ミーティング五分前。は迷ったがいつもなら下ろしているミーティングルームのブラインドを全て上げることにした。
だが、一度席に着いてノートパソコンを開いたもののまだ落ち着かず、やっぱり入口のドアも開けておこうと思いたった矢先に丸井がやってくる。
当然ながらドアのすぐ目の前で不自然に立っていたを丸井は「どうした?」と訝しんだ。
「換気です! 換気!」とが誤魔化すと、丸井は「ふーん」とさして興味なさそうだ。
金色から聞いたくだらない噂を丸井が知らないことにはほっとする。
「お、もしかしてお前もうアレ全部終わったのかよ」
開きっぱなしになっていたのノートパソコンを丸井が覗き込む。画面には表にまとめた例のレビューが表示されていた。
土日に頑張ったのと、金色たちのおかげで、は自分の分のほとんど全て終えていた。
あとは一氏の分だけなのだが、今朝会社で直接本人に確認したところ「ああ? 水曜まででええちゅーたやろが!」と喚かれてしまった。
少々不安だが、金色の手前やらずに放り出すということはないだろう。それにああ見えて案外世話好きなところも……きっとあるはずだ、とは自分に自分で言い聞かせた。
それに、もともとはすべて自分でやらなければならなかったことだ。
もしも、一氏に任せた分が白紙のまま返ってきたとしてもに怒る権利がないことくらいちゃんとわきまえている。
「なにお前暇なの?」
「真面目なだけです。それにひとに手伝ってもらえたので、そのおかげですね。というか、仕事を引き受けた丸井さんこそ自分の分終わったんですか?」
「あー、まぁだいたい? つーか、つまんねぇのな。全然抜けねぇから全部三倍速だわ。女ってみんなあんなのがいいわけ?」
「あんなのって?」
「『こういうのが好きなんだろぃ、オラオラ』的な」
「それは人それぞれじゃないですか? 確かに人気はあるみたいですけど。でも、相手が誰かっていうのが一番大事な気もしますね」
「(※イケメンに限る)ってか」
「違いますよ。(※好きなひとに限る)です。そこ履き違えるとただの勘違いドS
「的には好きな男にされるんだったらこういうのありなんだ」
「これ以上はセクハラでーす」
がレビューを頼まれたのは小説だったが、その他預かった資料にはDVDとコミックスも混じっていた。どれも女性向けのアダルトだ。
クライアントとの打ち合わせで急に押し付けられた仕事だったが、丸井が快くそれを承諾したので、一緒にいたは随分と驚いた。と同時に丸井が営業成績ナンバーワンであることを思い出し、営業も大変なんだな、とそのときのは他人事のように思う。
しかし、それを社に持ち帰ったあと、「じゃ俺はコレで」と丸井がまず自分でDVDだけを抜き取り、残りの資料はに押し付けた。
さらにそのあと、その中から今度は同じチームのもう一人がコミックスだけを抜いていき、残る地味に面倒なものがの担当になったというわけだ。
としてはまったく解せぬ話である。
「てゆーか、ズルいですよね、丸井さん。先にひょいっとDVD持ってちゃって」
「お前観たかったの?」
「違いますよ。でも、どう考えてもDVDが一番楽じゃないですか?」
不平を訴えるだが丸井は「そうか?」としらばっくれる。「まぁもう終わったんだからいいだろぃ」と結局丸め込まれてしまったが、が「もう」と言いつつもなんだかんだと丸井の横暴を許してしまうのはいつものことだった。
丸井は優秀な営業だ。と同じく関東出身で数年前に大阪へ来たばかりで一体どんな人脈がるのかわからないが、丸井はとにかく新規案件の獲得数が多い。内容はさまざまなジャンルに及ぶが、利益率がいいということは一貫しているのも特徴的だ。金になるかならないか、そこに重きを置いているタイプではあるが、がめつい印象をひとに与えないのは本人がいたって金に執着している素ぶりをみせないからだ。
通常、営業が獲得してきた案件は一旦営業部の部長が確認し、そこからデザイン部の部長に渡り、その仕事にあったデザイナーに担当させる、というのが流れなのだが、暗黙の了解で仕事を取ってきた営業が直接デザイナーに声をかけて後からそれぞれの上司に承認してもらうということもできる。
今回の案件もまさにそれだった。
一緒に仕事をするにあたって個人の能力も大切だが、それ以上に相性というものが重要だ。
それはデザイナーも同意見で、契約が済めばさっさと撤退する営業もいる中、丸井は納品検品が終わるまでデザイナーとクライアントと間に立ってくれるので、デザイナーからもすこぶる評判がいい。
さらに利益率がいい仕事を持ってくるという点でもデザイナーからの支持はあつい。
一昔前まで、営業の賞与は勤続年数に基づいた金額に出来高が上乗せされるのに比べ、デザイナーやエンジニア、その他制作部員は勤続年数に基づいた金額で一律。どんなに仕事の量をこなしても、ましてやそれがどんなに高額で責任ある仕事でも、仕事を取ってきたのは営業、営業がいなければそもそも始まらない、という理由でそのような制度が会社設立以来続いていた。
それもそのはず、上層部はそのほとんどが総務や営業出身者ばかりだ。デザイナーやエンジニアから経営側にまわることはまずない。
確実に待遇の差があった。賞与のことだけではない。だから、デザイナーやエンジニア、その他制作部員の離職率も高かった。
そこに風穴を開けたのが他ならぬ丸井だ。
まだ丸井が本社にいた頃、丸井は上層部に直接掛け合ったらしい。
デザイナーやエンジニア、その他制作部員の仕事の出来がどれほど成果物に影響するか。彼らがどれほど会社としての財産であるか。そして、それに見合った待遇を彼らにしなければ近いうちにでも自分たち営業は売るものがなくなってしまう、と。
スタンドヘヴンは大きな会社ではない。一社員の声が天に届くことがる。そのときもそうだった。
一躍丸井はデザイナーやエンジニア、その他制作部員たちのヒーローとなる。
しかし、その後、丸井は大阪支店に異動になった。この革命を良く思わない一部の上層部による左遷だと噂があるのも事実だ。
「おー、こんなとこにおったか」
この時間この場所でミーティングが行われることは先週の早い段階から決まっていた。
ふざけたことを言いながらミーティングルームに入ってきたのは技術開発部の仁王である。今回のコーディング担当だ。
「あ、テメ仁王、お前自分の分のレビュー赤也に投げただろぃ! お前あいつの国語力知ってんの? 小三以下だぞ」
「ないよりマシじゃろ」
「下手したらない方がマシかもしれねぇけどな」
プロジェクトは基本チーム単位で動く。今回の「女性向けアダルトコンテンツの販売促進サイト」に携わるメンバーは、営業丸井、デザイナー、そしてエンジニア仁王、以上三名だ。
の携帯のアラームが鳴った。十一時丁度。は「さ、始めましょ!」と二人をせっついて椅子に座らせた。
◇◆◇
「で、大丈夫なんかデータまるっと渡して」
クライアントの要望、デザインの方向性、スケジュール、その他諸々を確認しミーティングが終わりかけたころ、仁王が真面目なトーンで丸井に訊いた。
実は珍しくも仁王と同意見だった。
担当者がしきりに言っていた「俺PCには強いんで」というセリフがどうも怪しい。
本当にこの界隈に詳しい人間がそんな安っぽいことを言うイメージがなかったので、虚勢ではないかとも疑っていたのだ。
ウェブサイトやアプリは納品後、当然管理や更新が必要になってくるが、それもたちの会社で担う契約になれば、定期的な収益に繋がる。
今回のクライアントはそれが契約に含まれていなかった。
検品が済めばそれで終了。その後、トラブルが起これば対処はするが別料金だ。
そのトラブルの類にもよるが、下手に弄られるよりは、管理や更新までまるごと契約に盛り込めた方がこちらとしては利益になる。
結局丸井が「ま、もうちょっと交渉粘ってみるわ」ということでとりあえずこの場は終わらせた。
「次の向こうとの打ち合わせは明後日な。それまでにこの前言われたデザインの修正シクヨロ」
そう言って立ち上がりかけた丸井に、「あー……それ私も行かないとまずいですかね?」とは遠慮がちに申し出た。
デザイナーがクライアントとの打ち合わせる同行するのは必須ではない。
丸井はほとんどの場合デザイナーやときにはエンジニアまで同行させているが、ひとりで話を進めて決定事項だけを持ってくる営業もいる。
「なんか予定あんの?」という丸井には一瞬言い淀むも、先日の打ち合わせでの出来事ごとを打ち明けることにした。
クライアントの会社は梅田の南の方の地区にある古い雑居ビルの二階にあった。一階は流行っていない精肉店。三階は空きテナント。大通りから一本奥にあるせいで全体的に陰気な雰囲気で、仕事でなければまず訪れたくないような場所である。
廃油とカビの臭いのする階段で二階へ上がり、「ちわっス」とたちを出迎えたのはたちと同世代ぐらいのよれよれのTシャツを着た男性社員だった。
扉が開くと狭い事務所にいる社員ほぼ全員がと丸井を見た。ざっと十名くらい。全員が男性社員だ。彼らはたちに挨拶することもなく、それどころか目が合いそうになるとあからさまに視線を背けた。
「女性向けアダルトコンテンツの販売促進サイト」なのだから当然女性社員もいるものとばかり思い込んでいたはやっとそこで少し身構えた。
この狭い空間に女はだけしかいない。
とは言っても真昼間で、となりに丸井もいる。
煙草の匂いやときおりスピーカーから漏れ聞こえてくる女の喘ぎ声を無視できるくらいのスキルはも持ち合わせていた。
打ち合わせ終盤に差し掛かった頃、は手洗いに立った。突然我慢できないほどの尿意に襲われたからだ。
男性社員しかいないので手洗いは当然のごとく男女区別なく一つの空間に個室と男性用小便器がそれぞれ一つずつ置かれているだけ。
しかし、そのときのに躊躇している余裕はなかった。個室に入り、用をたし、ホッと一息。早く丸井のいるところへ戻ろうとが個室のドアを開けると、なんとそこで今まさに小便をしている男性社員と鉢合わせした。
は慌てて手を洗いその場を出て、丸井と一緒に事務所を後にする。
咄嗟のことで何も言えなかったが、どう考えてもあれはおかしかった。
狭いワンフロアの事務所。が手洗いに立ったことはあの場にいた全員が知っていたはずだ。どう考えても鉢合わせたのは偶然ではない。
「——っていうことがありまして……」
が話し終えると丸井が「はぁ?」と顔を思いっきりしかめた。
もうすぐ三十になろうとしている女がそんなことくらいで何を言ってるんだと思われたのだろう。
丸井とは打ち解けていたので、つい言わなくてもいいことまで言ってしまった、と遅れて気づく。
は「あ、すみません! 大丈夫です。行きます、今度の打ち合わせ」と慌てて撤回した。
「ちげぇよ! なんでそれもっと早く俺に言わねぇんだよって話!」
「いや……タイミング逃しちゃって……」
「……お前、あそこで出されたもんなんか食った?」
「あー……お茶をちょっと。でも、え、私何か入れられたんですか?」
「可能性はゼロじゃねぇな。お前さ、もうあそこで出されたもん絶対食うな、つーか、もう行かなくていい」
「すいません……」
「なんでお前が謝んだよ!」
まさかとそこまでとは思うが、丸井はかなり本気で怒っているようだったので、の方が恐縮してしまった。
しかし、これではもうあそこへは行かなくすむ。小さなストレスから解放されたはそっとを息を吐いた。
「一件落着じゃな。んじゃ、俺は昼行ってくるナリ」
自分には特に関係のない話だと思っているであろう仁王がマイペースに去っていく。
エレベーターホールへ向かう猫背を見やりながら、「仁王さんって何食べるんですかねぇ」とは何気なく世間話を丸井に振った。
素朴な疑問とまだ不機嫌な丸井を和ませるためだ。
「いや、なんか仁王さんが食べ物食べてるとこ想像できなぁと思って」
「毎晩女食ってるんじゃね? って、そんな目で見んなよ。いや、普通にあいつ肉とか食うぜ?」
「肉?! え、意外!」
「野菜とか飯とか一切食わないでひたすらカルビ」
「うわーどっちみち健康には良くなさそうですね」
「会社出たとこに美味い店あんだよ」
「焼肉のですか?」
「そ。ランチでも結構外まで並んでることあるんだけど、知らねぇ?」
「あー……なんか見たことあるような……。へぇ〜でもそんなに美味しいだったら一回食べてみたいかも」
の独り言のようなつぶやきに丸井が何か応えようとしたところで、開きっぱなしのドアを律儀にノックする音が聞こえた。
「ちょっとええか?」と顔を覗かせたのは白石だ。
「ここ使いますか? すみません」
「あ、ちゃうちゃう。いや、ちゃうこともないんやけど。こないだ言うとったおもちゃメーカーの件、おたくの部長に相談してデザインは塚本に就いてもらうことになったんやけど、補佐に自分も入ってくれへん? あくまでも補佐やから今受け持ってる仕事と並行できるやろ、って話になったんやけど、どうや? ほんで、もし引き受けてくれるんやったら、早速で悪いんやけどあんま納期まで時間あらへんし急ぎでミーティングしたいんやけど、ええか?」
白石の後ろにはの後輩のデザイナー
は和かに承諾し、「じゃ、そういうわけなんで出てくださ〜い」と丸井の退席を促した。
「そういえば、さっき何か言いかけました?」
「なんでもねぇよ」
「? とりあえず、打ち合わせは申し訳ないですけど、よろしくお願いしますね」
「おう。ロクでもねぇクライアントだけど報酬はいいから、あとちょっと頑張ろうぜ」
笑顔に戻った丸井をも笑顔で見送った。
「なんかあったんか?」と尋ねてくる白石を「大丈夫ですよ」とあしらい、今度はドアを閉める。
引き続き同じミーティングルームで、本日二つ目のミーティング。今度は白石と塚本と財前、そしてというチームだ。
先輩のがついてるとはいえ、初めてデザインを任されることになる社会人二年目の塚本は明らかに緊張しているようだった。
そのとなりにいる財前はそんな塚本を気遣うそぶりもまったくなく、席に着くなり手元をスマホをいじっている。
は仕事の詳細を聞く前からこれはなかなか厄介な案件になることを覚悟しておいた方がいいなと悟った。