のことは少しずつわかってきた。
 元々はミッション系の女子校へ通っていたが、親の仕事の都合で引っ越しが決まり、高等部に上がるタイミングで学校も移ることにしたらしい。
驚いたことに氷帝学園を選んだのは一番家から近いというだけの理由だそうだ。確かに家は氷帝学園から歩いて通える距離にあった。
 両親は揃って大学の職員。家の中の膨大な本はそのせいだ。
 二人とも忙しく、家で独りで過ごす時間が多くなってしまうひとり娘を心配して娘に習い事をさせることにした。
スイミングに英会話、バレエや習字やその他諸々……。内容というより月曜日から金曜日の放課後の予定を埋めるということが最重要項目だ。
 学校が終わったら、家に一度帰って、またすぐ習い事。遊びにあてられるフリーの時間も必然的に少なくなり、これといって親しい友達はできなかった。
 ある意味義務のような習い事は大して実にならなかったが、ピアノだけは違ったらしい。は十歳の誕生日にグランドピアノを買い与えられ、それ以来他の習い事は辞め、家で独りの時間はもっぱらピアノを弾いて過ごしていたそうだ。しかし、そのピアノも引っ越しとともに辞めてしまっていた。
 一度だけ聴かせてもらったのドビュッシーは一音一音が水面に反射する光のように輝きを放っていて、テクニックだけではなくひとの心を動かす魅力的な演奏だった。
辞めてしまうなんてもったいない。忍足は極当たり前にそう思ったのだが、当のはさほど未練のない様子だった。
 これまでのの生活は圧倒的に独りの時間がしめていた。だから、感情を表現するスキルが育たなかったともいえる。
感情そのものがないわけではない。と、する一方で彼女の元来の性質は細かいことは気にしない、良くいえば大らか、悪くいえば大雑把なものだった。
「ま、いっか」が彼女の口癖である。
 感情を無理矢理閉じ込めているわけでもなければ押し殺しているわけでもなく、なんなら特別隠すことも偽ることもしていない。忍足からしてみれば、必死に押し開けようとしていた扉がその実は引き戸だったという具合である。
 だからこそ居心地が悪い。
なんかにいちいち指摘されるまでもなく、心の扉に鍵をかけているのはではなく自分の方だということを忍足は自覚していた。

 ——耳障りのいい言葉ばっかり並べて女の子騙して楽しい?

 忍足にそう言ったのはかつての恋人だ。
 彼女はまるで砂漠の砂のような女の子だった。注いでも注いでも乾くばかりで、一輪の花も咲かない。
「好きだ」。「愛してる」。そんな囁きは彼女の身体に溶けては消えて何も残らなかった。忍足の心が次第に冷めていったのは当然の成り行きだ。
 忍足は決して彼女に嘘を吐いているつもりはなかった。彼女にすべてを曝け出していたわけではなかったが、自分の心を千切ってその破片を差し出すくらいのことはしていたつもりだったから、当時はそれなりに傷ついた。
 好きだから良いところを見せたくて格好もつけるし、嫌われたくないから弱みや汚い部分は上手く隠す。それがそんなにいけないことだろうか。
いくら交際しているからといって相手のすべてを知りたいなんて傲慢なことを忍足は思わない。
どんな付き合いにも適切な距離というものがあり、許可なく一線を越えれば関係が破綻しかねない。“好き”だからという理由でひとの心に土足で踏み入るようなことはしたくなかった。
 けれど、今同じ言葉でに詰られたら、と思うとそれだけで忍足は手のひらにびっしょりと汗をかく。



「ない」

 部活を終えて、さて着替えて帰ろうとしたときにって忍足は今日一番の不運に襲われた。

「あ?」
「ロッカーの鍵がない……」
「あ? つーか、なんでお前部室のロッカーなんかに鍵かけてんだよ」

 岳人の言葉で忍足が辺りを見回すと、確かに鍵をかけているのは自分以外には跡部と滝だけで、少数派だった。

「あー……制服どないしよ。つーか、携帯もや……」
「とりあえず、今日はジャージで帰るしかねぇな。激ダサだけど」
「……明日はどないすんねん。シャツは代えあるけど、さすがに下はないわ」
「上ワイシャツで、下ジャージでいいんじゃねぇ?」

 ジローの珍案で上ワイシャツ下ジャージの忍足の姿を思い浮かべたその場にいた奴らは「ダッセー」と腹を抱えて笑い出す。そんな友達がいのない奴らを尻目に「……ほんま今日良いことなしや」と忍足は誰に言うでもなく打ち拉がれた。
 思い返せば今日は朝からついていなかった。
家の洗面所でかち合った姉には「ほんま天秤座の男って外面ばっかりやんな」となんの脈絡もなく突然罵られ(おそらく今付き合っているのが天秤座の男で喧嘩でもしたのだろう)、駅のホームではスーツケースをぶつけられるし、電車の中では足を思いっきり踏まれた。昼休みには岳人がわざわざ自分の目の前で納豆を食べ始めたので、それに抗議をすれば、

「なんで俺がお前に配慮して昼飯選ばなくちゃなんねぇんだよ!」

 と、キレられた。せめてもの救いは部活が終わればとの約束があることだったが、携帯もロッカーの中に閉じ込められている。
 しかたなしに、忍足はに連絡をしてくれるように頼んだ。

「今から行くってLINEすればいいの?」
「頼むわ。あ、余計なこと言わんでええからな」

 「余計なことってなに?」と首を傾げるに「サーブミスしまくって跡部に怒られたこととかじゃない?」とニヤつく。忍足は溜息を吐いて、「……そういうこととかや」とだけ言って形ばかりの帰り支度をした。



「お疲れさま」

 玄関の戸が開き、が見えた瞬間、抱きしめたいと思ったが自分が汗臭い部活着のままであることに気づいて忍足は踏みとどまった。
 今日は貸していた本の下巻をに渡す約束をしていた。
本を渡したらすぐに帰ろう。そう思っていたのになんとなくいつもの流れで靴を脱いでしまっていた。度重なる不運で気持ちが落ちているし、身体も疲労が溜まっている。こういうときは上手く装えないから、早く独りになりたかったのだが……。
 適当に切り上げて今日はやっぱり帰ろう。そう思った矢先に「コーヒー飲む?」と訊かれ、つい「おう」と答えてしまった。
 キッチンから堅い豆を砕く音が聞こえてくる。

「ミル買うたん?」
「発掘した」

 手持ち無沙汰になった忍足はソファーに深く腰掛けながら辺りを見渡した。
相変わらずすごい眺めだ、と思う。
どこを見渡しても本の山。玄関や廊下、トイレや台所すら同じ状況で、おそらくこの家で本が置かれていないのは浴室くらいのものだろう。初めてここを訪れてから数ヶ月が経つが、片付く様子はまったくない。むしろ山は心なしか増えていっている気もする。
この家の地下には本が湧く泉でもあるのかもしれない、なんて馬鹿な想像をしていると、湯気がたったマグカップを二つ持ってがキッチンから出てきた。
 コーヒーの香ばしい薫りに条件反射で身体の力がさらに緩む。

「はい」
「ん、おおきに」

 は忍足のとなりに腰を下ろして、さっそく貸した本をペラペラと捲りはじめた。その横顔を眺めつつ、忍足はが淹れてくれたコーヒーを口をつける。
 苦味が強いのはおそらくお湯の温度が高すぎたせいだろう。酸味ももう少しあったほうが好みだが、そんなことまるっと関係なく美味かった。
が自分のために淹れてくれたコーヒーだ。それだけで今まで飲んだどんなコーヒーより美味しく感じる。
 家の人間が誰もコーヒー党ではないことを忍足はちゃんと知っていた。



 名前を呼んで当たり前に反応が返ってくる。それだけで忍足の胸の中には火が灯った。
 マグカップを置いて「抱きしめてもええか?」とに尋ねる。
わざわざ尋ねることに自分の情けなさを感じるけれど、の「いいよ」と囁く声ですべて赦された気がした。
 を抱きしめるとあの日と同じ甘いチョコレートの香りがする。
 忍足は、今までが一度たりとも自分を拒んだりなんかしなかったことを思い出した。

「子供の頃転校多かってん、俺。ひとつんとこに三年もおらんかったんちゃうかな。やっと慣れた思おたらハイまた次って。……結構しんどかってん。今でもよお覚えとるわ」

 心を晒し、否定されれば、悲しい。だから、他人と向き合うには勇気がいる。
否定されても自分たちの関係は変わらない、もしくは、否定されて関係が悪くなったとしても修復すればいい、と思えるだけの信頼関係を築くには時間も必要だ。
幼い頃より何度も転校を繰りかえしてきた忍足にとってその時間を確保することは難しい問題だった。いつしか関係を築く努力をすること自体無意味に思えて、当たり障りのない上辺だけのやりとりが上手くなったのはしょうがないことともいえる。
 遠い昔、扉の向こうに心を隠して鍵をかけて守ったのは自分自身だ。自分が傷つかなければそれでいい。それだけだった。心がない、と指摘されて傷つくなんて権利は初めからなかった。

「せやから、って言うたら言い訳にしか聞こえへんけど、今でも自分のほんまの気持ち素直に言うの苦手やねん」

 忍足は小さな子供が母親にすがるようにの胸元に頭をうずめた。

、好きや。ほんまに。嘘ちゃうで」

 どうかこの気持ちだけは疑わないでほしい。忍足の掠れた声は切実だった。
 心の扉の鍵は自分で締めたくせに失くしてしまって、開けたいと心から思ったときにはもう開け方がわからなくなっていた。
 今更、ともうひとりの自分が嗤う声がする。けれど今は耳を塞いではいけない。
同じ過ちは繰り返したくない、と忍足は思った。
 がもぞっと動いて忍足を下から覗き込む。大きな瞳がまっすぐ忍足を見つめていた。閉まったままの心の扉の奥をそのまま見透かすようにじっと——。
 突然、すんすんとが鼻を鳴らし始めた。

「汗くさい」
「……このタイミングでそれか」

 脱力している忍足を放ってはなおも小動物のように鼻を小刻みに動かす。

「私、このにおい好き」
「……変わっとんな、自分」
「すごく好き。嘘じゃないよ?」

 ふふふっと笑った顔が憎らしいけれど愛らしい。
 たぶん、自分は一生この子に敵わへんのやろうな、と忍足は自分の未来を穏やかな気持ちで案じた。