○スタジオにて

「最近綺麗になりましたね」

 会社のお昼休み、なにかいいことあったんですか? と後輩に目を輝かせて尋ねられた。
最近つくづく思うのだが、どうも自分は感情が顔に出やすいらしい。は気を引き締めなければと涼しい顔をつくって「別に特になにもないよ」と嘘をつく。

 後輩の芸能リポーター顔負けの熱心な質問をかわしつつそろそろお昼休みも終わるというタイミングで広報部の同期がたちを呼んだ。
撮影の小道具を運ぶ手が足りないらしく手伝ってほしいらしい。
台車に必要なものを乗せ、地下にある自社のスタジオに向かう。

「今日なんの撮影なんですか?」
「毎年恒例のキャンペーン」

 あれ、今年のタレント誰だったっけ? という思ったことをそのまま口にしたの質問に同期が呆れた。

「今売れてる若手。っつってもそういうの興味ないから名前聞いてもわかんねぇんじゃねぇの?」

 軽く馬鹿にされたのはわかったが、ごもっとも、とは恐縮する。
小さな出版社の経理部にいるにとって自社のこととはいえキャンペーンだのタレントだのという華やかな話題はどこか身近ではない。
もとより興味がないとしてしまえばそれまでだが確かに会社に身を置く者としては些かまずいかもしれない。
本が好きで、物語が好きで、出版社に入った。本の仕事に携われるのは喜ばしいことだが、他のことにも少しは興味を持つべきなのだろう、と差し入れのお菓子を丁寧に並べながらは反省する。

「菊丸英二さん入られまーす!!」

 威勢の良い声と拍手とともにはハッとなって顔を上げた。そして、バッチリその人物と目が合う。

「ええーっじゃん! だよね? うっそぉ!!」

 菊丸の喜びように周りはもちろんのこと自身も驚いた。

ってこの会社だったんだ。あ、ねぇ、手塚とは——」

 “手塚”の名前を出されては焦る。
さすがに俗世に疎いでもこの場で手塚の名前を出すのがまずいことくらいはわかるので、慌てて菊丸の背を押して「さ、撮影撮影! 今日はよろしくお願いしまーす!」と無理やり誤魔化した。

「んで、手塚とはうまくいってんだよね?」

 撮影は滞りなく終わり、菊丸が撮影の疲れを感じさせない笑顔でのもとへやってきた。
まだスタッフが残る現場で菊丸にそう尋ねられ、はしーっと人差し指を立て怖い顔をする。

「なんで隠すの?」
「なんでって……」
「手塚はスポーツ選手っしょ? 別に彼女がいたってなんもダメじゃないじゃん」

 確かにとも思うが、その常識がどんなひとにも通用するとは思えない。
もし万が一スキャンダルになって手塚のテニスを邪魔するようなことだけはあってはならないととしては気が気ではない。

「このまえはサインありがとね」
「お礼なら手塚から聞いたんだけど肝心な部分教えてくんなくてさ。あ、そういえばあれ中身なんだったの?」
「ノートだよ」
「ドイツのお土産がノートぉ?」

 まだそわそわしているを見て「じゃあさ、これからごはん行こうよ。そんで手塚の話聞かせてよ」と菊丸がを誘う。
このままここで話されるよりはマシだ。しかし菊丸のマネージャーらしきひとが一瞬怖い顔でを睨んだ気がしたがそれは大丈夫なのだろうか。
の戸惑いを別の方向に勘違いしたのか、菊丸はを安心させるために「不二も呼ぶからさ」との反応も待たずに電話をかけはじめる。
しぶしぶ店に着いていくと不二が先にいてを待ち構えていた。
きっと今夜は彼らの気が済むまで放してもらえないだろうことをは覚悟する。
ただ選んでくれた場所は全然気取ることのない普通の居酒屋で店内は仕事帰りのサラリーマン風なひとが多く、確かに自分たちを気にしている様子はなさそうではひとまずほっとした。

「じゃあ、再会を祝して」
「それもそうだけど、手塚とがうまくいったことを祝して」
「違う違うもっと祝わなきゃいけないことあるっ!」

 手塚ウィンブルドン優勝おめでとう、と三つのグラスが打つかる。

 先週末ロンドンで行われた国際大会。手塚はそこで念願の初優勝を果たした。
その偉業は日本全土に明るいニュースをもたらし、今もなお世間を賑わせている。

 優勝を果たしたその日、仕事でどうしても応援に行けなかったの元に手塚から電話があった。
「おまえが待っていてくれると思うといつも以上に力が出せた」。電話越しでそう言われたはこれが電話でよかったと思うほど盛大に嬉し泣きをした。

「しつこく想いつづけてた甲斐があったね」
「なぁんだ不二はふたりのこと知ってたんだ」
「知ってておもちゃにしてたんだよね」
「人聞きが悪いな。ボクなりにキミたちのこと応援してあげてたんだけどな」
「まぁまぁ、終わり良ければすべてよしってね☆ 次のお祝いは結婚かにゃ?」

 と菊丸に揶揄われは冗談だとわかっていても顔を思いっきり赤くする。
十年もまごついていた自分たちがまさかそんなとんとん拍子に話が進むわけがない。そう思いつつもの心のなかにもひょっとしてという気持ちはあった。
電話を切る前になにか言いかけた手塚。一体なにを伝えようとしていたんだろう、と今も妄想は風船のようにふわふわと膨らみあがるばかりだ。
その風船の紐に掴まったように足取り軽く居酒屋から自宅まで帰ってきた。

 手塚が日本に一時帰国するまであともう少し。待っているあいだにも期待の風船はの胸で膨らみ続けた。
膨らみすぎた風船がどうなるかなど微塵も想像もせずに。