をした。
「まぁ、これが世間に出回ってしまった以上真偽のほどはさして重要じゃないんだよ。向こうの事務所がお怒りでね。なんとか説得してキャンペーンは下りないでもらえたけど……」
社会人である以上もう少し自分の立場を考えて行動してくださいね、という上司の去り際の言葉がに重くのしかかる。
どこでどう漏れたのか週刊誌のことはもう社内に広まってしまっているようだった。好奇心を隠せない目があちこちで光っているのが嫌でもわかる。
ときには真偽を直接に確かめにくる強者もいた。その度はきちんと否定したが、信じてもらえているかどうかは怪しい。
そして、一番誤解を解いておきたい相手とは昨日から連絡が途絶えていた。
きっと忙しいのであろう。不幸中の幸いは日本で売られている一週刊誌の記事など、まだ海外にいる手塚の耳には届いていないであろうことだった。
昼休み昼食を一人で取っていると、着信が入る。
ディスプレイに表示された名前を見てぎょっとして、はそそくさと人気のない場所まで移動した。
〈もしもし、菊丸?〉
〈もしもし、ごめん、今電話平気? てゆーかいろいろほんとごめん〉
〈ううん、大丈夫。そっちこそ大丈夫?〉
〈うん、こっちは平気。うちの事務所こういうネタ厳しくってさ……。うちの社長そっちにも文句入れたっていうから心配になって〉
菊丸の落ち込みようは声を聞けばわかった。は「大丈夫だよ」と繰り返す。
〈俺、全然わかってなかった。悪いことしてないのにコソコソする方がおかしいじゃんってそれくらいにしか思ってなかった〉
〈菊丸は間違ってないと思うよ。それに菊丸のそういう態度に私実は励まされてたんだ。胸張って堂々と手塚と付き合っていいんだよって言ってもらえてるみたいで嬉しかった〉
どんなひとにだって誰かを愛したり、誰かに愛されたりする自由はある。
意地の悪い横槍で、大切なものを失うなんて馬鹿馬鹿しい。見つめ返したいのはいつだって知らない誰かの目ではなく、自分を想ってくれる真摯な瞳だ。
手塚のことを想うあまり、見失いそうになっていた大切なことを教えてもらった。
ありがとう、とは心から礼を言う。
〈……手塚と別れようとか思ってない?〉
〈思ってないよ。大丈夫〉
〈俺が今こんなこと言う資格ないかもだけどさ、二人には本当に幸せになってほしいんだ〉
ありがとう、結婚式には呼ぶね、とわざと軽口を叩いて電話切った。
責任を感じて落ち込んでしまっている菊丸を少しでも元気付けられたらと思う。
ふぅっと息を吐いたタイミングで、ふと食堂のテレビが目に入った。
【テニス手塚国光凱旋】というテロップを見ては目を疑う。
今しがた航空機から降りてきたであろう手塚をファンや報道陣が取り囲む様子が流れていた。
日本国中が勝利の余韻に浸り、ヒーローの帰りを心から喜んでいるのが画面越しにもわかる。
それだけならよかった。昼のワイドショーはそれだけでは飽き足らないのか、足早に歩く手塚を追いながらリポーターが必死に手塚に質問する様子が続いた。
はじめは今回のウィンブルドンについて当たり障りない質問が続いたが、あろうことか菊丸の熱愛報道についまで質問が飛び火する。
手塚と菊丸の出身校が同じだということはマスコミにとってはいいネタらしい。
それまで手短にもきちんと質問に答えていた手塚の眉間にシワがよる。
「大切な友人のプライベートなことには答えるつもりはありません」
スタジオにいるアナウンサーが「実に手塚選手らしい答えですね」と笑ったが、は強張った表情のまま固まって動けなかった。
のスマートフォンは未だ“手塚国光”の名前を表示していない。