「どうした、夏バテか?」
ハッとしてが顔を上げるとそこには柳がいた。
先にエレベーターに乗り込んだ柳が「乗らないのか?」と目で合図を送ってくる。
一瞬躊躇いがよぎったがそれもおかしな話だと思い直し、は柳と一緒にエレベーターに乗り込んだ。
しかしやはり二人っきりの狭い空間でだけがドギマギしていた。
「お疲れさまです。今日は——」
「記念パーティーの打ち合わせで前乗りしている」
沈黙が埋めるためにした質問に柳が先を読んで答えた。
たちが務める株式会社スタンドヘヴンが今週末イベントを控えていることを社員のが知らないはずもないので「ああ」とすぐに納得の相槌をうつ。
大阪支店設立7周年。キリがいいんだか悪いんだかわからない数字だ。
そこは小さくても広告代理店と揶揄すべきところだろう。今回のパーティーも実のところは接待の場だ。
その証拠に営業はできるだけ多くの顧客または関係者を連れてくるようにと上司に命じられているらしい。
パーティーの合間に新規案件、もしくは新規顧客を掴んでこい、ということだ。
もその日のために営業からプレゼン資料の制作をいくつか頼まれていた。
そして、その業務をこなし今まさに帰路につこうとしているところだった。
「あの、——」
遠ざかっていきそうな背中に咄嗟に声をかけたのはの方だった。
自分から呼び止めたのにも関わらず、どう話を切り出したらよいかわからずに戸惑っていると、柳がまるですべてを見透かしているように「行くか」とを先導してくれた。
子鴨のように連れられてこられた店は以前が案内した『ぎん』からそう遠くない小料理屋だった。
一見してなんの店かわからないが、高級そうなことだけはわかる。
が不安になっていると、柳が「鰻は嫌いか?」とに尋ねながら暖簾をくぐった。
「あ、好きですよ。え、ここ、鰻のお店なんですか?」
「ああ。貴重な天然物を食べれる店だ」
“鰻”、“貴重”、“天然物”、というワードにがたじろいでいると、柳が「大丈夫だ。経費で落とせる」と平然と言ってのけたので、それにもまた「ええ?」と驚く。
揶揄いが成功して満足したらしい柳が「冗談だ」と笑った。そして、「お前が考えているほどの値段ではないから安心しろ」と付け加えた。
「柳さんって、」
「『どうしてまだ私に構うんですか?』か」
「……それもそうですけど、」
「こうしていれば気が変わることもあるかもしれないからな」
はどう反応したらいいかわからずぎこちなく笑うも柳はそれすら楽しんでいるようだった。
柳に「俺と付き合わないか」と言われたのはもう半年以上前のことだ。
そのときすでには大阪支店配属を言い渡されたあとで、それを人事部の柳が知らなかったとは思えない。
柳の告白も丸井の告白もにとってみればまさに青天の霹靂だった。
今まで異性に告白されたことはあったが、それはだいたい告白の前にそれを匂わす雰囲気を相手が醸し出し、もそれを概ね受け入れるようなサインを出して、最後に念のためというような意味合いのものが多かった。
だからも心の準備ができたし、相手がその感情に至るまでの経緯もおおよそ理解でき、受け入れることができた。
渡り廊下で出会い頭にぶつかってキスをするだとか、図書館で偶然同じ本に同じタイミングで手を伸ばすだとか、そんな劇的なキッカケがあろうがなかろうが、恋に落ちるには必ずそのひとなりの理由があるとは思う。
だから、逆に理由が推測できない感情は自分のものであれ他人のものであれ、の手に余った。
「どうして私だったのかなって……。確かに本社にいた頃、柳さんは私の担当でいろんなことを柳さんから教えてもらいました。でも、それはあくまでも仕事だったからですよね」
「ああ、そうだな」
「仕事のあとに何度か食事に行ったこともありましたけど、それは慣れない私を気遣ってのことだと思ってたんですけど違うんですか?」
「鈍い、と言われたことはないか?」
つい先日丸井に「お前、モテねぇだろい」と言われたことをは思い出してバツが悪くなる。
「それからお前は自分が存外隙だらけだということをそろそろ自覚した方がいい。傷ついている女は扱いやすいからいいように使われるぞ」
の「え」という声が出るという同時に鰻が運ばれてきた。
香ばしい匂いがないと思っていたはずのの食欲を刺激する。
「食べようか」と促され、用意してもらった食事を目の前にしてこれ以上自分の話を続けるのはさすがに申し訳なく思い、は「頂きます」とおずおすと一口頬張った。じゅわっとタレの甘みと鰻の脂が一瞬にしての口に広がる。
が皮の硬さに違和感を覚えたところで、柳は「鰻の調理法は東と西では違うんだ。まず、関東では——」と今度はの疑問に明快に答えてくれた。
「さっき言ったことだが、少し付け加えよう」
店先の暖簾をくぐるなり、柳がを振り返った。
さすが柳。が気づかぬうちに支払いを終えていた。
「お前が満足する答えはお前の中にしかない」
はその言葉を反芻しながら、柳が拾ってくれたタクシーに一人揺られて家路につく。
「せいぜいこれ以上は俺に付け込まれないように用心しろ」と言った柳はすでにの心に別の男の存在が居座っていることを見抜いていたに違いなかった。