「てゆーか痛くない?」
教室のドアの取っ手に手をかけた瞬間、中から笑い声が聞こえきては動きをピタリと止めた。
「だって別れたのって一年以上前でしょ? 去年の夏前には別れてたよね?」
「確かね。だからあの子、全国大会みんなで応援しに行こうって自分から誘ったくせにドタキャンしたよね?」
「あーそうそう! しかも前日に! 『ごめんね、私やっぱりいいや』って。あれ絶対ごめんなんて思ってないでしょ」
「さっすが“お姫様”」
会話の合間に聞こえる咀嚼音。おそらくお菓子でも食べながらダラダラとしているのだろう。
放課後の教室にはもう彼女たちしかいないみたいだからやりたい放題だ。
いつも口癖のように「痩せた〜い」と言っているくせに行動が伴わない。意志が弱いのだ。ついでに頭も、とは内心毒づいた。
「さん、全然気にしてないよね」
「超クールガール」
「そういうとこちょっと忍足と似てない?」
「似てる似てる。てゆーか、超お似合いカップル。美男美女〜」
「ぶっちゃけと付き合ってるときはなんか違和感あったんだよね」
「わかる。いやさ、顔は可愛いよ? 可愛いけど、それだけじゃない?」
「でも、男子はそれにホイホイ騙される」
「男子、ほんとバカ」
このままドアの前に立っていても仕方がない。
は頃合いを見計らってドアを開けた。さも今ここに着いたとばかりに。
「ただいま〜」
「あ、おかえり〜。遅かったじゃん」
「日誌出したあとにノートの整理手伝わされちゃって」
の取ってつけたような作り笑いを気にする者はいない。
彼女たちも彼女たちで、さっきまでの悪口を散々言っていたとは思えない笑顔を見せる。
女なんて所詮みんなこんなものだ。
その場に合わせて仮面を器用に使い分ける。
なにも自分に限ったことではない、とは自分の正当性を改めて感じた。
「今日どうする?」
「お腹空いた〜」
「いや、さっきポッキー食べたじゃん」
「え〜だって足りなくない? これ一袋に四本しか入ってないくせに二袋しかないんだよ? 詐欺じゃない?」
「いや、箱にちゃんと八本入りって書いてあるから詐欺ではない。が、しかしお腹は空いた」
「でしょ〜! あっ、今日スタバの新作の日! スタバ行こっ!」
広がっていたお菓子のゴミや化粧品をガサガサと適当に片付けてから、スクールバッグを背負った彼女たちはやっとそこで思い出したようにまだ帰り支度をしていないを振り返って「あれ? 今日水曜日じゃないよ?」と訊いた。
「うん。そうなんだけど今日は部活ミーティングだけだから待っててほしいって言われてて」
がそう応えれば、彼女たちは「そっか。じゃあね〜」とあっさりと教室を出ていった。
おそらく、廊下を曲がる頃にはまたの悪口大会が再開するんだろう。
どうでもいい。
はスクールバッグから読みかけの文庫本を取り出して、かけてあったスピンのところで開いた。
ちょうどヒロインが泣きながら「もう別れる」と宣言し、「そんなことさせない」と恋人に抱きしめられるシーンだった。
◇◆◇
「何読んどるん?」
休み時間、騒がしい教室でそこだけ切り取られたように静かな窓際の自分の席で文庫本を開いていたはその声で視線を上げた。
「歴史小説……かな? 忍者の話」
の答えが予想外だったのだろう。ポーカーフェイスで有名なクラスメイト・忍足侑士の眼の形がレンズの奥でわずかに変わった。
「おもろいな自分。てっきり恋愛小説かと思っとったんやけどハズレたわ」
忍足はの席の前の空いてた席に腰を下ろした。
「女子がみんな恋愛モノ好きなんて偏見だよ」
「せやな。実際ロマンチストなんは男の方言うもんな」
「忍足くんはロマンチストっぽいよね」
「どうやろな?」
このクラスになってすでに数ヶ月が経過していたがが忍足と会話するのはこれが初めてだった。
というよりは学校で特定の人間以外と話すこと自体ほとんどない。ましてや、男子となんて日直のときに最低限、という感じだ。
忍足が何故突然自分に話しかけてきたのかわからないは当然忍足を警戒していた。
「それ、読み終わったら貸してくれへん?」
「定価(本体580円+税)。借りるより買った方が早いよ」
「手厳しいな」
予鈴が鳴る。
苦笑いでため息をついた忍足がゆっくりとした動作で席から立ち上がった。
おそらく忍足が今後に話しかけてくることはもうないんだろう。
は手に持っていた文庫本のカバーを素早く外し、から離れていこうとする忍足の背中に差し出した。
「貸してくれるん?」
「……もう何度も読んでるから」
おおきに、と微笑んだ忍足からは咄嗟に目を逸らした。
「せやけど、今これ借りてしもたらサン今日読む本ないんちゃう?」
「……いいよ、一日くらい」
「あ、せや。ちょお、待っとって」
忍足は一度自分の席に戻り、一冊の本を手に戻って来た。
そして、それとに手渡す。
タイトルだけならも聞いたことがあるベストセラーの恋愛小説だ。近々映画化もするとかで新装版の文庫が本屋に平積みせれていた記憶がある。
「俺ももう何べんも読んどるやつやから返すんはいつでもええで」
忍足の言葉尻に本鈴が被り、授業が始まった。
一瞬だけ触れた右手の人差し指を見つめているうちに授業は終わっていた。
それから何冊か本を貸し借りをしているうちには忍足に映画に誘われた。
初めて借りたあのときの本が原作の
——今週末、一緒に行かへん?
電話越しの忍足の声がの耳元で低く響く。
——間違おてチケット二枚買おてもうてん。サンが一緒に行ってくれたらチケット無駄にならんで済むんやけど……
が黙っているのを戸惑いだと勘違いしたらしい忍足がつかなくてもいい嘘をついた。
——うん。私も観たかったんだ
だから、も軽やかに嘘がつけた。