夜風に当たりすぎたのかもしれない。
はくしゅんっ、と大きなくしゃみをして身震いをした。
 仁王と深夜、バイクで地元・藤沢まで行き朝日を拝んで帰ってきたのはつい数時間前。
四月の夜は春と呼ぶにはまだ寒々しく、うっかり薄手の服でそのまま外に出たのがいけなかった。
浜辺に着いてからは仁王が上着を貸してくれたから良かったものの、それでもやはり肌寒いことには変わらない。
は自分の二の腕を撫りながら、仁王も風邪など引いたりしていないだろうかと案じながら、鼻をすすった。

 運悪く風邪薬は切らしていたが、幸い今日は必修科目はないし、アルバイトも休みだ。
一日寝てれば良くなるだろう。
と、いう考えが甘かったことをは思い知る。
今日一日中寝ていたが、一向に良くなる気配はなく、むしろ夜になるにつれて熱も高くなってきたような気がする。
気がする、というのは実際に測っていないからだ。
薬箱には風邪薬もなければ、体温計すら入っていなかった。
そういえば、風邪をひくのは一人暮らしをしてからはじめてだ。
どうりで薬や体温計がなくても今まで気づかなかったわけだ、とひとり納得してから項垂れた。
 日中これでもかと眠ったせいで、夜になっても眠たくなかったが、如何せん身体がダルくてベッドから起き上がれない。
薄暗い天井を見つめていても心細さが募るだけなので、なんとか気を紛らわそうと丸一日ぶりに携帯に手を伸ばし、そこではじめて柳からの着信に気づいたは大いに慌てた。
着信の時刻は昨夜午後十一時過ぎ。ちょうど仁王と首都高をバイクで突っ走ってる頃だ。
何か急用だったのだろうか。しかし、着信は一度きり。
柳が用もなく電話をかけてくるとは思えない。
用件にまったく心当たりのないは具合が悪いことも相まってか、次々と浮かぶ悪い想像に襲われた。

 ——イメージしていた人物像と違った
 ——お前といても有意義な時間は過ごせそうにない

 心配りのできる柳がそんな直接的な言葉を吐くとは思えないが、心の中でなら思っているかもしれない。

 ——もう別れてくれないか

 の頭の中の柳が冷たく言い放つ。
 はこの七年間で培った自分の妄想力を恨まずにいられなかった。

 それから二日経ち、三日経ち、週末になる。
はなんとか体調を回復させていた。
万全とまではいかないが、もう授業にも出ていたし、今日はアルバイトだ。
 のアルバイト先は街の商店街にある小さな書店である。
連絡は入れたとはいえ二日もシフトに穴を開けてしまっていたので、は店につくなり店長に頭を下げた。

「なぁに大丈夫。変わらず閑古鳥だ。それに具合が悪くちゃしょうがない。無理しちゃいかんよ。風邪で命を落とすひともいるからね」

 店長の優しさには今日も頑張って働いて報いろうと思う。
しかし、店長の言う通り今日も哀しいかな閑古鳥が鳴いていた。
はレジで店番をしつつ、検品をしたり、返本の作業に勤しんでいたが、あまりにも作業に没頭しすぎていたせいでレジに人が立っていることに気づくのが遅れてしまった。
「——すまないが」と声をかけられ始めて客の存在に気づき、「ハイ!」と慌てて顔を上げると、は唖然と固まった。

「会計を頼む」

 そう言って普通の客の顔で柳はに本を手渡した。
も驚きつつも、なんとか普通の書店員としての仕事を果たすべくぎこちなくレジを打ちはじめる。

「カ、カバーはおかけしますか?」
「いや、結構だ」
「合計で二千七百十二円です」

 柳から代金を受け取り、本をビニル袋に入れて差し出す。
「ありがとうございました」と頭を下げようとしたところで、柳がただの客ではない顔で「今日は何時に終わる?」と尋ねてきた。

「あ、え、っと、今日は十八時まで、だけど……」
「そうか。なら、終わるまで待とう。問題ないか?」
「え、でも、まだあと三時間以上もあるよ?」
「構わない。時間を潰すためのものなら今買った」

 柳はの返事を聞く前に駅の方へと消えてしまった。
 あの日の着信をは未だ返せていなかった。 時間を空けずにサラリと返してしまえば良かったものの、ズルズルと先伸ばしにして到頭今だ。
さっきの様子を察するに柳は特段変わった様子はなかったが、あの柳が事前になんの連絡もなしに、遠く離れた自分の住む街までふらりと寄るようには思えない。
やはり何か明確な用件があるのだろう。

 ——もう別れてくれないか

 頭の中の柳の声がより鮮明に響く。
もう逃げ道がないことを悟り、はひとり堪らなくなった。



「なんのお構いもできませんが……」

 アルバイトが終わり、は柳を一人暮らしの部屋に始めて招く。
柳がこの部屋に来ることは今日が最初で最後だろう。挽回のチャンスがないのならばもっと片付けておけば良かったと思ってももう遅い。
先に部屋に上がり、なんとか目につく物だけでも大雑把に片付けた。
フられるとしても少しでも印象良く残っていたい——そう願うことくらい赦してほしいとは思う。

「風邪をひいていたのか?」
「っえ?」

 ズバリ言い当てられて驚くが、柳の目線の先に買ったばかりの風邪薬とグラスが出しっ放しなのを発見して納得がいく。

「あ、うん。でも、もう大丈夫だよ!」

 はことさら明るく笑うが、柳は渋い顔をしたままだ。
自己管理能力の甘い奴だと思われただろうか。柳の一挙一動には怯える。

「何故俺に言わなかった」
「ただの風邪だよ……?」

 柳に大きな溜息をつかれ、はいよいよ俯くしかなかった。
いらぬ心配をかけたくなかった。そんなわことで煩わせたくなかった。
——というのは建前で、「来てほしい」と助けを求めて断られたらとき、自分が傷つかないための予防線だった。

「四日前の夜。何をしていた?」

 は咄嗟に答えられず、眉間にしわを寄せた。
 四日……前……??
「あっ!」と声が出たと同時に、部屋の長押にかかる借りたままになっていた仁王の上着に目がいった。
柳も同じものを見つめているのがわかり、はハッとする。
連絡のつかぬ恋人。一人暮らしの女の部屋に男物の上着。これがどんな意味を持つか。
は血の気が引いた。

「っ違う! 違うの! コレ、仁王のだよ! ちょっと落ち込むことがあって、そしたら仁王が気分転換にって外に連れてってくれて、それで——」

 ただそれだけだ。どこぞの知らぬ輩のものじゃない。柳もよく知っている仁王のものだ。
長年の想いが叶ったばかりに、まさか浮気なんてするはずもない。
が必死にそう説明している間も、柳の表情は固く冷たいままだ。
もう答えは覆らない。そう無言で言っているようにには見えた。
 は口を閉じた。そして、必死に考える。
自分の何がいけなかったのか。どこで躓いたのか。
深夜出歩いてたことがいけなかったのか。着信を返さなかったことがいけなかったのか。アルバイトを優先したのがいけなかったのか。風邪を引いたことがいけなかったのか。そもそも、自分なんかが柳を好きになったこと自体がいけなかったのか。
ごちゃごちゃと混線する記憶を引っ掻きまわして原因を探すも決定打は見つからない。
 やっと。やっと叶った恋だったのに。
「信じて……」と力なく呟いたの声は涙とともにフローリングの床に落ちた。

「……信じている。しかし、それすら許せないと言ったらお前はどうする?」

 柳の言葉の意味がわからず、は不安げに首を傾げて柳を窺う。
柳の表情もまた苦々しげに歪んだ。
歪んだ理由がにはわからない。

「たとえ友人関係であっても、恋人が自分以外の男に心を許しているという事実が不愉快でならないんだ」

 がなにか言い出す前に「今日はもう帰ろう。頭を冷やす」と柳はすぐさに脱ぎかけていた上着を羽織り直し、に背を向けた。
柳の真っ直ぐなIラインを描く背中が遠ざかっていく。
 にとって柳はずっと手の届かない遠い存在だった。
誰からも敬われ、頼りにされ、それに応えるだけの知識と優しさを持ったひと。
は心のどこかで未だ自分とは違う人間だと線引きをしていた。

「柳だってお前と同じかもしれねぇって話」

 は丸井の言葉の意味を改めて考える。
新しい関係に不安を抱いていたのは自分だけではなかったのかもしれない。
自分の何がいけなかったのか。
その問いの答えは、自分の気持ちに精一杯になりすぎて、相手のことを見ているようで見ていなかったことに違いない。
自分が柳の立場なら自分の行動をどう思うかなんて考えもしなかった。

「たとえ友人関係であっても、恋人が自分以外の男に心を許しているという事実が不愉快でならないんだ」

 柳の言葉がの走らせた。裸足のまま玄関を飛び出る。
 だって想いは同じだ。自分以外の女の子となんて一緒にいてほしくない。
それは柳のことが好きだからだ。

「もうしない! 柳以外の男のひととふたりっきりでなんか絶対に会ったりなんかしない!」

 だから、——

「嫌いにならないで……」

 は柳の背中にしがみついた。
 どうか間に合って、と心の中で必死に祈りながら、決して腕の力を緩めなかった。

「……嫌いになどなるわけがないだろう」

 柳はの手を自分の身体から剥がし、その手を取ったままゆっくりと向き直った。

「お前のほうこそ、こんな女々しいことを言う俺に幻滅したんじゃないのか?」

 はすぐさま首を横に振ってそれを否定する。
柳がそっと息を吐くのがわかった。

「……怖かったんだ。情けないことを言って、お前の理想の俺ではなくなることが」

 怖かったんだ。柳はそう呟いてを抱きめた。
抱擁は二回目だ。一度目はあの桜舞う夜での夢のようなひととき。
あのときの柳はまだ半分の夢の中の柳だった。
でも今を抱きしめている柳は違う。
怒ったり、泣いたり、拗ねたり、怯えたり。自分と同じように負の感情も持ち合わせている普通の男のひとだ。
 一件落着。と、息を吐きたいところだが、二人怖がったままでは何も変わらないことには気づく。ずっとこのまま勝手がわからず霧の中で彷徨ったままなんて御免だ。
怖いのはお互いさま。ならば、勇気を振り絞って次の一歩は自分が踏み出そう。
はごくんっと喉鳴らして覚悟を決めた。

「柳、今日このあとの予定は……?」
「特にないが」
「あの、だったら、もしよかったらなんだけど、……」

 泊まっていきませんか?
 羞恥心で顔から火が出そうになりながら一息で言い切った。
恐る恐る柳を窺えば、愛おしそうに自分を見つめる視線が篤い。
の胸はきゅんと縮こまった。
「それは誘ってるととらえていいのか?」と囁かれ、は素直に頷いた。
 そして、ふたりは見つめあって始めてのキスを交わす。



 そう呼んでもいいか、と訊ねられ、は嬉しくて何度も頷いた。
「ずっと俺もそう呼びたかったんだ」と柳はの身体を軽々と抱き上げた。
そういえば、は素足のままだった。
はこれから自分がどこに運ばれるのかを妄想しながら、柳の首にしっかりと抱きついた。