配達の仕事はしばらくできないので、謙也は本部で事務の仕事に回された。
これを機会に本部へ来ないかと誘われたが、自分が毎日スーツを着てオフィスに出社するということがどうにも想像できず保留にさせてもらっている。
一日の仕事を終える頃、謙也の携帯がメッセージの着信を知らせた。からだ。
毎日のように連絡をとりあっていた謙也とだが、事故の日から謙也はにメッセージを送らずにいたら、三日も連絡が止まっていた。
やっと着たからのメッセージには〈お疲れさま〉と社会人において当たり障りのない言葉が綴られていた。
謙也は通話のボタンを押す。
〈もしもし、今ええか?〉
〈大丈夫ですよ。ちょうど今会社出たところで〉
〈ほな、ちょっと買い物頼まれてくれへん? 俺、今怪我しとって動けへんねん〉
〈えっ!? 怪我? 大丈夫??〉
〈まぁ大丈夫は大丈夫なんやけど脚やってもうてな。せやから、歯磨き粉と、あと適当に食うもんとか頼めるか?〉
わかりました、と言って電話が切れる。
それから一時間が経ち、謙也の部屋のインターフォンが鳴り、荷物を抱えたが謙也の部屋にやっとやってくる。
一度自分の家にも帰ったのだろう。自前のエプロンを付けて、髪を束ねたはテキパキと荷物を整理しながら「怪我どれくらいで良くなりそうなんですか?」と謙也に尋ねた。「神経やってもうたからわからへんな」と謙也は答える。
「せやから仕事も辞めてん」
ベッドに腰を下ろして座っている謙也の元にが近づいてきて、そっと謙也の手を握った。
それから謙也を励ますようには優しく微笑んでみせた。
「大丈夫だよ」との心の声が聞こえた。なので、謙也も心の声で「なにが大丈夫やねんっ!」と返す。
なにもかもに腹が立っていた。
謙也には怪我をして仕事を失った恋人を前にして取り乱さずにいられる神経もわからない。
所詮他人事。にとって自分は“今”だけの存在にすぎないということだ。
本部に来ないかと上司に誘われたとき、「そろそろお前も身固めなアカンやろ。いつまでも若者気分でフラフラしとったらあっという間に年くって独りで死ぬ羽目になんで」と冗談で脅されたことを思い出す。
結婚をするためにはバイク便の兄ちゃんのままではダメらしい。
充実した生活を送って輝いているの側にいると謙也は自分の闇がより一層濃いものになっていくような気がした。
「なぁ、それより舐めてくれへん? 右手も使われへんから自分で抜けへんねん」
が謙也の顔をまじまじと見た。
その綺麗な顔がぐちゃぐちゃに歪むところが見てみたい。謙也の中で突発的に湧いたドス黒い感情が渦を巻く。
「なに固まっとんねん。なんぼお嬢さまでもそれくらいしたことあるやろ」
が「……私、お嬢さまじゃないよ。家柄がいいのは謙也さんでしょ?」とボソッと答えた。
「まぁ、爺さんからは勘当同然やけどな。せやから遺産とかそういうんは俺には回ってこうへんと思うで。当てが外れたか? 堪忍な。そや、こんな身体やから面倒になって昨日からシャワーも浴びてへんけどかまへんよな? したあと自分がうがいでもしたらええ話やもんな。イソジンなら戸棚のどっかにあったはずやで」
かつて子どもだった謙也は努力をした。
祖父の怒りを理不尽だと思いながらも、母を庇うため、そして心のどこかにそんな祖父にも愛してもらいたいと思う気持ちがあった。
運動会の短距離走ではじめて一位にを取ったとき、意気揚々とそのことを報告しに行った謙也は「それが一体将来なんの役に立つんや。そんなことよりまたテストの成績で侑士に負けとったやろ! 悔しないんか!」と祖父に叱られた。
父や母に「よう頑張ったな」と頭を撫でられ褒めらても、謙也はどうしても満ちたりなかった。
自分が自分のままではダメだと思う人間がこの世にいる。しかも、無条件に愛をくれるはずの身内に。
その苦しみは謙也の中に未だ居座り続けていた。
の悲しそうな、哀れむような、そんな瞳と目が合う。
「……もうええわ」
謙也が立ち上げろうとするとが「待って」とそれを止めた。
「待って。服、脱いで」
「もうええ言うとるやろ」
「じゃなくて、お風呂。入るの手伝うから」
ね、ほら、バンザーイと促される。
「馬鹿にしとるんか」
「してないよ」
「ロクでもない彼氏に尽くして気分ええか」
どんどん酷いことを言ってしまう自分に苛立って謙也は髪を掻きむしった。
のことをこれ以上傷つけたくないのに、今の自分では一緒にいるともっと酷いことをして言ってしまいそうになる。
まるでかつて自分の心を言葉や態度で傷をつけた祖父が自分に乗り移ったようで恐ろしい。
謙也はをかつての自分にしたくなかった。
「……さっきの全部嘘や。仕事辞めてへんし、腕も脚も二ヶ月もすればちゃんと治る」
が心の底からほっとしたように「よかった」と囁いた。
「試してん。自分のこと」
謙也は正直に白状した。
もともと嘘は得意じゃない。
「いいよ」
「なにがや」
「八つ当たりしても。謙也さんがしたいなら」
がそっとまた謙也の手を取った。冷たい指先が熱をもって疼く傷を癒す湿布のように気持ちがいい。
「……したない」
じゃあ、どうしたい? と訊かれ、優しくしたいと謙也は答えた。
自分より小さな身体に包むまれて謙也はこれ以上ないというほどの格好悪さを晒す。
けれど、これが史上最悪ならもう怖くない。逆転の発想だ。
そう開き直ることにした。
「なんで服着とんねんっ!」
靴下を脱いで腕まくりをしたが浴室に入ってきた瞬間、謙也は吠えた。
謙也の声がうわんうわんと浴室でよく響く。
「だってお風呂入るのは謙也さんでしょう」
「一緒に入ったらええやんけ」
が言いにくそうに口をもごもごと動かしながら「……やだ」と小さい声を出す。
「なんでやねん」と謙也がツッコむとからは「恥ずかしい……」という答えが返ってきた。
「今更かっ!」という謙也のさらなるツッコみは無視され強制的にシャンプーがはじまる。
一緒に風呂に入るという約束は怪我が治ったらということになった。
怪我が治ったら。いや、その前に治るまでのあいだもいっぱい話そう、と謙也は思う。
お互いにまだ知らないことがたくさんある。知りたいことも、知らなくてはならないことも、知ってほしいことも。
勝手に寂しくなっていたんじゃもったいない。なにもかもは無理でも大切なことを少しずつ分かち合えたら——。
雲間から光が射したように思えた。
謙也にとっては月の光だ。美しく冷たく輝き、闇夜をそっと照らす。手を伸ばしても届かないもどかしさもあるけれど、不安に押しつぶされそうになったとき、ふと見上げると優しい気持ちになれる。
願わくばにとっての自分も光でありたいと思う。
月を照らす太陽のように。
違っていて当たり前、違うからこそお互いが必要なのだ。