今度一緒に映画でも観に行かない?
学校の廊下で彼女にそう誘われたとき、忍足は静かに驚いていた。
一瞬、心を見透かされたのか、とそんなありえない考えが頭を過ぎったからだ。
濡れた黒真珠をはめ込んだような彼女の大きな黒い瞳には不思議な力が宿っていると言われても頷けるだけの凄みがあった。見つめただけで相手を石に変えるギリシャ神話に出てくる女を思い起させる。
。氷帝学園高等部一年F組。
通常一年時は中等部から上がった内進生と高等部から入った外進生はクラスが別になるのだが、今年は人数の都合上一クラスだけ内進生と外進生が混じるクラスがあった。それがF組だ。
は外進生だが、同じクラスには忍足が所属するテニス部のマネージャーであり内進生のとの二人が在籍しており、彼女はこの二人と仲が良いらしいので、自然と忍足もその存在は認識していた。
遠目で見る彼女はなぜか大抵他とは違う方を向いていて、微妙にその場に馴染まないからよく目立つ。
誰からも踏み荒らされたことのないような少女然としているわりに、纏っている空気に艶があるから不思議だ。案外、魔性とはこういう子のことを言うのかもしれない、と忍足は密かに思っていた。
訊きたいことなら山ほどある。けれどそれを今明確に示してしまうのはスマートさに欠ける気がした。何事も初めが肝心だ。
「別にええで」
忍足はさも気のないふうを装っての誘いに応えた。
七月二十一日。一学期最終日。明日からは高等部に上がって最初の夏休みだ。
冷えた室内。グランドピアノの下。肘と肘が触れ合いそうで触れ合わないこの至近距離で黙々と本を読みふけっているを尻目に忍足はひとり悶々としていた。手元の本は数ページしか進んでいない。
あれからとは不思議な関係が続いていた。
自分から誘うくらいなのだから、こっちに気があることは大前提。余裕を持って臨んだ初デートも思い返せば忍足は振り回されっぱなしだった。
「あ、映画始まっちゃう」と何の前触れもなく触れられた左の二の腕。映画館の暗闇の中でされた耳打ち。ラフなワンピースから伸びた眩しい生足が手の甲を掠めるたび忍足は密かに不埒なことを考えた。
この子は自分に気がある、という根拠がどんどんと積み上がっていく。
なのになぜか終始感情の読めない真顔ときた。さよならも随分あっさりで思わず引き止めて次の約束を先に口にしたのは情けないかな忍足の方からだった。その日わかったことといえば、思っていた通り、いやそれ以上にが変わり者だということだけだ。
今日だって——と、忍足は怨めしく思う。
本を貸すという名目の元、は仕事で親が留守中の自宅に忍足をすんなりと招き入れた。
「そこら辺に座って待ってて」
と、言われましても。と、ツッコミたくなるような部屋の状況に忍足は唖然と立ち尽くす。リビングのどこを見ても本、本、本。うず高く積まれた山はひとつ、ふたつ、どころではなく、壮大な山脈を作り上げていた。
「どうしたの?」
動こうとしない忍足にが不思議そうに首を傾げる。やや間を空けてやっと理解したのか、「ごめん、ごめん」と、言ってどこからか出してきたクッションを「ここなら」とリビングの中央に置かれたピアノの真下に置いた。確かにひとが座れる余裕のある場所はそこにしか見当たらなかった。なかったが……。
は忍足に貸す予定だった本を、はい、と手渡し、自分も別の一冊を持ってピアノの下に慣れた仕草で潜りこんだ。
サラリ、サラリ。
乾いた紙が捲れる音がやけに耳につく。
パキンッ。
は本を読みながら自分で持ってきた板チョコレートを無造作にかじって、指先をちゅ、ちゅ、と舐めていた。赤い小さな舌がまるでミルクを舐める子猫のそれだ。
男として、この状況に怒ればいいのか、喜べばいいいのか。大きく開いたティシャツの襟口からは忍足を試すように下着の肩紐が顔を覗かせている。
元来、忍足は他人と自分との距離を測ることには長けているタイプだった。だが、持ち前の洞察力もを目の前にすると霞がかかってしまう。が自分以上のポーカーフェイスであることも大きな理由だが、それ以上に自分のことを特別に想っていてほしいという忍足自身の願望がそうさせているのである。
手元の本が読み終わったのか、が次の本を手に取ろうと座ったまま身体を捻った。
その拍子に奥にあった本の山がぐらつき雪崩を起こしそうになっているのに気づいた忍足は咄嗟に腕を伸ばしてそれを食い止めた。
がしかし、力加減を見誤って結局反対方向に倒してしまう。さらに、自分の体勢も崩して、そのままの方へ覆いかぶさるように倒れ混んでしまった。が床に頭を打つける既でそれはなんとか庇うことはできたが、図らずしも押し倒したような体勢になる。
身体は冷房で冷えすぎているくらいなのにじとりとした汗が忍足の脇腹を伝った。
触れるのが怖い。もし万が一拒絶されたら、と想像しただけで胃袋に氷が落ちてくる。さっきまで確かにそう思っていたはずなのに、実際の身体は心より正直だった。
チョコレートの甘い香りに唆されるように忍足はの唇にキスを落とした。
そして、
「好きになってもうた、言うたら信じてくれるか?」
と、言い訳をするように呟く。慎重にの様子を窺えば、大きな瞳がまっすぐ忍足を写していた。
「信じさせて」
そう言ったの声は甘くて、忍足の鼓膜を痺れさせた。
◇◆◇
「それでね、っあ」
忍足が部室の扉を開けた瞬間、不自然に固まったに「……なんやねん」と一応ツッコむと、その向かいに座っていた滝が「さん、告白されたんだって」と面白そうに笑った。が慌てて「告られたっていうか、手紙? 渡されてただけだよ。てゆーか、それすら断ってたし!」とフォローを入れるとなりで、が「相手結構格好良かったんだよね〜」と要らぬ情報を付け加えた。
夏休みが明け、忍足たちが交際しているという噂がやっとひと段落したところだった。
「意外だね。さんそういうの慣れてそうだから適当に受け取って、そのまま捨てそうなのに」
「えーってそういうイメージ? そんなに冷たい感じじゃないよ? でも、まぁ受け取ってくれるだけでもいいからって言われても絶対受け取らなかったのはちょっと意外だったかも」
滝は「さんって案外忍足にベタ惚れなんだね」と揶揄った。
“案外”ってなんやねん。という言葉が喉まで出かかったが、忍足はどうにかそれを押しとどめて黙々と部活の用意に取り掛かる。
「それにしても、相手他校生だったんでしょ? じゃあ一目惚れかな?」
「ん〜そうじゃないかな? も全然知らないひとだったって言ってたし」
「でも、わかるなぁ」
「なにが?」
「さんってなんか一目惚れがいあるよね」
「どういうこと? 顔が可愛いとかじゃなくて?」
「なんていうかなぁ〜いや、そういうことなんだろうけど……ねぇ、忍足は一目惚れだったの?」
忍足が「……そんなん聞いてどないすんねん」と不快感丸出しで応えると、「あ〜忍足ってつまんないなぁ」と滝はぼやいた。忍足が自らの身を削ってエサを提供するわけがないことを滝はわかっているのに、あえてちょっかいを出す。そういう性分なのだ。
「てゆーか、滝ってがタイプなの?」
「まぁ、系統的にはね。でも俺はもう少し感じ悪い方が好みかな」
「どういうこと? 滝ってときどき全然わかんない!」
そう叫んだに忍足は心の中で全面的に同意した。
滝とがやっと部室から出て行きほっと息吐いたのも束の間、今度は奥でスコアブックを整理していたはずのが「で、実際どうなの? とは順調?」とニヤニヤした顔を覗かせた。
「あんたたちふたりって隙がなさそうで案外隙だらけだから突きたくなるのよね〜」
滝に似た意地の悪い笑みを浮かべて「まぁ、隙の種類が違うけど」とはなにげなく付け加えた。指摘が的確な分、滝よりタチが悪い。
「にこの間、『忍足のことどう思ってるの?』って訊いてみたんだけどさ、なんて答えたと思う?」
「……知らんわ。つか、何訊いとんねん」
「なによ、代わりに訊いといてあげたんじゃない」
「いらん親切ご苦労さん。宍戸が嫉妬すんで」
「たまにはヤキモチ妬かれるのもいい気分よね」
これ以上続けてもに口で勝てないのは経験上明らかだ。
丁度支度も終えていたので、忍足はいつも通り個人ロッカーに鍵をかけて無造作にポケットにつっこんだ。
「の答え知りたくないの?」
の声が出て行こうとする忍足の後ろ姿を引き止める。
忍足が否定も肯定もしないうちに「『優しいよ』だって」とが言った。
「いい加減テニス以外で心閉ざすのやめたら」
忍足が何も答えられぬうちに部室の扉が開き、岳人たちが湿度の高い外気とともに騒がしく入ってきた。「アッチー」と言いながら、の目があるにもかかわらず気にせず制服を脱ぎはじめる。
忍足はこれ幸いと「先行っとるで」との呆れたような視線から逃れた。