見渡す限り空と海。
 大海原にぽつんと一隻ボートが浮かんでいた。
 乗っているのはと仁王だけ。
 帆もなければオールもない頼りないボートは波に揺られただ運ばれていく。
間違いなく危機的状況。にも関わらず仁王は悠々と昼寝をしていた。
そんな姿を見てるとも不思議とまぁ、いいか、という気分になってくる。
仁王に倣っても肩の力を抜いてみた。
優しく髪を撫でる潮風を感じて、目を閉じても瞼を透かして届く光を存分に享受する。
腹も空いていなければ、喉も渇いていない。天候もしばらくは悪くならないだろう。なるようになるしかない。困ったときに困ればいい。
どこまでも広がる碧色の世界。今だけを切り取るならここは楽園なのかもしれない。そんな気さえしてくる。
 随分変わったな、とは自分でも思う。
たぶん以前のならこんな刹那的な考え方はできなかったはずだ。
 仁王はを強くもしたし弱くもした。
 仁王は不思議なひとだ。
掴めそうで掴めない。ヒラヒラと舞う艶やかなアゲハ蝶みたい。
なら、自分は花になろうか。それなら惜しみなく蜜を与えてあげられる。
 ——なんて空想の世界に浸っていた自分をは嗤った。


 一夏のアバンチュールなんてひと昔前の言葉で片付きそうだった仁王との関係はなんだかんだ夏が終わりに近づいても継続してていた。
この関係に名前をつけるなら——は首を横に振ってその考えを振り払う。
目に見えぬものにまで名前を付けたがるのは言葉を持ったひとの悪い癖だ。
今を楽しもうと決めたではないか。

「いい加減なんか食うか」

 半裸の仁王が気怠げに言った。

「そうですね。さすがにそろそろなにか食べましょうか」

「なに食べます?」とが訊くと、「歩いて行けるとこがええのう」と返ってくる。要約するとなんでもいいということだ。
 仁王は以上に食に興味がない。一日一食食べればいい方だ。おそろしく低燃費である。
自炊なんかするわけもないので仁王の部屋のキッチンは綺麗なままだ。
冷蔵庫代わりのディスプレークーラーには少しばかりの酒類と何故それがそこにあるのか問いただしたくなるようなものしか入っていない。
例えばルービックキューブ、知恵の輪、ピンク色の変な機械。見つけたがギョッとすると仁王が「丸井に貰った」と飄々と答える。
例のアダルトサイトのクライアントから貰ったものを引越しの際に邪魔になったのか押し付けられたらしい。
仁王は「『この商品を買った人はこんな商品も買っています』」と透明な液体が入ったボトルもクーラーから取り出し、それをに見せつけるようにニヤニヤとしながら軽く振ってみせた。
よく冷えたそれは昨夜の火照った身体に垂らされ、今は空になったボトルが部屋のゴミ箱に無造作に捨てられいた。

「じゃあ『ぎん』にでも行きます? お店で食べてもいいし、あそこテイクアウトもできるんですよ」

 そう言っては適当に身支度をした。
会社の近くだが、今日は休みだ。まぁたぶん誰かに見られることもないだろう。
完全に気を抜いていた。
『ぎん』の暖簾をくぐり、は自分が浅はかだったことを早々に思い知る。
店の入口で固まるに、僧侶風の大将がいつも通りにこやかに「おいでやす」と声をかけてくれたが反応が返せない。
これはその、あの、……という言い訳は通じないだろう。
カウンター席に腰掛けて一人でご飯を食べていた丸井がたちを見て「よお」と苦々しげに挨拶をした。

 結局料理はテイクアウトすることにした。
その用意がすむまで店の端で待つ。そう広くもない店なので丸井と距離を取るのも難しい。

「なに、お前ら付き合ってんの?」

 と堂々と言葉にされてはとても困った。困った表情のまま笑って誤魔化して、「丸井さんは今日どうしたんですか?」と明からさまに話題を変えた。

「ん、仕事の引き継ぎで出張。んで、久しぶりにここの飯食いたくなってさ」

「お前ら一緒に住んでんの?」とズバリ訊かれ、は「まさか」と言って首を横に振った。
丸井は「ふ〜ん」と不服そうな声を漏らす。
は早くテイクアウトの用意ができることを必死で祈った。
なのに、店の奥でガッシャンガラガラと盛大な音と「またやってもうた〜」と言う大きな声が聞こえ、大将が「すまんな。もう少し待っとってくるか」とたちに残して店の奥に引っ込んでしまった。

「この世は諸行無常。形あるものいつか壊れる。せやけどな、金太郎はん、大概にしてもらわんと店の方が先に潰れてまうで」

 大将の嘆きにアルバイトらしき男の子が「ごめんな〜銀。堪忍したってや! 堪忍堪忍!」と元気に答えているのが丸聞こえだ。これはまた皿を割るな、と店にいる全員が悟った。

「ま、それもええかもしれんの」

 急に口を開いた仁王にが「え?」と訊き返した。

「一緒に住むか」
「え?」
「ほんで結婚でもするか」

 なにを突然言い出すんだと思えば、仁王がの左手を取り、そっとひと撫でした。
するとさっきまでそこにはなかった銀色の輪がの薬指にはまっていた。サイズもぴったり。お得意の手品である。でも、これは——……
流石の丸井もギョッとしての顔を窺った。

「……ん、ですよね」

 聞き取れなかったらしいので、はもう一度はっきり「冗談ですよね?」と言う。
は自分でも怖いくらい冷たい声が出て内心驚いたが、止められなかった。

「……冗談じゃないんだったら、なんでこんなとこで、こんな急に、しかも他人の前で言うんですか?」

 どんなに待っても仁王の答えは返ってこない。

「私、結婚なんか絶対にしません」

 は勝手にはめられた指輪を抜き取りカウンターに置いて店を出た。
歩く速度がどんどん増して耳元でびゅうびゅうと風をきる音がする。
はあがった息を一旦整えるため立ち止まった。
辺りを見渡してやっとここがどこだか初めて気づく。
仁王と一緒にコーヒーを飲んだあの橋の上で、はたまらずその場に蹲った。
 ——なんであんなこと急に……
「好きです。付き合ってください」「はい、喜んで」なんて明確な言葉で契約を交わさなくともいい。さすがにそこまで子供ではない。成り行きではじまる関係も容認できる。
そもそもふたりの間にあるものはそういう類のものなのだろうか。愛だの恋だの重量を伴うものでないからこんなにも身軽でいられるのではないのか。
 “今”を楽しむだけの関係ならそれでいい。でも、結婚はきっと違う。
点ではなく線だ。見えない未来を担保入れて不確かな幸せを手にいれる行為。
未来なんか今以上にどうなるかわからないのに。
 仁王はを抱くとき「可愛えのう」と囁いての身体中にスタンプを押すように薄い唇を当てる。
の方からうっかり「好き」なんて言葉が漏れそうになったときはいつもキスをして誤魔化していた。
「好きだ」「愛してる」そんな言葉はいらない。「可愛えのう」だけで充分。キスだけで、抱いてくれるだけで、一緒にいてくれるだけで充分……。
 頭が冷えて少し落ち着きを取り戻したは店に戻る。
だいぶ時間を明けてから戻ったはずなのに、丸井がまだ店にいて気まずい思いをする羽目になった。
もちろん仁王の姿はない。

「すいません。さっきお料理注文したのに出てちゃったから……」

 仁王のことだ、一人で持って帰るはずがないとは踏んでいたが、やはりその通りだったらしい。
カウンターの裏にはパック詰めにされてビニル袋に入れられたお惣菜がきちんと取り置かれていた。
は代金を渡し、大将からそれを受け取る。

「お前さ、本当に絶対結婚しねぇの?」

 が答えられずにいると丸井がはぁと盛大なため息を溢した。

「アイツはさ、いや仁王のことな。昔からこうなんだよ、いつも。一番肝心なこと言わねぇで煙に巻くっつーか……」

「冗談じゃなかったと思うぜ?」と言われて、は「わかってます」と静かに答えた。
 冗談じゃないとわかってたから怖かったのだ。
同僚、セフレ、恋人、夫婦。曖昧なふたりの関係に名前をつけて確かなものにしてしまうのが怖かった。
この世は諸行無常。形あるものいつか壊れる。壊れるくらいならはじめからなくていい。仁王の気持ちは完全無視ののわがままだった。
 丸井はを弱さを見透かして、あえて背中を押すように

「それ持って帰ってさ、早く仲直りしてこいよ」

 と笑う。
「お前には幸せになってもらわねぇと困るんだよ、俺が」と言える丸井は今のには優しすぎて涙が出そうになった。



 緊張しながらチャイムを鳴らす。
しばらく待ってみたが応答はない。
もしかしたら早々にに愛想を尽かしてあのまま夜の街に一人繰り出したのかもしれない。
 すっかり夜は肌寒くなっていた。薄手の半袖シャツ一枚では心許ない。
季節がまた一つ終わろうとしていた。季節と一緒にこの恋とも呼べないぬものを終わってしまうのだろうか。
はじめからボートは岸につけず転覆する運命だったのかもしれない。
 はよろよろっと外廊下にしゃがみこんだ。
意味もなく見上げた空には嘘見たいにまん丸な月が浮かんでいた。仁王にも教えてだげたいな、と思う。
どれくらいそうしていただろう。なんの前触れもなくドアが内側から勢いよく開いた。
外廊下の隅にを見つけた仁王が「……なんでおるんじゃ」と嫌味を言うので、も負けじと「それはこっちの台詞です」と唇を尖らせる。
 夜風にしばらく当たっていたせいかがくしゅんと一つくしゃみをした。

「お前さんの性格からして人前で言うた方が断れん思うてさっき言うた」

 情けない理由だなぁ、とつくづく思う。情けなくて、格好悪くて、でも同時にとても愛おしい。
仁王の不意に見せる弱さをはすでに充分愛していた。
「悪かった」と素直に謝る仁王をの方から抱きしめた。
ほの温かいぬくもりが寂しい夜に終りを告げる。



「俺を傷つけた罪は重いぜよ。それ相応な罰を受けてもらわんんとな」

 すっかり調子を取り戻した仁王がの身体にこれでもかとくっつきながらキスを繰り返した。

「好きじゃ、。俺から離れんな」

 ふわふわとどこかに行ってしまわないように重い重い愛の言葉つきで。