にとって恋とは、ランチセットの食後のコーヒーだ。あるいは映画館で食べるポップコーンであり、短編小説のスピンである。
つまり基本はなくても困らないんだが、あったらなんだかちょっといい気分。
そんな程度のものだった。
高校一年生の夏、忍足侑士と付き合うまでは。
頭の中ではショパンの
身の内に広がる混沌とした靄を一掃してくれる嵐ような曲で、が人前で最後に弾いた曲だ。
はその曲に耳をすませるでもなく眼を閉じたまま、舌や手を巧みに使って侑士の陰茎に愛撫をくわえていく。
の後頭部に置かれた侑士の手がときより微かに反応するがは気づいていなかった。
美しく激しい旋律が溢れ出して止まらない。
◇◆◇
「えーっ! そうなんだっ!」
更衣室にいたほとんどの女子がその大声に反応した。
注目を集めていることなどお構いなしに「意っ外! うっそぉ!」となおも騒いでいるのはとなりのクラスのグループだ。
も一瞬そちらに気を取られたが、またすぐに自分の着替えに戻った。
体育の授業は男女別、二クラス合同で、今日の女子は水泳だ。心底面倒くさい。げんなりしながら脱いだ下着を適当に丸めてロッカーに放り込む。
そのときさりげなく右足首につけていた鎖も取った。
「忍足ってすっごいエロそうなのに! 『お嬢ちゃん、ええ脚しとんな』とかあの低音ヴォイスで囁かないの!?」
「そんなこと言わないよぉ。普通に“可愛い”とか、“好き”とか、そんな感じかな」
「言葉責めないの? エロヴォイスの意味ないじゃん! 宝の持ち腐れ!」
「なんていうか“責め”? みたいなのはなかったかな。終始尽くしてくれてるっていう感じで、そこが優しくて最初は良かったんだけど……」
「えーっそんなの絶対つまんないじゃん!」
だから別れちゃった。
その答えで甲高い笑い声が再び更衣室に響く。
のとなりで「なにアレ」とが低く唸った。
「ねぇ、アレほっというていいわけ?」
「うーん……まぁ?」
「なんでそこ許しちゃうの?! しっかりしてよ!」
どちらかと言えば、なぜが腹を立てているのかがには理解できなかったが、それをあえて口に出すことはしなかった。
「いいじゃん。ほっときなよ」
バタンッ、と大きな音をたててロッカーの扉を閉めたはすっかり水着に着替え終えて自分の髪を束ねている最中だった。
先ほどから騒いでいた子たちが一瞬こちらを見て、なにやらひそひそとしたのち静かになる。
「元カレの悪口言う女はねぇ、まだ未練ある証拠らしいよ」
がたちに話しかけているだけにしてはやけに大きなボリュームでそう言ったあと、水中ゴーグルを人指し指でぐるぐると弄びながら「じゃあお先に〜」と一人先に悠々とした足取りで更衣室から出ていった。
氷帝学園はさすがハイソサエティが通う私立だけあって校内すべてが冷暖房完備だ。
この更衣室も例外ではなく、普段は常に快適な温度・湿度が保たれている。なのだが、が出て行った更衣室は確かに真冬の風が吹き、その場の人間を凍りつかせた。
「で、実際どうなの?」
がにやにやとしながらの顔を覗き込んだ。
今日の授業内容はクロール、次いで平泳ぎのタイム測定。
名前順に泳がされるだけなので、体育の授業とお昼休みだけが生きがいみたいなにとっては退屈でしかたがないだろうが、からすれば至極楽な有難い授業内容だった。
すでに順番を終えたが、まだ順番がきていないのとなりに腰を下ろす。
ちょうどそのタイミングでが派手な水飛沫を上げてレーンに飛び込んだ。ピッと笛の音が鳴る。
フライングだ。
「忍足つまんないの?」
が面白がってるのはその表情を見れば明らかだ。
この問いだって事実を見極めたいというより、ただ単にを突いて反応を楽しみたいだけだろう。
がじゃぶじゃぶとレーンを逆走しながらスタートラインに戻ってくるのを眺めながら、は首を傾げてよくわからないフリをする。
「って自分から忍足の話しないよね。てゆーか、聞いてもだいたいはぐらかすし」
が首を捻りながら「そうかな」ととぼけると、は鼻に皺を寄せてから「ってSNSもやんないもんね」と脈絡もなく話題を変えた。
「誰がいつどこで何やってるかとかあんまり興味ない」
「やってる子たちだって他人の投稿なんか見てないよ」
「そうなの?」
「ただ自分の投稿に反応が欲しいだけ。品薄の期間限定品必死に探して『偶然ゲット♥』とか、めっちゃ加工した自撮り晒して『ちょっと風邪気味』とか、風景写真に『いつだってキミがいてくれるからがんばれる』みたいな謎ポエムとか。誰も損も得もしないようなこと投稿して『いいね』の数見て一喜一憂するの。まぁ、そのために、誰かの投稿に反応したりもするかもしれないけど、基本は自分を見てほしいだけで、他人はどうでもいい。要約すると、みんな自分の持ち物をさりげなく自慢してチンケな承認欲求満たしてるってこと」
に「わかった?」と問われて、は「全然わかんない」と正直に答えた。
「“彼氏”なんてそんな子たちからすればそういうものの最たる例なんだよ。恋人同士の話なんて大概他人からしたら『“どうでも”いいね』なんだから、それをわざわざ他人に聞かすって自慢以外のなにものでもないからね。そういう子は自分自身が幸せって感じることより他人に『幸せそう』って思われるのが大事で、彼氏はそれを実現させるためのアクセサリーのひとつ。は、せっかくいい“アクセサリー”持ってるのに勿体ないって話」
の口元は無意識のうちに引き結ばれていた。
はそんなを静かにじっと観察するように見つめ返す。
ややあって、「世の中にはそういう考え方の人もいるよってこと。は永遠にわからないだろうけど」と肩をすくめた。
が「ま、とにかくさ、」と話を再開する。
「アレ、自分がフった風装ってたけど、実際は忍足の方から距離置いた感じだよ」
「ん?」
「。忍足の元カノ」
はそう言って顎で反対側のプールサイドを示した。
さっき更衣室で騒いでいたグループがきゃっきゃっとまた集っていて、その輪の後方でというらしい女の子が口元を手で隠しながら笑っていた。
は高等部から入学してきたいわゆる外進生だけど、もも侑士も、そして侑士の元カノらしいも皆中等部からの内進生だ。
彼らの関係性をよりが詳しいのはある意味当然だった。
「部室裏で揉めてたの聞いちゃったことあるんだよね」
「あ、そういえばそのときたまたま一緒にそれ見てた滝はその現場ばっちりムービー撮ってたよ。今度見せてもらえば?」というの提案をは丁重にお断りした。
ピッピッピーッと笛の音がつんざく。もも反射的に視線をレーンに移した。
丁度がひとり二十五メートルを泳ぎ終え、「一等賞!」とたちにピースサインを向けているところだった。
「なにやってるのさん! 五十メートルって言ったでしょう! ターンしなさい! ターン!」
「ぅえっ?」
のとなりのレーンでは次々と華麗にターンが決まっていく。
慌てふためくの様子があんまりにも面白くて、は思わず吹き出した。も「もうなにやってんの! バーカッ!」と笑いながら野次を飛ばす。
が泳ぎ終わって(もちろんビリだ)、水を滴らせたままこちらにとぼとぼと歩いてくるのを眺めながら、は「優しいよ」と呟いてみた。
「ん?」
「忍足。優しいよ」
は一瞬きょとんとした顔をしてから、「まぁそうだろうね」と頷いた。
「たぶんが考えてるより五千倍優しい」
予想通り、が「うげぇ」と呻いて舌を出した。
◇◆◇
「」
プツンッ、と頭の中で響いていた音楽が止まった。
顔を上げると侑士が困った様子でを見下ろしていた。
無視して続けようとしたら、二つ折りになっていた身体を抱き起こされる。
「どないしてん?」
「どうもしない」
「なんかあったか?」
「なんにもない」
手の中で性器がどんどん萎びていく様を見ていると言いようのない焦りが迫ってくる。
それを振り払いたくて、再び舌をそこに這わそうとすれば、思いの外強い力で止められた。
「なんかあったんやろ」
怒ってるのかと思ったが、そうじゃないらしいことは表情と声色でわかった。
向けられている眼差しはいつもと変わらず穏やかだ。
侑士がまだ眼鏡をかけたままでいることが今更気になってそっと外してから、「キスしてもいい?」か、と訊ねる。
「ええで」
「舐めたあとだけどいい?」
「……いちいち言わんでもええわ」
苦笑いされたけど、拒否はされなかった。
合わせた唇から生暖かい熱がとろりと流れこんできて、冷めた身体に心地よい。
侑士の唇がの耳を、の唇が侑士の頬を、侑士の舌がの首筋を、の指が侑士の背中を、這うあいだにショパンの
侑士は優しい。侑士のセックスも優しい。
押し倒されるときも後頭部を庇われながらゆっくりとだし、前戯も十分にしてくれる。
口戯を強要されるようなこともなければ、無理な体位を求められることもなく、必ず先にを絶頂に導いてくれる。
「寒ないか」「痛ないか」「大丈夫か」と気遣い、「好きやで」「綺麗や」「可愛えな」と絆し、全身にキスの雨を降らせるくせにの身体には痣一つ残さない。
侑士に抱かれるたびに自分がまるで砂糖菓子かなにかとてつもなく脆いものにでもなったんじゃないかと錯覚を起こしそうなほどだった。
が侑士とのことを他人に話さないのは、すべて自分だけのものにしておきたかったからだ。
どんな些細なことだってそれが侑士に関することなら誰にも教えたくない。全部自分だけのものがいい。
更衣室で見たの裸体が瞼の裏にくっきりと焼きついていた。
あの白い肌を、柔らかな髪を、程よく肉付きの良い四肢を、侑士が撫でていたかと思うとプールの水で冷えた身体の奥でなにかが煮え立つときのように苛立ちがふつふつと湧いてきた。
最初はただ耳に水が入ったような不愉快な感覚に首を捻っていたが、こうやって侑士に抱かれているうちにやっと見当がついた。
そうか。私は嫉妬していたのか。
そういった感情は情の薄い自分には無縁のものだと思ってきたがそうでもなかったらしい。
腰を揺さぶられながら目を閉じると満たされていくのがわかる。
醜く歪んだ後ろ暗い優越感が快楽を煽った。
呪いが解けたのか、あるいは逆に魔法にかけられたのか、は自分が今ようやく“ひと”という存在になれたような、不思議な痺れを味わいながら今日もまた例外なく快楽の頂きに登りつめていた。
二人ともろくに観ていないうちに再生を終えてしまったディスクがいつのまにかメニュー画面に戻って静止していた。
映し出されているおどろおどろしいタイトルには見覚えがある。
一緒に映画を観たときにこの映画の予告編が流れ、「ちょっと面白そう」と呟いたに対して、「……まぁ、夏やからな」と侑士は明らかに強張った笑みを浮かべていたはずだ。
今この部屋にこのディスクがある理由は明らかだった。
デッキからディスクを取り出してしまっている侑士の背中に堪らずぎゅっと抱きついた。
「怒ってる?」
「何がや?」
「映画、終わっちゃったから」
「そんなんまた観ればええだけの話やろ」
「怒らないの?」
「怒らへんで」
「怒ってもいいよ?」
「なんやねん。そんなに怒られたいんか?」
侑士は可笑しそうにしながらディスクを入れた透明なケースを黒い袋にしまった。
大切なものは人それぞれで、それがアクセサリーだという人もいるかもしれないし、そのアクセサリーを身につけている自分自身だというひともいるかもしれない。それでいいと思う。
重要なのはそれが何かではなく、自分の大切なものは何かとわかっていて、それをちゃんと大切にできているか、というこの二点のみだ。
にとって、大切にすべきものは明白だった。
見失ってはいけない。
いつだったか侑士がのピアノを聴いてみたいと言っていたことを思い出した。
今度機会をみて披露してあげよう。うんと練習して、侑士のためだけに弾く。
曲はドビュッシーあたりが良いかな。そんなことを思いながら、はひさかたぶりに水面から顔を出して息継ぎするように、胸いっぱい新鮮な空気を吸い込んだ。