「お前、今なにしてるん?」とだいぶ出来上がった様子の奴が謙也の肩を乱暴に抱いたので、その拍子に相手が飲んでいた酒が溢れて謙也のジーパンに小さなシミを作った。

「せやから、し、ご、と。なにしてんねんって」

 謙也は視線が自分に集まるのを感じたが、特に気にする素振りも見せず「バイク便の兄ちゃんやで」と答える。
「今久しぶりにみんなで飲んどんねん。お前も来いや」と大学時代の友人から急な誘いが入ったのはついさっきのことだ。
そのときに「今仕事中やねん」「そんなんええやん。てゆーか、お前なんの仕事しとるん?」「バイク便の兄ちゃん」というやりとりをしたはずだが、相手はそのときすでに酔っ払っていたので覚えていないらしい。
 謙也は中退した自分が未だその“みんな”の枠に数えられてることが単純に嬉しくて、仕事が終わると言われた店へ向かった。
 みんなというのは結局四人だったが、卒業以来こんなに集まったのは始めてだと言う。
みんな忙しい社会人だ。そして、謙也以外の全員が医者だった。

「で、お前結婚は?」
「なんやねんさっきから。お前、俺にどんだけ興味あんねん。そういうお前はどないやねん」
「俺はしとるで」

 ほら、と左手の薬指の指輪を見せられる。
「指輪外しただけで浮気疑われんねんで。しんどいわ」とぼやきながらそいつは酒を煽ったあと、「まぁ、こんなんしてても全然余裕で浮気できるんやけどな」と白い歯を剥き出しにした。
 謙也のスマホの画面が一瞬光り、メッセージの受信を知らせる。からだった。
すかさず「誰や? 女か?」「どんな女や。ちょっと見せてみ」と全員から探りが入る。
謙也はそれを適当にあしらい、「ほな俺もう行くわ」と立ち上がった。
「なんやお前友達より女か」という総ツッコミの中、謙也は財布を取り出す。

「お前ウーロン茶一杯しか飲んどらんやろ。金なんかいらんで」

 謙也は「そうか。ほな、ごっそさん」と応えて店を後にした。
バイクは駅の近くに停めてあるのでそこまで歩いて取りに行く。
そのあいだにに返信を打った。

〈今から会いたいんやけど迎えいってもええか?〉

 謙也はの返信を待たずにバイクに跨った。
バイクで向かえばの会社にはすぐそこだ。
謙也がの会社の前に着く頃にははすでにいつもの場所で謙也を待っていて、謙也に気づくと嬉しそうに手を振っているのが見えた。


 今年の四月に担当地区代わり、謙也がそのエリアで初めて請け負った仕事がスタンドヘヴン——のいる会社からの依頼だった。
 最初に謙也が挨拶をしたのはではなかった。
どうやらこの四月からここ大阪に来たらしいその社員は、謙也が住所の間違いを指摘すると混乱したらしく、「ちょっと待っててください」と慌てて別の人間に助けを求めにいった。
そのとき呼ばれたのがだった。

「お待たせしてしまってすみません。こっちの住所でお願いします」

 落ち着いていて柔らかい物腰。
言葉のイントネーションで関西出身ではないことがすぐにわかったが、首にかかっている社員証はたまたま裏を向いていたので名前まではわからなかった。
「かなり急ぎなんですけど大丈夫ですか?」と訊かれ、謙也は即座に配達希望時間と配達場所を照らし合わせて、「大丈夫やで」と笑顔で請け負った。
「よかった」とほっとするを見て、この荷物をなんとしても迅速に届けてやりたいという気持ちが強くなる。
 荷物を専用のバッグに詰めて謙也がその場を去ろうとすると、「あっ」という声が謙也を引き止めた。

「外、雨降ってるみたいなんで気をつけてくださいね」

 謙也はこの仕事が嫌いではなかったが、ときどきひどく適当にあしらわれることがあるのは癪だった。
サービス業の人間をロボットかなにかと勘違いしている人間がある一定数いるらしいことを謙也はこの職について感じずにいられなかった。
後になって思えば、あれは自分のことでなく荷物のことを心配していたのだと気づいたが、「よろしくお願いします」と丁寧に頭を下げてくれたがその一定数の人間に含まれていないことは確かだった。
 その日これまた偶然にも同じ会社の廊下で謙也は高校の同級生である白石と再会した。
一瞬で当時の思い出が蘇るほど白石は昔と全然変わっていないように見えたが、ダークグレーのスーツをパリッと着こなしている姿は確かに年相応の社会人にもちゃんと見える。
その白石に「謙也全然変わってへんな」と言われ、内心謙也は複雑な気持ちが込み上げたが表には出さなかった。
そして、白石と飲みに入った先で、謙也はと再会した。そのとき、“”という名前もはじめて知ることになる。
 そのが今や謙也のとなりいる。
 は謙也が思っていたとおりの女だった。
大抵の仕事は卒なくこなし、同僚や後輩からも頼られいるしっかり者。誰に対しても礼儀正しく、優しい。
おまけに、さっきの飲み会での写真を見せれば元同級生たちは間違いなく嫉妬して謙也の首を絞めていたであろうことが容易に想像つくほどの容姿ときてる。
つい最近も転勤が決まった同僚から告白されたらしい。
そんな彼女は謙也にとって自慢の彼女だった。
絶対に振り向かせたい。その一心でめげずに誘ったかいがあったと心から思ってる。

「はい」

 がお盆を抱えてキッチンから出てくる。
目の前のテーブルに小鉢が置かれて謙也はハッとした。

「さっき謙也さんが来る前に『ぎん』で買ってきたんです。あそこテイクアウトもしてるんですよ」

 好きでしょうこれ、と言われたのは牛スジの煮込み。確かに謙也の好物の一つだ。
「お、すまんな」と応えようとするが咳が出たでそれを邪魔した。

「風邪ですか? お酒やめときます?」

 謙也は「かまへんかまへん今日は飲みたい気分やねん」と答えてグラスを手に取って自分で酒を注いだ。
 どうしたの? 大丈夫? なにかあった? との心配顔には書いてあったが謙也がそれに気づいて欲しくないと悟るとそれ以上なにも言ってこなかった。
 は決して他人の領域に土足でズカズカ踏み込んだりしてこない。なにも言わずにそっと寄り添って怒りや悲しみが凪いでいくのを辛抱強く待っていてくれる。せっかちな謙也とは正反対だ。
 謙也はキッチンに戻ろうと立ち上がったの身体を後ろから抱きしめた。エプロンの紐はわずかに引っぱっただけでもすぐに結び目が解ける。

「謙、んっ……」

 謙也は半ば強引にの唇を奪い、その場に押し倒した。は驚いている様子ではあったが抵抗はしてこない。
謙也は邪魔な服を脱ぎ捨て、次いでの服もすべて剥ぎ取った。
謙也はのひやりとした身体が自分の体温で徐々に温まっていくのを感じるのが好きだったが、今はそんなことに浸ってる余裕はない。
 そのままの身体に覆いかぶさり体重をかけてガンガンと腰を獣のように荒く動かした。
伝う汗が目に入って謙也は片目をつぶる。は謙也の下で両目をつぶって嵐を過ぎるのをじっと待つかのように口を一文字に結んで堪えていた。それに無性にカチンときて、ことさら腰を激しく振った。
 行為が終わるとは素早く衣服を身につけ直し、「これ温め直してくるね」と何事もなかったかのように立ち上がってひとりキッチンへと消えていった。
 ——なんていうのは全部謙也の妄想だ。
実際は何食わぬ顔で酒とツマミを口に運び、たわいのない話をして笑い合い、そして夜はに無理をさせないようにできるかぎり優しく彼女を抱く。間違っても妄想のように自分勝手に抱いたりしない。そんな可哀想なことできるはずがない。
 謙也はときどきのことを無茶苦茶に壊してしまいたくなるときがある。
辛いのは、それほどまでに好意を募らせているのは所詮それは自分の方だけで、はそれほどまでではないんじゃないかという現実だ。が悪いわけではない。そこがさらにどうしようもなかった。
 温度差があるのは身体だけじゃなく、心も同じだった。



 しょうらいのゆめ 忍足謙也
 ぼくのしょうらいのゆめは——

 謙也の子どもの頃の夢は医者だった。夢、とは少し違うかもしれない。
ただ漠然と自分は将来医者になるんだろうと思っていたし、自分の周りもそう思っていた。それが忍足一族では当たり前のことだった。
特に祖父は厳格で息子や孫たちの教育には余念がなかった。
鋭く厳しい目を光らせ、自分の思い通りにならなければ子どもでも容赦なく罵った。
当時からやんちゃだった謙也は目についたのであろう。ことさらよく怒られた。
一度勉強のことでも怒られたことがあった。その頃通っていたテニスクラブに夢中で勉強が疎かになっていたのが原因だった。
そのとき祖父は謙也の母のことも罵った。「看護婦なんかと結婚させたんが悪かったわ」。子供の前で祖父はそう吐き捨てた。
 謙也の母は看護師をしていて、今も謙也の父と一緒に診療所で忙しく働いている。
思春期の照れもあり、言葉や態度にこそ出さないが、謙也は子どもながらにそんな両親を誇らしく思っていた。
 謙也の祖父は歪んだ価値観の持ち主で、看護婦は医者の結婚するために看護婦になったのだ思い込んでおり、当初結婚にも相当反対したらしいことを親戚が噂していた。
「聞いとるんか!」と祖父から杖で殴られた謙也は反抗心から医者になんぞ絶対になるもんかとそのときは強く思ったのだが、時が経ち気がつけば謙也は医学部に入学していた。
一族や祖父の名誉のためではなく、地元の人間に愛されている町の診療所の長男として謙也は医学の道を選んだ。
 医学部に入り、そこで謙也は野村という同級生と出会った。
寝坊で遅刻が多く、よく怒られていたから謙也もその存在を知っていた。
医学部の学生は思った以上に謙也と同じく医者の息子や娘が多い。そうじゃないにしても一般的には富裕層と呼ばれる家庭の子どもがほとんどだ。
野村はその例に反していたため自分で学費おろか生活費も工面せねばならないらしく、学校以外の時間のほぼすべてをアルバイトに費やさなければならないほどで、遅刻の理由は大概それだった。
いつも目の下に隈をつくり、遅刻して怒られても授業には必ず出席し、必死にノートをとっている姿は影で嘲笑の対象になっていた。
「そうまでして医者かねもちになりたいもんかね」と。
謙也も馬鹿にこそしてないまでも、やはり周りと同じくなぜそこまでして? と疑問を持っていたが、そのときは本人に訊いて確かめるほどの関心はなかった。
 飲み会で野村と一緒になったのは偶然だった。ある授業の打ち上げで担当教授も来ておりここは奢りということになっていた。
後半トイレに立ったっきり帰ってこない野村を心配して謙也がトイレに行くと、案の定野村はゲェゲェと吐いていた。

「あかんな。久々に呑んだら全然呑まれんくなっとった」

「タダ酒や聞いて呑みすぎたわ」と野村は笑った。
相変わらず不健康そのものの顔つきだが不思議と悲壮感はない。「なにやっとんねん」と謙也もつられて笑いながら野村の背中をさすってやる。
「もう大丈夫。おおきに」と言って立ち上がった野村の背中に謙也が思わず声をかけたのは深い考えなどなく、本当になんとなくだった。けれど、それは謙也の中でずっと消えないまま残っていた疑問でもあった。

「なんでそうまでして医者になりたいん?」

 “医者”という職業にどんな価値を見出して彼がこんなにも努力しているのか、謙也は切実に知りたかった。
 野村は謙也を見て朗らかに笑って答える。

「儲かるやろ」

 意外な答えに謙也はぽかんと口を開けた。その顔が面白かったのだろう。野村が吹き出した。

「お、っ前、俺はな、真剣に——」
「俺んちずっと貧乏やったから、これから俺がたくさん稼いで家族に楽させたいねん」

 それにな、と野村が続ける。

「金が仰山稼げてみんなのためにもなる。ええ仕事やん、お医者さんって」

 謙也が野村と言葉を交わしたのはそれが最後になった。
野村はその一週間後に風邪を拗らせて亡くなった。
独りでアパートで死んでいたところを家賃の催促にきた大家に発見されたのだという。
野村は医者になれなかった。あんなに一生懸命勉強して頑張っていた野村が医者にはなれなくて、医者の息子だというだけで医者になろうとしている自分が医者になる。なれてしまう。その事実が謙也の心をぽっきりと折った。
 謙也は医学部を中退して就職した。
訳は話さなかったが、両親は謙也の好きにさせてくれた。
診療所はおそらく弟が継ぐことになるだろう。祖父の病院は従兄弟が継げばいい。
三十過ぎてまだちゃらんぽらんしよるんか! ——そう罵られたところで自分が選んだ道だ。後悔はない。
けれど、謙也はこの頃オフィスビルから出てくる同世代の人間がどうしようもなく眩しく見える。
自分だってきちんと仕事をしているのにスーツを着ていないというだけで襲いかかってくるこの劣等感はなんなんだろう。
も、本当は白石のような男がいいんじゃないのか。
自分は車だって持っていない。雨が降ってもバイクじゃ迎えに行けない。白石なら——そんな暗い考えが謙也を包む。
だから、咄嗟の判断が遅れた。
一時停車せず右折しようと車を咄嗟に避けようとしてバイクのハンドル操作を誤った。
謙也の世界から一瞬音も時間の概念も消え去り、次に目を開けたときは硬いアスファルトの上で空を見上げていた。
暗く湿った分厚い埃のような雲からは今にも雨が降り出しそうだ。そんな呑気なことを考えていると、遠くからサイレンの音が聞こえてきて、それがだんだん近づいてくる。
謙也が目を閉じると同時にその頬に最初の一粒が当たった。