パーティー当日、は営業部長補佐のとなりでタブレット端末を使ってプレゼン資料を顧客に見せていた。
顧客の反応は渋い。様子から察するにもともと顧客は乗り気ではなく、資料を持ってこられたから見てやるか、という程度のものだった。
案の定、プレゼンの途中で「ありがとう。でも、うちも今予算が厳しくてね。またの機会にお願いするよ」と顧客は離れていってしまった。
営業部長補佐がこれ見よがしにのとなりでため息を吐く。舌打ちしなかっただけでもマシか、とは諦めた。
どうもこの営業部長補佐は感情を、しかもとりわけ負の感情を表に表すことを躊躇しない。にとって理解はできるが共感はできない相手だった。
「前々から思ってたんだけどさ、さんって個性ないよね」
プレゼンが失敗に終わるとお説教タイムになるのもいつものことだ。
「もっとさ、君にしか作れないものを作ってかないとこの業界じゃ生き残れないよ。ただ小綺麗にまとめるだけがデザインなら僕にもできちゃうからね」
年長者が若者にアドバイスをするような程でねっとりと語りだす。
とてもじゃないが、前日に「こんな感じで簡単にまとめてくれる?」と既存と資料と煮詰まってないコンセプトもどきだけをにほって寄越した人間の言い草とは思えなかったがは反論せずに黙って聞いていた。確かに耳が痛いところもあったからだ。
デザインはデザイナー個人の個性を表現する場ではない。
デザインとアートの担っている役割は違って、デザインは問題解決であり、アートは問題提起だ。
そうである以上、デザインは個性的であるないの問題にかかわらず、まずは機能的でなければならない。
顧客が抱えている問題に対して解決策を探して提案するのが自分の仕事だと、は考えていた。
結果としてその解決策が個性的になることはあっても、それを目的化してはいけない。それは顧客を欺いているに等しい行為だ。
「個性的ではない」という指摘は、よりよい解決策に辿り着けなかったデザイナーとしてのの未熟さを言い当てていた。
そういった面で、問題点ばかり指摘してなんら解決策を提示しない営業部長補佐のお説教もまた個性的ではなかった。
好きなだけしゃべって満足した営業部長補佐は別の自分の顧客を見つけてから離れていった。
は通りかかったボーイからグラスを受け取り、いそいそと壁際まで退がる。
貸し切ったレストランは思った以上に盛大な賑わいを見せていた。
知っている顔もあれば知らない顔もある。普段は裏方仕事のにとって顧客はほとんどが知らない顔だったが、その相手をしているのは自分の会社の社員で、全体の三割くらいがの顔見知りと言える人間だった。
そういう人たちに囲まれて、ぽつんと独り立っているのは落ち着かない。
最初から最後まで着席にしてくれたらいいのにと思うが、交流の場ひいては商談の場としている以上それは無理な話だろう。
「お疲れさまっス!」
声をかけてきた切原の皿の上にはローストビーフやら生ハムやらやたらと肉が盛られていた。
若いなと思わず笑う。すっかりにとって切原は可愛い弟のような存在だった。
「さん食わないんスか?」
「切原くんは食べてばっかりでいいの?」
「いやいや食べてばっかじゃないっスよ! さっきまでちゃんと仕事してたし!」
「腹が空いては戦はできぬ?」
「そうそう!」とうなづいて豪快に肉をたいらげていた切原が丸井を見つけて手を振った。
丸井がグラスと皿を手にこちらにやってくる。
は丸井のことが直視できず、丸井の皿の上には盛られている色とりどりのスイーツばかりを見た。
「つーか、さっきさん大変そうでしたね」
営業部長補佐とのやりとりを指しているのだと思い当たったは切原に苦笑いで答える。
丸井が「ん? なんかあったの?」と会話に参加した。
「なんかまたネチネチネチネチ言われてたんスよね? あのおっさん契約取れないとすぐデザイナーの所為にするからデザイン部の人たちに嫌
われてんのわかってないんスかね」
あまりにもはっきり言うのでの方が焦り、辺りを見回したが幸い近く営業部長補佐の姿はなかった。
「そういうお前はせっかく作ってもらった資料忘れてデザイン部の奴に白い目で見られてたけどな」
「ゲッ、見てたんスか。いやでも過去の資料とか使って臨機応変に対応できたんで問題ないっしょ!」
自分たちデザイン部の仕事を軽んじられているような発言には憤りを感じなくないが、上手くいったのならそれでと思うことにした。
けれど、ではなく丸井の方が「お前な」と切原を珍しく真面目なトーンで窘めた。
「行き当たりばったりと臨機応変を一緒にすんじゃねぇぞ。どんなに準備しててもアクシデントは起きるから咄嗟の対応が大事なのは確かだけど、それは準備を怠ったり軽んじたりしていいってことじゃねぇんだぞ」
「ったく、しっかりしろよ。期待のエースなんだろい!」と丸井はいつもの調子で切原の脇っ腹を小突いた。
説教というほど押し付けがましくもなく、もとより信頼関係がきちんとあるからか、切原も素直に「はい」と丸井の言葉を受け入れる。
他人に怒ることは簡単でも叱ることは難しい。は改めて丸井を尊敬した。
切原はさっそく遠目に自分の顧客を見つけらしく、「じゃ、俺仕事してきます!」と丸井とに元気よく告げ、その場を離れていった。
丸井はそんな切原の背中を見送ったあと、「テラス出ようぜ」とを誘った。
今日はよく晴れていて日差しが強すぎる。室内の方が快適なのでテラス席は人もまばらだった。
「あの噂本当ですか?」
「ん?」
「デザイン部と技術開発部の賞与の件、上に掛け合ってくれたって。それで左遷されちゃったって話」
丸井は「そんな噂まだ残ってたのかよ」とおかしそうに笑う。
「嘘だよ、嘘。確かに俺も提案はしたけど、そもそもそういう話は元からあったんだよ。左遷っていうのも嘘。移動は俺の希望」
はなんだ、と思う。でも、丸井が他人の仕事に敬意を払っているこにはきっと変わりない。
丸井はいつだって当事者でいてくれた。信頼して仕事を任せてくれるけど、責任を放棄したりしない。
上手くいかななければいかなかったことを、上手くいけばいったことを、一緒に共有してくれるひとだった。
だから「お前も一緒に帰んねぇ?」と言われたとき、はその一方的とも言える態度に違和感を持ったのだ。
「俺さ、将来自分の店やりたてぇんだよ」
「え、なんのですか?」
「レストラン」
「シェフ?」
「いや、経営な。実はそっちの道も考えなかったこともないんだけどさ、俺には経営の方が向いてっかなって。まぁ、それで今は資金貯めたり人脈広げたり、できることからって感じ」
自信と野心、行動力や決断力、なにかを自らはじめるために必要な大事なものを丸井はすでに持っているように見えた。
だからは丸井の話が“夢”の話だとは思わなかった。近いうちに実現させるであろう“未来”の話として聞くことができた。
「だから、私だったんですか?」
「ん?」
「いや、だから私なのかなって……。一緒に帰ろうって、一緒に仕事しようって意味なのかなって」
それなら納得できるとは思った。
これまで丸井はに多くの仕事を任せてくれた。
見知らぬ土地で慣れぬ職場で不安だったにとって自分の能力を買って信頼してくれた丸井の存在はとても大きな励みになっていた。
丸井のおかげで実力以上の仕事ができたこともある。
丸井の期待には絶対に応えたい。いつしかそれはの仕事のモチベーションにもなっていた。
だから、“ビジネスパートナー”として、自分を選んでくれたのだとしたら、それはにとって誉れ高いことだ。
だが、納得しかけたのとなりで丸井はあからさまにため息を吐いた。
「んじゃ逆に訊くけどさ、お前は俺と一緒に店やりてぇの?」
は丸井の切り返しに口を閉じた。
確かに、レストランを経営するうえで、デザイナーとして関わることは可能だとしても仕事は限られてくるだろう。広報を兼ねるにしてもおそらくそれはかなり無理がある。
ならば、経営やそのほか裏方の仕事を手伝うとしても、それこそそれならより有能な人間は掃いて捨てるほどいるはずだ。
それに、は今の自分の仕事をあっさり捨てられるかと問われたら返事に困るだろう。
凡庸な自分が今の職業に向いていないと思ったことは何度もある。
自分が選んだ道だが、は自分に才能があるとは一度も感じたことがなかった。だから、それを補う努力はしてきたつもりだけど、それで賄えるほど甘いものではないのかもしれないことに薄々気づきはじめてはいた。
ときどきは仕事のことを考えると、懸命に歩いていもなかなか近づけない高い塔を仰ぎ見るような気持ちになった。
辿り着きたいと願いながら決して終わることのない旅に出てしまったんじゃないかと不安が消えたことはない。
ここまでやってきたと胸を張れるほどの自負もない。
でも、心のどこかで諦めきれないものを抱えていた。
自分にしかできないこと。まだやれること。そういうものがどこかにあるんじゃないか。そんな青臭い希望がどうにも捨てきれずにいた。それこそが未熟者の証しだとしても。
何も答えられずが黙ったでいると、今来たらしい顧客が丸井を攫っていく。
丸井の遠ざかる背中を見つめながらの心は自己嫌悪でいっぱいになった。
ただ「東京には帰りません」と言えばいいだけの話なのに、その言葉がなかなか言いだせない。
自分が答えを餌にして丸井に自分が言わせたいことを言わせようとしていることにはやっと気づいた。
は理屈屋の自分を丸井に説得してほしかったのだ。
なにもかも関係ないと、今ある悩みも迷いも不安もそのすべてを薙ぎ払って、強引に導いてほしかった。悩む隙も与えないほどに。
は無意識に自分の将来に対する責任から逃れようとしていたのだ。
お前が満足する答えはお前の中にしかない——柳が言った言葉通りだった。