四月はどうしたって慌ただしい。
白石がデザイン部に来られる時間ができたのは昼をゆうに過ぎた頃だった。
白石が足早に廊下を歩いていると、黒いジャンパーを着たバイク便の配達員とすれ違う。派手な金髪だ。
ハッとして振り返って互いの名前を呼んだのは同時だった。

「謙也!」
「白石!」

 おおお! と男二人で声をあげて盛り上がったところで先に我に帰ったのは謙也だ。

「すまん白石! 俺今めっちゃ急いどんねん! せやからまたあとで連絡するわ! あ、お前連絡先変わってへんよな?」

 白石が返答するより前に謙也はすでに下りのエレベーターに身体を滑りこませているところだった。
相変わらずのせっかちに白石は苦笑しなら閉まりはじめたエレベーターに向かって手を振って謙也を見送った。
 白石と謙也は高校の同級生だった。
同じテニス部で汗を流し、三年生のときには同じクラスだ。
けれど、白石はその後東京の大学へ進学し、謙也は地元に残ったことで自然と交流は途絶えてしまっていた。
最後に会ったのはおそらく成人式のときだ。まだ誕生日を迎えていなかった謙也が飲みの席で悔しそうにしていたのが懐かしい。
 謙也が医学部を中退したことは風の噂で聞いていたが、その後どういう道を辿ったのかまでは知らなかった。
 高校生の頃、白石にとって謙也は間違いなく一番の友人だった。
遠い昔の記憶の埃を払えば、どうして自分が今まで謙也のことをすっかり忘れてしまっていたのか疑問にすら思えてくるほど、色濃く謙也のことが蘇る。

「どうしたんですか?」

 声をかけられて、白石は思い出の世界から現実の世界へ引き戻された。
 声をかけてきたのはデザイン部から顔を出しただ。
 数ヶ月前に本社から移動してきた中途採用のデザイナーであるは、生粋の東京人といった出で立ちだが話してみると意外にも気さくな性格で、さらにいえばハキハキとものを言うこともできるので、なにかと自己主張の激しい人間の多いここ大阪でもそれなりにうまく溶け込んでいる器用なタイプだ。
デザイナーとしても腕は確かだし、スケジュール管理も曖昧なところがない点で非常に信頼できる——というのが白石のデザイナーに対する現在の印象だ。

「新規の案件取ってきてん」

 白石が当初の目的である報告をするとは「おめでとうございます。あ、これですか?」と白石の手元にある書類を覗き込んだ。

「そやねん。おもちゃメーカーの仕事やねんけど……あ、自分興味あらへん?」
「納期いつですか?」
「来月末」
「あー……じゃあダメですね。私、今三件掛け持ちしてるんですよ」

「残念」とが本当に残念そうに肩を落とした。
その肩に鞄がかかっているのに気づいておや? と思う。

「今から出るとこなん?」
「あ、そうなんです。丸井さんと新規の案件で」
「え、アレ、、自分が担当なん?!」
 
 白石が驚くとが「まぁ」と苦笑いを返した。
「せやけどアレ、、は……」と白石が言いかけたところで再び下りのエレベーターが来て、それに気づいたが「それじゃあ」と頭を下げて白石とすぐそばを通りすぎた。
遅れていつもの香りがする。彼女らしい品のある花の残り香。シャンプーだろうか、香水だろうか。あまりにもいい香りなので、いつか本人にこの香りの正体を尋ねてみようと思っているのだが、その機会はなかなか訪れない。
白石がそんなことを考えているとは気づくはずもなくはエレベーターの中から白石にいつもの笑顔で手を振っていた。



 株式会社スタンドヘヴンは主に広告やそれに伴うイベントを企画提案し実行する——まぁ宣伝に関することならなんでも引受ける間口の広い広告代理店だ。
自社にデザイナーやプログラマーを置くことで徹底した品質管理をしていることがウリだが、制作会社への中間マージンが減る利点もそこには少なからずある。
 本社は東京。とはいってもそれは今現在のことで設立時は湘南にあった。
ここ数年の地道な努力で事業成績を伸ばし、本社を東京に移したのち、大阪支店まで出すことにまでなったのだから、この業界では間違いなく成功しているといえる会社だろう。
 白石は一年間東京の本社で研修を受けたあと、この大阪支店営業部に配属された。かれこれ今年で六年目だ。
 二十九歳。独身。彼女は——ここしばらくナシ。


「お〜! 白石〜!」とこちらへ向かってかなり遠くから駆けてくる謙也はやはり高校生の頃と印象が変わっていない。派手な金髪が健在だからだろうか。
それに比べて地味なスーツを着こなしている自分は程よく老けたように白石は感じた。
 “またあとで”。それは社交辞令ではなく今夜のことになった。
 仕事を終えた金曜の夜。きっと多くの居酒屋が歓迎会で混んでいることだろう。

「どこ行く?」
「俺、謙也が好きそうな店知ってんねん」
「お! ホンマか!」
「安くて美味くて、しかも早い」
「めっちゃ俺向けやん!」
「せやろ?」

 梅田のオフィスビル群を抜け堂島川の手前の裏路地を少し入ったところにある居酒屋『ぎん』。
先日同僚から教えてもらった穴場だ。串カツも牛すじの煮込みももちろんうまいが、裏メニューのたこ焼きが絶品なのだ。
「こんばんは〜二人なんやけど席空いてるか?」と暖簾をくぐれば、座敷から「アラ、クラリ〜ン♡」とよく聞き知った裏声が聞こえてきた。

「おお、小春も来とったんか」
「クラリンもこのお店気に入ってくれたん? 紹介した甲斐あるわ〜♡ って、これまたイケメンのお友達も一緒やないの♡ よかったらこっちで一緒に飲まへん?」

 謙也に目配せすると問題ないという笑顔が返ってきたので小春のいる座敷へ上り込むと、そこにはと同じくデザイン部の一氏、それから技術開発部の財前がテーブルいっぱいのツマミと酒を囲んでいた。
顔を上げたと目があった謙也が同時に「あ!」と漏らし、ワンテンポ遅れて財前も「あ」と呟いた。
「アラ、こっちもお知り合いなん?」と小春が尋ねると、「や、私は……、えっと、今日来てもらったバイク便の……方ですよね?」と自信なさげにが謙也の顔を窺った。

「せやで! 荷物はバッチリ届けたったから安心しいや!」

 謙也とがやりとりしている間に小春が一氏と財前を立たせてのとなりに移動させた。
空いたスペースに白石と謙也が収まるかたちになり、小春は謙也のとなりに座る。
いつの間にか注文されていたビールが二つナイスタイミングでやってきた。

「ほな、今夜の出会いにカンパ〜イ♡」

 ガチーンッとジョッキがぶつかったあと、謙也がいい飲みっぷりで一杯を飲み干し、空いたジョッキ片手に「忍足謙也、浪速スター便のバイク配達員! 今期からここらの担当になったんでよろしゅう!」と先陣を切って挨拶をした。「おお〜!」と主に小春とが拍手を送る。

「ほんで、ヒカルとはどういうご関係?」
「気色悪い聞き方せんといてください」
「お、そやそや、やっぱお前財前やんな! 子供の頃テニスクラブで一緒やったろ!」
「あー……ちょっと記憶にないっスね」
「んなアホな! さっき俺の顔見て『あ』言うたやんけ!」

「あー……それも記憶にないっスね」と言う財前の顔にははっきりと『めんどくさい』と書いてあった。

「にしても世間は狭いなぁ。俺と謙也は高校のときの同級生やねんけど、それが今日会社の廊下で偶然会うてん。ビックリしたわ」
「そやったのね〜。あ、申し遅れました、私クラリンと同じ会社の総務の金色小春よん♡ 最近本社から戻ってきてん。ヨロシクな♡ んで、そっちの目つきの悪いのも同じ会社の一氏ユウジ」

 小春から紹介された一氏は顎を反らせて謙也を上から睨みつけながら「小春に手ぇ出したらシバくで」と凄んだ。謙也はイマイチ理解できていない様子だったが、とりあえず「お、おう」となんとかうなづいていた。
 小春と一氏がなんやかんや痴話喧嘩コントをしている間、が気をきかせて謙也にメニュー表を渡す。謙也のジョッキは空のままだった。
それに気づいた一氏が反対側に置いてあった別のメニュー表で何故かの頭を叩き、「お前はなにやっとんねん」と急にどついた。

「痛い! 何?!」
「なにしれっと小賢しいアピールしとんねん! 必死かアラサー!」
「ただ飲み物がなかったからメニュー渡しただけでしょう!」
「ほんでなんやねん、その不服そうな目は! 二十七は四捨五入アラウンドしたら立派にサーティーやろが!」

 しっかりした印象が強い彼女だが、不思議とそこに年の功という時間の概念は感じなかった。漠然と自分より年下だろうとは思っていたが、二十七歳という実年齢を聞くと違和感がある。
 白石の視線に気づいたが「なんですか?」とムッとした表情をしたので、「あ、ちゃうねん。もう少し下かなっと思っとったから二十七って聞いて意外やなって」と素直に弁明すると、「すみませんね! もう少し若くなくて!」と火に油を注ぐ結果になってしまった。
 それにしても今夜のは表情豊かだ。笑ったり、怒ったり、忙しい。
別に職場で表情が乏しいわけではない。むしろ、仕事に忙殺されて周りがピリピリしているときでも普段と変わらず穏やかな印象がある。精神的に落ち着いているのだろう。
無理をしているようには見えなくてあくまでもそれが自然体に見えたから、きっとプライベートでもそうなんだろうと思っていた白石には少し意外だった。
でも、同時に悪くない、とも思う。

「私だって本当は歳なんてなんでもいいですよ。三十になったその日に突然シミができたり皺がよったするわけじゃないでしょう。どんな年齢も日々の積み重ねじゃないですか。なのに周りは『もうすぐ三十だね』『もう三十だ』って、『どうするの?』って。そういう呪いのかって話ですよ。なんなんですかね。何もせず三十になった女は三十になったとたん死ぬとでも思われてるんですかね」
「デリカシーのない奴ってどこでもおるのよ。気にしないのが一番。にしても誕生日までまだ時間あるやん。その間にちゃんに彼氏できたら、当日はお祝いできひんのかと思うと寂しいわ〜」

「それはないやろ」「ないっスね」と本人より先に否定したのは一氏と財前だ。が目だけで二人に「この野郎」と言っているのがわかる。

「せやけど、ちゃん。大阪来てもうぼちぼちやろ。そろそろ出来てもええ頃やないの?」

「オ・ト・コ♡」と笑って小春がウィンクをした。
が露骨に顔を顰めたが、「最近大阪来たん?」と訊く謙也には「あ、実はそうなんです」とパッといつも会社で見せるような笑顔をつくって答えていた。

「何がなんでも彼氏欲しくないっちゅうわけやないんやろ?」
「まぁ……彼氏は、いたら楽しいかなぁ、程度に」
「お前のその余裕はどっからくんねん」
「いや、余裕があるわけじゃなくて、結婚願望があるわけでもないから、まいっか的な」
「その歳で結婚願望あらへんとか逆に終わってるんちゃいます」

 は「何をどう答えても君たちが私をディスりたいだけってことはよーくわかりました」と作り笑顔を強調した。

「とりあえずー、せっかくこないええ男が揃ってるんやし、恋バナしましょ♡ ちゃんはこの中やったら誰が一番好みなん?」

 小春の問いに一同揃ってに注目する。
 話を振られた等のは「えー……」と漏らし、「あー……」と呟きながら座敷を視線で一周する。
「んー……」と呻きながらもう一周しようとしたところで、一氏が「早よせぇ!」との頭を叩いた。

「なに勿体ぶっとんねん! そもそもお前もう選べる立場とちゃうやろ!」
「選べって言ったくせにこの仕打ち!」

 再び始まりそうな小競り合いを流すように「ほな丸井クンは?」と小春がこの場にいない者の名前を突拍子もなく口にした。は虚をつかれたように「へ? なんで丸井さん?」と目を丸くする。
 丸井は二年前本社から大阪支店へやってきた営業だ。
 新規の受注が取れず営業成績が伸び悩んでいた大阪支店にテコ入れのために本社から送り込まれたともっぱらの噂だが、実際その通り丸井は多くの新規案件を取り、それまで営業成績一位だった同期の白石を抑え、営業成績トップを今でも維持し続けている。
本人の人柄も気さくで、上司にも部下にも受けがよく、しかも他人を蹴落として上がるタイプではないので同僚からの印象もいい。
 とは確かに仕事でよく組んではいるようだが、白石の主観では特別な関係には見えなかった。

「噂になっとんで〜最近よく密室の個室にふたりっきりやろ? ナニしてるんやろ〜って♡」
「密室の個室だけど職場ですよ? 仕事してるに決まってるじゃないですか!」

「信じらんない!」とが頭を抱えた。それからなにか思い出したように振り返って、さらにガクッと肩を落とした。白石がどうしたのだろうと彼女の背後に首を伸ばしてみると、鞄や上着に紛れて、しっかりした作りのなにやら重そうな紙袋がそこにあることに気づいた。
それは一体なんだ?——という白石の心の声が聞こえたのかのように、「ああー……持ち帰り仕事あるんだったぁ……」とは盛大なため息を吐いてさらに頭を抱えた。かと思えば、ハッと体を起こし、後ろにあった紙袋を漁り始める。中身はどうやら本らしい。

「今やってる丸井さんとの案件なんですけど、ライターが足らないらしくてレビューが足らないって困ってるんです。なんでこっちにまでお鉢が回ってきてて……はい、どうぞ。はい、白石さんも。はい、あ、忍足さんは大丈夫です。あ、でもどうしてもって言うなら、どうぞ」

 がテキパキと本を配り始める。白石も訳も分からず受け取ってしまったが、表紙を見てギョッとした。
 頬を染めて肩を肌蹴させている女の子の際どいイラストと『ドキドキオフィス♡今夜は淫らな残業手当ありますか』という露骨なタイトル。
瞬時に白石は丸井が新規で取ってきたアダルトサイトの案件に思い至る。そして、そのデザイン担当がであることを本人から直接聞いていたことも。

「これだけあるんだからどれか一つくらいは自分の性癖に刺さるものあるでしょ。読んだら感想っていうか簡単なレビューみたいなのでいいんでお願いしまーす」

「あ、月曜提出で」とが付け加えるのと同じタイミングで、一氏が「誰がやるかこんなモン! 自分でやれ!」と今受け取ったばかりの本でまたも容赦なくの頭を叩いた。もちろんすぐさま「痛い!」と抗議の悲鳴が上がる。

「独り寂しい二十七の女にはもってこいな仕事やろ。これで土日家にこもってシコシコしてても『仕事です〜しょうがないんです〜』って大義名分手にいれたんやからむしろお前丸井に感謝した方がええんとちゃうか」
「誤解を受けるような下品な擬音やめて。小春ちゃん、一氏さんがいじめる!」
「ハイハイ、ユウくんちょっとお口悪いでぇ。まぁそやけど、これ女の子向けのやつやろ? 感想は男でも大丈夫なん?」
「え、いいんじゃなないですか? 作品の感想なんだし」
「そうは言うてもエロって男と女ではだいぶ捉え方が違うもんやからねぇ」

「えー……」と嘆いたは「あ、でもとりあえず財前くんはやってくれるでしょ? 仲間だもんね?」ととなりの財前に媚を売った。しかし即座に「一緒にせんといてください」とつれなくされていた。
「独り身は独り身でも二十三の男と二十七の女じゃ状況がまったく違うやろ」とツッコむ一氏にもはや反論する気も失せたのか、はむくれた顔で「あーハイハイ、わかってますよーっだ」と配った本を回収しはじめた。
「ハイ、白石さんも」と手を出したは白石がなかなか本を返さないので不思議そうに首を傾げた。

「俺ほんまにやろか? どうせ俺も明日明後日予定ないねん」
「え、でも……」
「その量一人はしんどいやろ」
「いや、でも全部ちゃんと読まなくても段落読みすればなんとかなるかなーって、思ってたんですけど……」
「それでも大変なんはかわらへんやん。うまく書けるかわからんから、それでもよかったらやけど——月曜まででええんやったっけ?」

 は白石の申し出に戸惑いをみせたが、最後には「じゃあお言葉に甘えて……あ、月曜日っていうのは私が勝手に決めただけで水曜日までにもらえれば問題ありません」と丁寧に頭を下げた。

「ほな、私はコレとコレとコーレ。あとは、そうねぇ、この辺のもいいかも♡」
「えっ! 小春ちゃん?」
「困ってるときはお互いさま♡ ほら、ユウくんはコレとコレ」

「なんで俺が!」と暴れる一氏を押しのけて感極まった様子のが小春に抱きつき、そのまま二人はあつい抱擁を交わしあった。そこに「小春浮気か!」と泣き叫ぶ一氏も加えた三人を真顔の財前がスマホで撮影しはじめる。全員酔っ払っているのは間違いない。
そんな光景を謙也は「おもろい奴らやなぁ」と呑気に楽しんでいるようだった。
 白石は一杯目のビールを飲み干すかたわら、はしゃいでいるを横目でみやる。
 彼女のことをもっと知りたい。そんな風に誰かに対して思ったのは随分と久しぶりのことだった。