「——っちゅう感じで進めようかと思っとるんやけど、どうや?」

 白石が作成した資料は無駄がなく完璧だ。
仮で出してくれているスケジュールにも破綻はない。
ただ、今回はデザインにかけられる時間は少なめなうえ制作物も多い。
あとで塚本には作業の工程をより細かく分けて、改めて説明した方がよいだろう。
不安げなにこちらを見ている塚本の代わりにが「大丈夫だと思います」と答えた。
しかし、答えてしまったすぐあとで自分は補佐という立場であることを思い出し、自分が答えるべきではなかったと後悔する。

「つーか、当日イベントもあるような案件、ド新人が担当するんでほんまに大丈夫なんすか?」

 ミーティングが始まってからここまで黙って聞くだけだった財前がここにきてはじめて口を開いた。
だが、今更それを言う? という内容に、は抗議の視線を財前に送るが、財前はしれっとした様子でとりあわない。
何も返せず俯いてしまったとなりの塚本をみやる。
正直、としては財前が言いたいこともわからなくはない。だが、確かに不安要素が多くても、それを補佐するためにもいるし、白石もいる。
あえて塚本を脅すような物言いは不必要だ。は「大丈夫です」ともう一度はっきりと今度は財前に向かって宣言をした。
 ミーティングがようやく終わり、を座ったまま小さく息をつく。
にとって補佐という役割は、自分が担当するより何倍も肩に力が入ることだ。
この会社に入ってもまだ一年目なうえ、以前の会社でも後輩を指導する立場に幸か不幸か就いたことがなかった。
学生時代もまともに部活動をしていなかったはそもそも先輩後輩という枠で動くことに慣れていない。
 さらに言えば、は同性が苦手だった。
女性同士で、他人のあれやこれを逐一観察して品評してる場面に出くわすと、その好奇心に驚かざるをえない。
理解できないから怖いし、怖いから極力避けたい。
そんな態度が透けてしまわないようにするのにも日々労力を使う。
「先輩、そのリップ新しいやつですか? すごい似合ってて可愛いですね」と塚本に言われたときはギョッとした。
確かにそれは買ったばかりのもので、会社にははじめてつけてきたものだったが、そんなこと誰かが気づくとは思わなかった。
は一呼吸置いて「ありがとう」と微笑み、「そういえば、この間の件なんだけどね——」と不自然にならないように気をつけながら話題を逸らした。
こんなことくらいで相手に苦手意識を持つ自分にも嫌気がさす。

「お疲れさん。なんや月曜日から元気ないな」

 と、声をかけてきたのは白石だ。塚本と財前はすでに退席していた。

「逆に白石さんは曜日関わらずいつも爽やかでいいですね」
「健康には気い使うてるからな」

 ほんの少し嫌味を含んでいたのだが、そんなことまったく気づいていない白石は元気が有り余っている新入社員のようでは苦笑するほかない。
 時計を見ると昼過ぎだった。「それじゃあ」と自分の席に戻ろうとするを白石が「なぁ」と思い出したように呼び止めた。

「結局誰やったん?」
「何がですか?」
「好みのタイプ」

 え、とは訝しむ。突然何の話だ、と思ったが確かこのあいだ行き逢った居酒屋でそんな話をしたような気がする。
しかし、そんな世間話みたいなものを何日も経ってからわざわざ掘り返す白石の感覚が理解出来なかった。
 常々感じていたのだが、は改めて思う。白石は変わっている。
仕事は丁寧だし、清潔感もあるし、人柄も決して悪くない。
けれど、何かが決定的にズレていて、それは相手をものすごく困惑させる。
おそらくこれはだけの見解ではないはずだ。それを裏付けるように、が大阪支店に配属されてすでに半年以上経つが、白石の浮いた話一つ聞いたことがなかった。

「あー……そうですね。あの中でいったら白石さんですかねぇ」

 消去法だ。金色は友人だし、一氏は論外。財前は年が離れすぎているし、忍足はあの日あったばかりだ。残るは白石しかいなかった。

「いや、なんや結局答えてへんかったなぁ、って気いついたら気になってもうてな」
「一回気になるとどうでもいいことでも頭にこびりつくことありますよね」
「せやねん」

 なにやら歯に挟まっていたものがようやく取れたようにスッキリした様子の白石を残して、は今度こそミーティングルームをあとにした。
 自分の席に戻りさて昼食にしようか、と思って鞄を手にとったところで、となりのデスクの塚本に話しかけられる。

「あの……先輩、お昼まだですよね? 一緒にランチ行きませんか?」

 不自然な間を空けてしまったことを悟らせないように、素早く「あ、じゃあ白石さんでも誘って——」とが提案すると、「あ、できれば先輩と二人がいいんですけど……」と返ってきた。

「だめですか?」

「そんなことないよ」と答えたは鞄の中に入っている今朝コンビニで買ったサイドウィッチのことはがんばって忘れることにした。


◇◆◇


「えっと……財前さんのことなんですけど……」

 注文を終えて手持ち無沙汰になった絶妙なタイミングで塚本は遠慮がちに話し始めた。
的には予感が見事的中してしまったことになる。

「た、確かに、見た目とか言動はこう……ジャックナイフ感あるけど、中身は、……中身は、えーっと、そこまで悪い子じゃないっていうか……。あ! さっき言われたこと気にしてる?! あれは——」
「あ、違います、違います!! そうじゃなくて……」

 と、慌てた塚本がさっきよりさらに小声で「先輩、財前さんと仲いいですよね?」とに尋ねた。

「あぁ、うん? まぁ?」
「えっと、その、付き合ってる……とかですか?」
「え!? いや、ないないない。ないよ! だって財前くん私より四つも下だよ?!」
「そうですよね。それならよかった。ほっとしました」
「……えっと?」

 これはもしやと別な嫌な予感がしてきた。

「私、実は入社したときからずっと財前さんのことが気になってて——」

 吹き抜けの天井では洒落たアンティーク調のファンライトが回っていた。女子受けしそうな内装で、周りも女性客が圧倒的に多い。どのテーブルにも写真映えしそうな料理が並んでいて、食べる前にはみんな必ず写真を撮っているようだった。

「でも、財前さんって人を寄せつけないオーラあるじゃないですか?」

 ランチの値段は千五百円。一人暮らしのにとっては手痛い出費だ。
そういえば、塚本は親戚の家に下宿させてもらっていると言っていたことを思い出す。なんでも東京の両親は塚本が一人暮らしをするのに反対だったらしく、大阪支店に配属が決まったときは会社を辞めろとまで言われたそうだ。
塚本の両親がマトリョーシカの一番小さな人形に塚本を匿ってありとあらゆるものから守ってあげたいと思う気持ちはわからなくはない。
小柄でいかにもか弱そうなに見えて、あまりはっきりものを言わない控えめな塚本——しかし、そのイメージがの中で少しずつ微妙に崩れていく。

「だから今までなかなかアプローチできなかったんですけど、今回またとないチャンスっていうか、それであの……」

「協力してもらえませんか?」という塚本の声と「ランチAセットのパスタをお持ち致しました」という店員の声が重なった。
 はひとまず店員に礼をして下がるのを待ってから、塚本を様子をうかがった。
料理に気を取られてこの話を忘れてくれたら——そんなの願いも虚しく、意思の固さを感じさせる眼差しはを変わらず捕らえていた。

「え〜とっ……たぶん財前くんって、あんまり他人に自分の恋愛のこと口出されたり、手出されたりするの好きじゃないタイプだと思うんだよね」
「はい」
「えっと、それで、だから、私が下手に周りであれやこれするよりも、塚本さんが自分で財前くんにアピールした方がよっぽどうまくいくんじゃないかな〜って……」

 すでにの頭には財前が嫌そうにする顔がありありと浮かんでいた。
が財前の立場なら自分もきっと同じ顔をするだろうと思う。
 塚本は「はい……」と言うなり黙り込んでしまった。
 いい大人なんだから恋愛なんて当人同士で勝手にやってくれ。それで済む話なのだが、こうも面と向かってお願いされて断ればこちらに非があるような気がしてしまう。
せっかく自分を頼ってくれたのだから応えてあげたいという気持ちもにはあった。
 結局は無言の圧力に負けて「うまくやれるか自信ないけど、でできる限り協力するね」と慣れない先輩風を吹かせてしまった。

「よかった〜。先輩に協力してもらえたら百人力です」

 それにしても、自分は一体どこで彼女からこんなに信頼を勝ち得ていたのだろう。にはまったく身に覚えがないから不思議でしょうがない。


 千五百円以上の重りを腹に詰め込んだようなランチを終えて、は自分の席にはまっすぐ戻らず休憩室へ向かった。
せっかく丸井のおかげでストレスが一つ減ったと思ったが、また新たなストレスを抱えこんでしまった。
コーヒーでも飲んで気持ちを切り替えなければ、午後が持ちそうもない。
 休憩室には気だるげに煙草を燻らす仁王がいた。

「お疲れ様です」
「ピヨ」
「仁王さん、今日お昼何食べたんですか?」

 仁王はトントンと指で胸ポケットを叩く。四角く膨れているそれはおそらく煙草だろう。は顔をしかめた。

「早死にしますよー」
「一度死んでみるのも悪くないかもしれんのう」

「プリ」っと鳴く仁王はにとっては得体の知れない動物みたいな存在だ。
 仁王について、悪い噂が多いのは知っていた。
二股三股当たり前。そもそも“お付き合い”という概念を無視した独自のスタイルで、どこかのセレブに飼われているだとか、飼っているだとか……。
上司の女に手を出して大阪こっちに飛ばされた。なんてのも、そのうちの一つだ。
 はコーヒーを買って、煙草を吸う仁王のとなりに並んだ。
 例えどんなに乱れた私生活を送ろうが仕事をきちんとしてくれるなら、ただの同僚のには関係ない。
だが、女絡みの噂のほとんどが嘘なんじゃないか、というのがの推論だ。
直感だから根拠はない。漠然とそう感じるだけ。
ただの同僚のには見せない顔があるのかもしれないけれど、が知るかぎりの仁王は何かを欲してる人間には見えなかった。
欲しがることを諦めているような、そんな寂しい姿に心くすぐられる女がいそうだとは思うけど。
 エレベーターからぞろぞろと人が降りてきて騒がしくなったので、自然と意識がそちらへ向いた。列をなしてたちの目の前を通り過ぎていくのは新入社員だ。
着慣れないスーツでキョロキョロと歩いてる様はまるで工場見学の遠足のようで微笑ましい。
 働くことに希望も不安も抱えた初々しい姿にいつかの自分を重ねてみようとしたが、あまりうまく思い出せなかった。なんせもう随分昔のことだからだろう。
 列が途切れるのを待って休憩室から出ようとしていたは列の最後尾にその姿を見つけて足を止めた。
がどうしていいかわからずにいると、相手の方が先にアクションをとる。
手を軽く上げて、唇の端を少しあげた。それだけだ。それだけなのに、は予想以上に自分が動揺していることに気づく。
その相手——柳蓮二が完全に通り過ぎたあと、やっとはとなりに仁王がいたことを思い出した。
何か不自然に思われただろうか。それを確かめるためにが仁王を横目でそっと窺うと——

「なんじゃ」

 仁王は煙草を灰皿で揉み消し、研修生たちとは反対の方向へ足早に消えてしまった。
 一人残された休憩室で、は仁王のことがまた一つわからなくなった。