※その他短編『押しかけAnniversary!』の続き

 周囲の明かりを拾って、夜の桜は花自体が発光しているように見えた。
酒気でぼんやりとした熱に包まれながら、夢見心地でその光に誘われるまま心地よく足を進めようとしていると、不意に腕を引かれては驚いた。

「そちらではない」

 振り返るとそこには眉根をひそめた柳が立っていて、さっきまでとは違った熱が瞬く間に全身に昇るのを感じる。

「だいぶ酔っているようだな」
「大丈夫! 別に迷子とかじゃないよ! ただ夜の桜って綺麗だからちょっと散歩しようかと思っただけで……」
「そうか。ならいいが」

 柳はの腕をゆっくりと解放して、歩き出した。
その方向ががさっき歩きかけていたものだったので不審に思い、咄嗟に追いかける。

「や、柳、どこ行くの? そっち、みんなのとこじゃないよ?」
「ああ、わかっている。俺も酔い覚ましがてらここらを歩こうと思っただけだ。それにあっちは弦一郎が騒いで大変なことになってる。お前も今戻るのは得策じゃないぞ」

 柳は春に相応しいやわらかい笑みを残して、桜並木の土手を進んでいく。
 一呼吸の間を置き、はその遠ざかりつつある背を小走りで追いかけた。


◇◆◇


 目の前をスーッと赤とんぼが通りすぎて、の意識を緩やかに奪う。
そして導かれるように視線が行き着いた先には、いつもはなんのことなしに通り過ぎてしまう空き地があった。
自由気ままに文字通り伸び伸びと育った草々が一面を覆っている一区画。この季節はススキが冷たくなり始めた風にそよがれていた。
 ふと、そのススキの群れの奥に他とは異なる色彩が見える。
秋の桜と書いてコスモス。可憐な薄紅色の花が一輪だけそこに咲いていた。
好き勝手な方向に伸びたり折れたり曲がったりしている色味の乏しい草々の中で、その一輪だけが華奢な茎がまっすぐ上へ伸ばし佇んでいるのを見て、何かに似ている気がするなぁ、とぼんやりとした考えが浮かぶ。
はて、なんだったかと思いを巡らせていると、遠くの茜空でカラスが鳴き、ハッと我に返った。
結局わからずじまいのまま、その日は帰路につく。
 次の日。
実をいうと、学校で古典の授業を受けているそのときまではそんなこと綺麗さっぱり忘れ去っていた。
丁度午後一の授業だ。腹は適度に膨れた状態で、古めかしい言葉を子守唄のような調べで詠われれば、子供達は眠りの世界へ誘われる。
多くのクラスメイトと同様、もうつらうつらしてしまっているところだった。
なんとか意識を保とうと重い頭を持ち上げると、教室の真ん中あたりでまっすぐ伸びた背中が偶然視界に入る。
周りが傾いだり突っ伏したりしている中、その背中だけが異様に美しいIのライン。
 ——ああ、これだ。
 の脳裏に昨日空き地で見つけたコスモスがくっきりと蘇える。
 そうか、あのコスモスは柳に似ていたんだ。

 たぶん、これが柳を意識したきっかけだったと思う。


 日常に埋もれそうな些細なそのきっかけから七年もの月日が流れていた。
七年とはいつぞやか話題になった探査機が地球から打ち上げられ、約三億キロメートルも離れた小惑星の岩や砂を取って再び地球に帰ってきた年月と同じである。
それが果たして長いのか、短いのか。
自分の恋を宇宙規模で換算したところで、自分の存在がさらにちっぽけな気がしてくるだけなので、ここでやめておく。

「じゃあなんでまだ好きなわけ? 付き合えねぇやつのことなんかずっと想ってる意味って何?」

 先日の誕生日に丸井に言われた容赦ない言葉がの頭にリフレインした。
苦々しく思っていたところでちょうどその丸井から、〈花見行こうぜ!〉と気楽な連絡が入った。
腹立たしさからその誘いを断ろうとも考えただが、地元を独り離れた寂しさは未だ大きく、〈イエス〉の返事を速攻で送ってしまった次第である。

 それぞれ適当に持ち寄り現地集合ということで、は買い出しをするためにお花見をする予定の公園の最寄り駅に早めに着いていた。
どうせ彼奴らは質より量派だ。駅前のスーパーで安いお惣菜を適当に見繕って会計をする。
ちょうどそこでお酒を選んでいる赤也とバッタリ会い、公園まで赤也の自転車の後ろに乗せてもらうことにした。というか、無理矢理乗った。

先輩重い」
「なんか言った? 重いのはこの大量のお酒のせいでしょ! いくらなんでも買いすぎでしょ、これ」

 赤也が漕ぐ自転車の後ろで呑気にアイスをかじりながらしゃべる。
もう外でアイスが食べられるくらいの陽気にはすでに浮かれていた。
春っていいな、桜っていいな、暖かいってサイコー! 地元サイコー!
久しぶりに帰ってきた地元にも浮かれていた。
 強い風が吹いて、どこからともなく花びらを運んでくる。
周りを見ると道路の淵が薄紅色で埋もれていた。
 今日は一段と風が強い。きっと桜も今週がピークだろう。
 宙を舞う花びらを捕まえて、フーッと吹き散らせば、幸せがそのまま広がっていくような気さえした。

「つーか、むしろこれでも足りないって怒られそう」
「えー! どんだけ呑む気なの?」
「いやなんか部長が今日は副部長潰すってはしゃいでたから」

 そこで「え」と大声を出したと同時に公園の入口が見えて、こちらに手を振ってる人物を——一人、二人、三人、四人、確認した。
てっきり今日のメンバーはいつも通り丸井と仁王と赤也と自分だけだと思っていたは固まる。
慌てて自転車から飛び降り、持っていた食べかけの棒アイスを後ろ手に隠しながら、赤也を自転車ごと引き止めた。

「ちょ、ちょ、ちょ! 聞いてない! 聞いてない!」
「何がっスか?」
「だ、だ、だ、だって、や、ややや柳がいるよ!」
「ああ、俺が誘ったんっス!」
「なんで!」
「え、大勢の方がいいかな? って!」
「馬鹿!」
「イテッ!」

 目と鼻の先なのになかなか到着しないたちにしびれを切らしたらしい丸井が「お前ら何やってんだよっ!」と大股でこちらにやってきて、嫌がるを力づくで引きずりながら公園の入口——幸村、真田、そして柳がいるところまで連れて行く。
は相変わらずだなぁ」と笑う幸村をよそには丸井の後ろに思わず隠れた。意味がないとわかっているけど、何かを盾にしないと今この場に立っていられそうにない。
しかし、上着にしがみつかれて邪魔でしかない丸井は「お前、いい加減にしろぃ!」とすぐにを振り払い、頭を一発叩たく。

「痛いし、酷い! なんでそうやってひとのことすぐ打つの!」
「いや、先輩もさっき俺のこと殴ったじゃん」
「赤也はいいの!」
「なんでっスか!」
「お前ら、うっせぇな! 早く行くぞ! 俺は今、死ぬほど腹が減ってて機嫌悪いんだよっ!」

 の抵抗も虚しく丸井を先頭に公園へ入る一同。
それでもこの状況に納得いかないは最後尾の赤也に「ねぇ、ほんとにヤダ、ほんと無理!」と半泣きで縋る。

「えー! 先輩喜ぶかと思ったのに」
「う、嬉しいけど! こ、こ、心とかその他もろもろ準備ってもんが……」

 もっと可愛い服着てくればよかった、よりにもよってジーパンにスニーカーって……とか、お惣菜だってスーパーで買ったりしないできちんと手作りすればよかったとか、久しぶりがアイスかじりながらの登場ってどうなの? とか、すでに覆せない失態の数々がの頭を占拠していた。
それらとが闘っていると、「てゆーか、仁王先輩から聞いてなかったんスか?」と赤也が訝しむ。

「柳さんたちが来ること、先輩には仁王先輩が連絡するって言ってたんスけど」

 あ、の、や、ろ、う!

 の表情で赤也も察したのだろう。「まぁ、仁王先輩っスもんねぇ」というなんのフォローにもならない言葉を吐いて、公園へ入って行ってしまった。
ひとり入口で残され寂しくなり、結局もみんなの後を追って公園に入るしかなかった。


 公園の中ほどでジャッカルが青いレジャーシートを広げてこちらに手を振っている。
なるほど。丸井に場所取りさせられてたらしい。相変わらず可哀想なジャッカルだ。どんまい。
 大量のアルコールと申し訳ない程度のつまみを広げてる途中、丸井が鼻息を荒くして待ちきれないとばかりに乾杯の号令をかけた。
相変わらず柳のことはまともに見られないは、とりあえずここは呑むしかないと手持ちの缶チューハイを一気にあおる。となりに座る赤也が「おぉ」と感嘆とも呆れともとれる声を上げた。
酔わなければとてもじゃないがここにいられないはそんなこといちいち気にしてられない。
逆に酔ってしまえば、どうにかなる気がしたので、早々に二本目に手を伸ばした。
 盛り上がる宴の最中、は離れた向かいに座る柳を盗み見る。
柳は似合わない缶ビールを片手にとなりの幸村たちと談笑していた。
こんなときでも背筋が伸びていて、凛としていて、穏やかで、知的で、優雅で、もはやその神々しさは仏のようだ。あぁ、あぁ、あぁ、もうすでに軽く酔ってきていた。
 そんな風にうっとりと柳を見惚れていたの首筋に突然冷たい何かが押し当てられ、「ひゃあ!」と我に返る。
ヌっと背後から姿を現したのは、冷えた缶ビールを飲みながら重役出勤してきた仁王だ。
仁王がこういう集まりのとき遅れるのはいつものことなので、「やっと来たのかよ!」「道に迷ってのう」「んなわけあるかっ!」と丸井が食いつく以外他に特に反応はなかった。
真田あたりが怒ってもよさそうだが、幸村に初っ端から日本酒を盛られてそれどころではなさそうだ。

「仁王君、私に何か謝ることはないですか?」
「え、なんで突然の柳生先輩モノマネ? つか、先輩、一ミリも似てねぇ!」
「そういえばヒロシは?」
「ヒロくんは今日妹のピアノの発表会でビデオ係なんじゃと」
「いいお兄ちゃんだねぇ……って、仁王誤魔化さないで」
「いいお兄ちゃんっつか、それただのシスコンだろぃ? あ、赤也そこの裂きイカ取って」
「なんじゃ、この間お前さんの家にあった幻の大吟醸勝手に開けたんまだ怒っとんのか」
「違う! てゆーか、なにそれ。初耳! どういうこと!」
「あぁあ、自分でゲロッてやんの。オラ、早く取れよ」
「丸井先輩、痛い!」
「プリッ」

 やいのやいの会話を交わすのは結局このメンツだ。
やっと緊張がほぐれてきた。
お酒の力とノリと勢いで、はどうにかいつもの自分を取り戻しつつあった。


◇◆◇


「今日はこれからどうするんだ」

 斜め前を歩く柳の声が緩い風に乗って桜の花びらとともに届く。

「あ、うん。もう終電ないから丸井たちとボウリングとかカラオケとかかな」
「相変わらずお前たちは仲がいいな」
「仲がいいっていうか、もはやただの腐れ縁っていうか……」
「今でも頻繁に会っているんだろう?」
「頻繁って言っても月一程度だよ」

 未だかつてこんなに柳と言葉を交わしたことがあっただろうか。
案外スムーズに進む会話に嬉しくなると同時に切なさが込み上げてくる。
 こんなことならもっと早く話しかけていればよかった。
もっと、もっと、たくさん、こうして話していれば——
そうしていれば、叶った恋だと思ってはいない。
 それでもこの恋を本気で叶えたかったのなら、きっと背中を遠くから黙って見つめていること以外他にもっとできることがあったはずだとは思う。
後悔が津波のように押し寄せて容赦なく不甲斐ない自分を呑み込んでいく。
酒に酔って感情の箍が脆くなっているのだろう。
だが、不思議とこの状況を俯瞰して冷静に見つめている自分もいた。
 熱くなった心と、冷えた頭。
素直に恋に夢中になれない自分が可愛くなくて大嫌いだ。
 歩きにくい河原の土手道のせいか、はたまた単純に酒に酔っているせいか、は足元を見誤ってしまった。
前を向いていたはずの柳はしかし素早くそれに気づき、に手を貸してくれる。
 触れた手にはどうしたって熱が宿った。

「大丈夫か?」
「あ、うん、大丈夫」

 手を離して「ありがとう」と俯きかげんで小さく付け加えると、柳が頭上でふわりと優しく微笑んだ気配がした。
遠慮がちに顔を上げるとやはりその通りの表情が今の情けない自分を見下ろしていたので、は居たたまれなくなり必死に言葉を探す。

「あ、そうだ! この間! 誕生日のお祝いの、メッセージありがとう!」となんとか続ければ、「ああ」と思い返すような柔らかな返事が返ってきた。

「そうだったな。直接祝えなくてすまなかった」
「そ、んな! 充分! いや? 充分って言い方は失礼だよね。大丈夫。ほら、ビデオだったら何度も観られるし! あ、その……」

 もう少し歩けるか? と柳が重ねた。
はまごつく口を噤んで、勢いのまま二度ほど頷いて応える。
 なだらかな土手道を登りきり、拓けた場所に出た。
すでに賑わう桜並木は後手で、人影もなく、灯りもない。
遠くまで来たものだ。たかだが十数分の散歩で、そんな気にさえなるくらい今の自分にはここが日常から離れた場所に思えた。

「学校は変わりないか?」
「え、あ、うん」
「課題前に無理をしたりは?」
「大丈夫! 三徹くらいなら平気でできるようになった!」
「それは……まぁいいが、しかし心配だな。お前には前科がある」
「へ?」
「高二の県大会、決勝。試合観戦後、応援席で倒れただろう」

 え、と声にして狼狽えた。
絶対に、絶対に、柳には言わないでほしいとあんなに口止めしていたのに。丸井たちはあっさりその約束を破っていたらしい。
 公式戦には欠かさず応援に行っていた。
その他大勢に埋もれようがお構いなしに、喉が枯れるまで声援を飛ばし、その勝利をひたすらに祈る。
あの頃、自分が柳のためにできることと言えばそれくらいしか思いつかなかったからだ。

「ずっと」

 それから間を置いて「礼を言いたかった」と柳は静かに続け、の方へと向きなおった。
こんな至近距離で見つめられたら、どうしたって心臓はあの頃と同じように鼓動を早くする。
やめてほしい。こんなこと。でも、自分からは絶対にやめてとは言えそうにない。
は押し黙るしかなかった。
 しかし、礼とはいったいなんのころだろう。ずっとテニス部の応援に行っていたことを言ってくれているのなら、あの頃テニス部はそれこそ学校を挙げて応援されていたのだから、以外にも熱心に応援していた生徒は少なくなかったはずだ。

「俺自身のことだけではなく、俺のテニスも大事にしてくれたことが嬉しかった」

 柳はどうしてかの心内の疑問に的確に答えた。
 そして——

。俺はお前が好きだ」

 一段と強い風が吹いて、の髪が乱れた。
それをいつの間にかさらに距離を詰めていた柳が手櫛で梳かす。

 ずっと報われたいって思ってたけど、そして報われなかったけど、報われないからといって諦めるということにはどうしてもならなかった恋だった。
 いつまで想っているんだ。
その答えを自身が一番知りたかった。
 いつまで想っていれば、自分はこの恋に飽きるのだろうか。
いっその事、柳が他に恋人を作ってくれれば、なんて考えたこともある。
恋に夢中になりきれないくせに、雑に扱うこともできず、いつまでもいじましく縋っていただけ。
 なのに、こんなの——

「夢みたい——とお前は言う」
「えっ!」
「俺のデータもなかなかのものだろう?」

 柳がフッと吐息で笑う。

「なにも七年の間、お前ばかりが俺を見ていたというわけではないということだ」

 今起こっていることがまだ信じられなくて、「夢じゃないの?」と言ったに、「夢でもいいのか?」と柳が意地悪く返した。

「っな、ぎ、……私も、すき、です」
「ああ、知っている。もう随分前からな。待たせて悪かった。待っていてくれてありがとう」

 堪えていた涙がの瞳から溢れ出し、柳のシャツに染み込まれていく。
「汚れちゃう」と慌てて離れようとしたを柳は「構わない」と胸の中に閉じ込めた。
 の恋ははじめて春を迎えた。