の好意に気づくのは柳にとって造作もないことだった。
 だから、当初が丸井や仁王、ましてや後輩である赤也とまで親しくしているのを見たときは、自分に近づくための算段かと勘ぐったが、さすがにそれは自惚れだったらしい。
は柳のこととは別にして、彼ら三人と親睦を深めているようだ。
ときより校内で見かける彼らと一緒にいるは随分楽しそうな表情で笑っていた。

「どうかしたか? 蓮二」

 案ずるようにではなく、問いただすような真田の視線が柳を鋭く射す。

「——いや。問題ない」
「お前が惚けているとは珍しいな」
「ああ、すまなかった」
「しっかりしろ。お前がそのようでは皆に示しがつかん」

 窓ガラス越しの日差しすら不快なほどの気候になってきた。もうすぐ夏だ。
しかし、立海テニス部部長幸村精市は不在のまま。
 自分たちが掲げた“常勝”の掟が柳の肩にも重くのしかかっている。
その重みを分かち合う仲間はいるはずなのに、個人の負担は変わらず、日毎に重みは増すがかりだ。
 焼け焦げるような日差しに柳は目眩を覚えた。元来、柳は強い日差しが苦手なのだ。
 ——構っている暇などない。
このときの柳にとって、テニス以外のあらゆることが煩わしいことであり、特に恋愛事なんぞ否応無しに排除すべき対象だった。



「蓮二って丸井のこと好きなの?」
「……なんだ、藪から棒に」

 昼休み、大学のカフェテラスで幸村と真田と柳がテニス部の夏合宿の打ち合わせをしていると、そろそろ真面目な話し合いにも飽きたとばかりに幸村が柳に話題を振った。

「だって丸井が通るとよく目で追ってるよ。あ、丸井じゃなかったら仁王かな?」

 ちょうどカフェテラスの前のオープンスペースを丸井と仁王が横切った。
二人は柳たちには気づかず、通り過ぎていく。
ベストタイミングで予鈴が鳴り、午後の授業へ向かうべく柳と幸村が腰を上げる横で、先ほどから妙に口数の少なかった真田が意を決したように勢いよく立ち上がった。

「お、俺は、その、偏見などないから案ずるな!」

 幸村は腹を抱えて笑いだし、柳は溜息を吐く。
真田にいちいち弁明するのも面倒だったので、「有難う」の言葉で終わらせた。
となりでまだヒーヒー笑っている幸村だけは柳が横目で諌めても効果はなかったが。

 柳が目で追っている者は、丸井でもなければ仁王でもない。そんなこと聡い幸村がわからないはずはない。
他人の色恋に茶々をいれたくなるほど、今の彼は暇を持て余しながらも青春を謳歌しているのだろう。
傍迷惑な話ではあるが、柳は純粋に喜ばしくもあった。
幸村はああ見えて悪戯やちょっかいが好きな子供じみた性分を持ち合わせている。
責を果たした彼が、束の間本来の自分を取り戻したところでお目こぼしだ。
 ただ、そういった一面とは別に、自責の念が彼を動かしているのではないかとも推測していた。
自分が病に倒れたことで仲間に背負わせた重みを幸村は生涯忘れることはないのだろう。
普段はそうとは振舞わなくとも、中学三年生のあの夏を境に幸村は部活には直接支障の出ないようなプライベートな案件に対しても必要とあらば介入するようになった。
ときに茶化し、煽り、けしかけ、焚きつける。けれど振り向けば優しい顔で見守っている。
それが我らが部長・幸村精市だ。
 常勝を掲げて敗北した夏。
今度こそ三連覇をと改めて誓い直した夏。
そして、それを見事果たした夏。
あれから四度の夏が過ぎていた。
 の瞳が変わらず自分を映していることを柳はちゃんと知っている。
バレンタイン、誕生日、その他の類でから贈り物をもらったことはない。
けれど、試合会場には必ずの姿があった。
立海テニス部は学校の中でもその成績が認められ、常に応援スタンドは賑やかなものだったが、応援部や吹奏楽部でもない一個人の生徒がすべての試合に応援に来ているなんぞそうそうあることではない。
柳のテニスへの思いを汲むように、三歩も四歩も退いたその場所で思いの丈を込めるように一途に声援を送り続けた
気がつけば、無意識に柳もその姿をスタンドに探すようになっていた。
 が付属の大学ではなく、県を超えた遠方の大学を志望していることを柳が知ったのは高校三年の秋だった。
なんでもには子供の頃からの夢があり、それを叶えるためにより専門的な学部のある大学を選んだらしい。
一人暮らしを渋る親をなんとか説き伏せて、現在は目下受験勉強中であり、「だから、最近付き合い悪ぃんだよな」と丸井がぼやいていたのを柳は偶然耳にした。
 今度は自分が見守る番だ、と柳は思った。
がそうしてくれたように。
報いたい、という想いは柳の胸の内に自然に涌いた感情だった。
 しかし、そうして見守っているうちに、今度は機を逃す。
彼女は見事第一志望に合格して、慣れ親しんだ海辺の街からひとり先に旅立っていってしまった。
 恋は生物。鮮度が命。
熟れすぎた果実は地に落ち朽ちるまで。
過ぎたことを悔やんでも仕方なしと思うのに、丸井や仁王を見つけては未練がましくその空いたとなりに幻影を見る。
 なにか変わりはないだろうか、また無茶をして体調を崩してはいないだろうか、住み慣れた街から独り離れ心細い思いをしてはいないだろうか。
時折丸井たちから耳に入るの消息に柳は影でほっと胸を撫で下ろしていた。

〈自分の進路のため単身遠方の大学に身を置いていること、尊敬している。きっとならば夢を叶えるだろう。その確率——おっとやめておこう。有意義な誕生日がおくれていること祈っている〉

 の二十歳を祝うために送った言葉に嘘偽りはない。
柳はを尊敬していた。
自分の想いを秘めることのできる奥ゆかしさも、夢のために自分で道を切り拓き歩める強さも、柳は彼女のどちらの面にも惹かれていた。
 花見の席で、久しぶりに目にした彼女はあの頃より少し髪が伸び、薄化粧も相まってか、随分大人びたように柳の目には映る。
 恥ずかしそうに伏せられた瞳にあの頃と変わらぬ熱を感じ取った柳は、自分の胸の内にも同じものがあることを今度こそ伝えるべきときが来たことを確信した。
真田に日本酒を注ぐ合間に幸村に肘で突かれ促されたからではない。
これはあくまでも自分の意志だ、と柳は主張したかったが、さすがに大人げないのでやめておいた。
 土手を上りきったその先で、明後日の方向へ進もうとしている揺れた背中が確認できた。
生暖かい風が吹き、薄闇の中、淡い紅色の花弁が彼女の元まで届く。彼女はそれを心地良さそうな表情で受け入れていた。
 この幻想的な風景で語る物語は始まりの終わりになるであろう。
そうなればいいと願いながら、柳はのもとへ向かった。


◇◆◇


 から今週末の予定の連絡が入る。
土曜日は臨時で授業が入ってしまったことと、日曜日のアルバイトはやはり休めなかったという報告だった。
のメッセージはいつも要点がはっきりとしていて読みやすい。
相手に返信の負担をかけないように充分に配慮されていることがみてとれる文面だ。
ただ、恋人同士が心を通わすやりとりにしてはいささか色気がなさすぎる、と柳は感じていた。
が柳に対して遠慮していることは明白だった。
 目を閉じて、柳は自分といるときのの笑顔を思い浮かべてみる。
そして、今度はそれを丸井たちといるときのものと比較してみる。
どちらが心からのものか。
そんなことを思っては、ひとり憂いを肺から吐き出す日々だ。
 想いを伝えれば、それですべて上手くいくと思っていた浅はかな自分に呆れる。
 とりあえず、今週末は会えないことが確定した。
ならば、平日の少ない時間をどうにか割いてでもに会いに行こうかとも考えたが、彼女はそもそも授業やアルバイトで忙しいのだ。
それに片道二時間弱かけて柳が自分に会いに来たとわかれば、は喜ぶより先に申し訳なさで恐縮してしまうだろう。
物理的な距離以上に心理的な距離がもどかしい。

 赤也のトレーの上にはハンバーガーが五つも乗っていた。
「久しぶりに一緒に昼でもどうだ?」と柳が赤也を誘ったのは今日の昼のこと。
それに「いいっスね! 俺、今日ハンバーガーの気分!」と赤也は二つ返事だった。

「最近も相変わらずか」

 柳の問いに「何がっスか?」と赤也は顔を上げる。
自分の思惑を悟られないように選んだ相手だが、それがあまりにもだと話が進まない。
それとなく自分の知りたい事柄だけをどう聞き出すか、柳がじっと黙って思案していると、赤也は「あ、そういえば先輩と付き合い出したってマジっスか!」と興味津々の表情を隠すことなく柳に向けた。

「ああ」
「あの花見のときに?」
「そうだ」
「スゲー! しつこく想い続けてれば、叶うもんもあるんスね」

 それはどちらに対しての感想だ、と柳は苦く笑った。
しつこく想い続けていたのは自分も同じだと自覚はあるのだ。

先輩、マジで柳さんのことずっと好きだったんスよ」
「知ってる」
「あ、なんだ、知ってたんスか。え、じゃあなんで今更?」
「今更だと思ったからだ」

 今更、といじけた心がるのは、未だ自分がを想っているなによりの証拠だと柳は思った。
「意味わかんねぇ」と叫ぶ赤也に紙ナプキンを手渡してやる。
口の脇にはハンバーガーの照り焼きソースがベッタリと付いていた。

「お前らは卒業してからも頻繁に会っていたんだろう」

 赤也はソースを拭きながら「まぁ、月一くらいっスかね? ああでも、先輩たちはもっと会ってんのかも」と答えた。
「相変わらず仲が良いな」と柳が静かに溢せば、赤也はもぐもぐと口いっぱいにハンバーガーを頬張りながら、「柳さんでも嫉妬とかするんスね」と何の気なしに感心したような声を出した。
配慮のない率直な意見は柳の核心を的確に突いていた。

 迷った柳は結局のアパートの前まで来ていた。
事前に連絡は入れていない。それが吉と出るか凶と出るか、確率計算をしたところで靄はきっと晴れはしない。
 時刻は午後十一時過ぎ。部屋に電気が点いていないことを柳は不審に思った。
アルバイトがあったとしてもいつもなら帰宅している時刻だろうし、宵っ張りの彼女が就寝するにはまだ早すぎる。
呼び鈴を鳴らしても応答はなかった。
携帯に電話もかけてみたが、それにも出ない。
不吉な憶測が柳の頭に次々と浮かぶ。
このまま部屋の前でいくらか待とうか。がしかし、——それは非効率的だと判断した柳は独り静かに踵を返した。
 帰り道、思い出すのはの横顔だ。
学校の廊下で笑ってる彼女のそばにはいつだって自分ではない男たちがいた。
自分はいつまでそんな光景を見せられなくてはならないんだろうか。
いつになれば、彼女は自分の元へ駆けよって来て、心からの笑みを向けてくれるのか。
ひとりで想っていた頃よりも今が苦しいのは、醜く歪む心が正当性を手に入れてしまったからだ。
彼女はもう自分のものだ、と主張して引き下がらない己の内から産まれた怪物とこれから対峙し続けねばならぬのかと思うと途方も無い。
柳に唯一残されてる闘う術は、想いを伝えたときに見たの嬉し泣きをする顔を思い出して彼女の想いを信じ抜くことくらいだ。
 立ち止まった柳は足元の己の影を睨んだ。
睨んだところで影は消えるはずもなく、恐ろしい怪物のように柳にベタリと張り付いて動かなかった。