忍足くん、彼女できたらしいよ!
 えーっショック! 私、忍足結構タイプだったのに〜
 アンタ、この前髪切った宍戸、めっちゃタイプとか言ってなかったっけ?
 あれ? そんなこと言ったっけ? てゆーかさー……

 さんって誰だっけ?



 これまで、はクラスでも部活でも塾でも、どこへいっても目立たないタイプの女子だった。
 スクールカーストで言えばちょうど真ん中のグループ。と、いうか上にも下にも属さないグレーゾーン。一番どうでもいい存在。
は自分のことを冷静に分析して、その結果を受け入れていた。

「ほら、あの子」

 かつてないほど自分に注目が集っていることにが気づいたのは、忍足と付き合い出した翌日からだった。

 地味じゃない?
 釣り合ってなくない?

 耳を塞いでも、目を瞑っても、鬱陶しい気配は消えない。
 をこれみよがしに小馬鹿にしているのは大抵が女子だ。
けれど、を軽んじる言葉の下に透けてみえる彼女たちの本心もには同じくらい伝わってきていた。

 羨ましい

 要は妬みだ。
だから、自身はなにを言われても大して傷つかなかった。
 気にかかったのは忍足のことだ。
自分のせいで忍足まで嗤われるのは嫌だ。
そう思ったは立ち寄った書店で、普段ならスルーするファッション誌コーナーで立ち止まった。
 運動部ではないから日焼け跡もないし、体質的にニキビもほとんどできない。
目は奥二重だが大きさがあり、睫毛も長い。鼻筋も通ってる方だ。
幸い手先も器用だったから何度か練習すれば、学校で許される程度の化粧でも、案外はそれなりの見栄えになった。
 自分が変わっていくことに静かな興奮を覚える。
その変わった自分を見て、周りの反応が変わることも含めて愉快だった。
 はもうひとりで本を開いて休み時間が過ぎるのを堪えなくてもよくなった。
教室の真ん中でファッション雑誌を囲いながら躊躇いなく笑うグループ。そこがの新しい定位置だ。

「ねぇねぇ、忍足ってどんな感じ?」

 好奇心丸出しでそんなことを訊かれても悪い気はしなかった。
 これみよがしにの噂をする人間はもういない。もしかしたら影でまだなにか言われているかもしれないが、それはもうの目の届かないところでなので、今度こそ本当にどうでもよくなった。


「なぁ、またおすすめの本あったら貸してくれへん?」

 は忍足の腕から抜け出し床に落ちていた服を身につけながら「わかった」とそっけなく応えた。
なかなかワイシャツのボタンがとめられず苛立つ。
 は忍足の優しさに嫌気がさしていた。
 最初こそ自分を尊重してくれる忍足に対して包容力を感じていただが、ときを重ねるにつれて見方が変わってくる。
自分と他人の間に線を引き、自分のテリトリーから出てこない忍足は常に自分は当事者ではないという涼しい顔をしていた。
寛容なのではなく、ただ傍観しているだけ。
 今だって、とはそっと下唇を噛んだ。
 最近のに違和感を抱きつつも踏み込んだことを訊いてこないのは優しさからではなく、と真剣に向き合う気がないだけではないか。
 がどんな思いで好きでもないファッション雑誌を買って、好きでもない友達と付き合って、楽しくもないのに無理して笑っているかなんて触れてこない。
「可愛えな」、「好きやで」とが望む言葉を言っていれば誤魔化しがきくとでも思っているかのように……。
 は忍足にふさわしい女の子になりたかった。それは、忍足が好きだからだ。
 どうしてわかってくれないの?
 いくら思っても線より向こうには届かない。虚しさがつのり、苛立ちに変わった。
の中にある爆弾の導火線はジリジリと燃え進んでいった。


「……今日部活終わるまで待ってるから、久しぶりに一緒に帰らない?」

 部活が始まる前の忍足を部室裏で待ち伏せした。
そんなところからが出てくるなんて思ってもみなかった忍足はを見るなり目をギョっとさせた。

「……ごめんな。大会近いから結構遅おまで練習あんねん。暗うなったら危ないし、待たしとくのも悪いから今日は先に帰っとってくれへんか?」
「ウチ駅から近いし、雑誌でも読んで待ってれば全然平気だよ?」
「……すまん。俺が平気ちゃうねん。待たれとると思うと練習に集中できへん」

 いつもなら「わかった」と言えていたと思う。
けれど、その日のは怯まなかった。

「……私のこともう好きじゃないんだ」
「そういうわけちゃうで。せやけど、今は部活が——」
「『今は』っていつまで? 大会終わるまで? それって夏までってこと? でも高校でも部活続けるんだよね? それってずっとってことじゃないの?」
「急にどないしてん?」
「急にじゃない!」

 ヒステリックなに忍足が引いているのを感じる。それでも止まらなかった。
 謝られたいわけじゃない。ただ反省してほしいだけだ。

「……もう別れる」

 涙と一緒に溢れたの言葉で忍足は固まった。
重苦しい沈黙を破って返ってきた答えはが到底納得できるものではなかった。


◇◆◇


「別れよう」

 思わず漏れた「えっ」という驚き声が静かな放課後の教室にやけに響く。
 今、目の前で「別れよう」と口にしたのはの四人目の彼氏だ。
 は忍足と別れた後すぐ一つ年上の高等部の先輩と付き合った。その人は年上ということもあってかを可愛い、可愛いと飼い猫のように可愛がったが、可愛がられすぎて鬱陶しくなって別れて、またすぐに今度は同級生のサッカー部のキャプテンと付き合った。
部活が忙しいながらも必死に時間を作って会ってくれるのだが、それだけだ。
極端に寡黙で、普段は「可愛い」とも「好きだ」とも言ってくれない。
次第に一緒にいてもつまらなくなって、今度はバスケ部の男の子と付き合った。
今度はそれなりにをお姫様扱いしてくれたが、注意深く観察するとそれはなにも彼女のにだけ向けられているわけでなく、ちょっと見た目がいい女の子になら誰にでもそうするらしいことがわかった。
 そろそろコイツとも潮時かな、とは思ってはいたが、まさか相手から宣告されるとは思ってもみなかった。

「えっ? 急になんで?」
「……お前さ、——やっぱ、いいわ。なんでもない。とにかく別れよう。つーか、別れて」
「なにそれ。一方的すぎない? ちゃんと理由言ってよ。言ってくれなきゃわかんない!」
「じゃあ言うけどさ。お前、めんどくせぇんだよ。『言ってくんなきゃわかんない』? こっちだってそうだよ。いっつも勝手に不機嫌になって、そのままだんまり。何様だよお前。お前、自分が思ってるほどいい女でもなんでもねぇかんな!」

 カッとなっては持っていた文庫本を机に叩きつけた。じぃんっと手のひらが痺れる。
しばらく睨み合っていると、ガラッと教室の扉が開いて誰かが入ってきた。

「ごめん。お邪魔みたいだけど、どうしても取りたいものがあるんだ」

 そう言って平然とこちらに歩いてくるのはクラスメイトの滝だ。
「俺に構わず続けて」と言われても続けられるわけもない。
ある意味いいタイミングだ。相手もそう思ったのか、「じゃあ俺もう帰るわ」とを残しさっさと教室から出て行ってしまった。

「女の子に対して怒鳴り散らすような奴、別れて正解だと思うよ」

 滝はいつの間にか床に落ちてしまっていたの文庫本を拾い上げてからに優しく微笑みかけた。
は「ありがとう」と差し出された本を受け取ろうとするが、なぜか滝が本を離してくれない。
ぐっと力の込められら滝の親指が文庫カバーに皺をつくった。

「ちょっ、」
「ねぇ、でもさんは楽しかった? 好きでもない男と付き合って」
「なに言って、」
「そんなことしてもさ、忍足は君のもとにはもう戻ってこないと思うよ」

 “忍足”という名前が出てきては瞬間的に固まった。滝が言ってることがにはまるで理解できない。いや、したくなかった。

さんだっけ? 今の彼女と結構仲良くやってるみたいだし」

 うるさい。

「この間なんて岳人と三人で遊んだんだって」

 うるさい、うるさい、うるさい。
 は拳を握りしめて、滝の悪意ある言葉がこれ以上自分の身体に染み込んでこないように必死に堪えた。
 なにも失わないためになにも得ようとしなかった毎日で、差し出された一冊の本はの世界を一変させた。
初めて自分にもなにかしらの価値があるんじゃないか、と思えた喜びはすくすく育ち、やがてをのぼせ上らせ傲慢にした。
そのくせ、いつも不安で、不安がつのるとそれは不満に変わった。
 もっと大事にして。私を不安にさせないで。
 欲求ばかりが膨れ上がり、それが満たされないと一方的に苛立った。
 あの日、は自分から「別れる」と告げたのは、そう言えば忍足がにちゃんと向き合ってくれると信じていたからだ。
なのに忍足は「別れたくない」とは引き止めてくれなかった。
 裏切られた。
 あのときはそんな風にしか思えなかったけれど、今はもうそうじゃなかったともちゃんとわかっていた。

「そういえば、あの子誰かに似てるなって思ったんだけど、そうだ、中学生の頃のさんに似てるんだね」

 滝の言葉が鈍器になっての自尊心をぐちゃりと潰す。
 忍足の好みが物静かであんまり笑わないような少し変わった子であることをが知らないはずない。
自分に合わせて変わってほしいなんて忍足はこれぽっちも望んでいなかった。
 もし、が周りの目なんて気にせず忍足の気持ちを信じていれば、今もとなりにいられたのかもしれない。
ずっと消えない「もしも」という名の未練や後悔がどっと押し寄せてきて涙を溢させた。

「まぁ、でもさんの方が整った顔立ちしてるけど」

 容赦ない追いうちに、キッと目をつりあげたが顔をあげると、滝は予想外にも優しい顔でを見つめていた。
その表情の裏を読み解こうにもヒントが少なすぎる。怒りと戸惑いで揺れるの視界は滲むばかりだ。

「大事に扱われたかったら、まずは自分をもっと大事に扱ってあげることからはじめてみればいんじゃないかな」
「……今でも充分そうしてると思うけど」
「そうかな? 俺にはさんの中で本当の自分が迷子になってるように見えるよ」

 滝がスッと文庫本から手を放した。
 何度も繰り返し読んでくたびれたその本は、忍足がはじめてに貸してくれたものをが自分で買い直したものだった。

「……滝君って、もっと優しい人なのかと思ってた」
「わざわざ指摘してあげたんだよ。優しいでしょ、俺。あ、ほら。はい、ハンカチ」

 どうぞ、マドモアゼル。なんて今更だ。
はそれを無視してと自分のポケットからハンカチを取り出して目元を軽く押さえた。

「可愛くないねぇ」
「……どうせ可愛くありませんよ」
「でも可愛くないところが可愛いね」

 は心底疑わしげな目で滝を睨んだ。

「……なに? 滝君ってもしかして、私のこと好きなの?」
「うん、好きだよ」

 あっさりと滝がそう告げたのでは思わず一歩身を引いた。
その明らさまな反応に滝はクスクスと可笑しそうに笑い出す。
 揶揄われた。
 遅れて理解したは持っていたハンカチで滝の身体を叩いた。

「でも、今は付き合いたくはないかな」
「ほんっとなんなの!」

 再び振り下ろされたの腕を滝がやんわりと受け止めた。それから、滝は「続きは忍足のことちゃんと忘れられたらね」との耳元で甘く囁いたので、は思いっきり滝を突き飛ばした。
それでも滝は笑っていた。

「じゃあまた明日」

 滝は何事もなかったかのようにを置いて教室から出て行った。
 外はもうすぐ夕暮れだ。
まだ陽が長いとはいえ、そろそろ学校を出ないと家に着く頃には真っ暗になってしまう。
あっさりと自分を置いていった滝の言葉なんかに惑わされてなるものか、とは自分に喝を入れた。
 目を覚ませ、私。
パンッ、パンッ、と叩いた頬は思いの外痛く、再び涙が溢れそうになる。
それをぐっと堪えても教室を出た。
 他人に振り回されるのはもうごめんだ。
 気持ちを立て直しはしっかりとした足取りで廊下を進む。
久しぶりにひとりで歩く校舎は薄暗くて寂しいけれど、広くて自由だった。