憧れの鞄を買ったくらいで人生が好転するなんてそんなうまい話がそうあるはずもなく。
は誰もいないオフィスで小さくため息を吐きだした。
窓の外では燦々と太陽の光が降り注ぎ、自分以外の人間が夏を謳歌しているように思えてしまう。
自分だけが楽しい夏から締め出されたような惨めさがを襲う。
本当なら今頃、は伊豆の温泉旅館で昼間から露天風呂に浸かっている予定だった。
ゆっくりのんびり一人旅。あの鞄を持って。
けれど、実際のはいつものオフィスでカタカタとキーボードを叩いている。
データを送り、メールを打ち、先方の校正を待ち、また修正をしてデータを送り、メールを打ち……かれこれそれをすでに三ターンも繰り返していた。
納品したデータにミスが発覚したのは昨日だった。担当はではない。
生憎、デザインを担当していた早川という先輩はすでに夏季休暇に入っていた。
どないする? 早川さんにメールする? いや、でもこれ納品までの期日やばいから電話した方がええんちゃう? とデザイン部の誰もがヒソヒソと話し合うだけで、実際は誰も動こうとしない。
はふと、早川が「やっと下の娘が大きくなって外のホテルとか泊まれるようになって。ずっと上の子には我慢ばっかりさせちゃってから罪滅ぼし」と千葉にある某テーマパークのホテルに家族で泊まる予定を嬉しそうに話していたことを思い出す。
「私、やりますよ」
みんなの視線が一斉にに集まった。
「私、前にそこの会社のウェブ担当したことあるんで、担当の方とは面識あるんです」
そうか、それならな。せやけどさんも明日から休暇やん。と、一人が言う。
「大した用事ないんで一日くらいつぶれても大丈夫ですよ」
さすがデザイン部の女神様やなぁ、とやっぱり誰かが呟いてそれでその話は終わった。
きっとこの場に一氏がいたら、「お前アホちゃうか」と遠慮なくを罵っていたことだろう。
学生の頃からこういうことはよくあった。
放課後のホームルーム。係が決まらずクラスは険悪ムード。誰かがやらねばならない。でも誰も立候補しない。
そんなとき、は「じゃあ」と手を上げてしまう。それでこの場が丸く収まるなら、と。
ピーッ、ピーッ、ピーッ、とコピー機がを偉そうに呼びつける。
どうして電子機器の音はこんなに癇に障る音なのだろうか。
はぁと重いため息を落として、がコピー機の方へ向かおうとすると、上から今まさに取りに行こうとした印刷物が降ってきた。
しかも驚いて後ろを振り返ろうとすると首筋になにか冷たいもの押し当てられ、は悲鳴を上げる。
それを声にならない声で笑っているのはアロハシャツ姿の仁王だ。
「ええ??」と心の声がそのままの口から漏れる。
「ほれ」と手渡されたのはキンキンに冷えたビール。どうやら先ほど首筋に充てられたのはコレらしい。
仁王の手にも同じものがあり、すでにプルトップが開けられていた。
仁王は空いているイスに適当に腰掛け、缶の中身をグビグビと飲み干している。
もろもろツッコミどころはあるがありすぎて、なにからまずツッコむべきがが「えーっと……」思案していると電話が鳴った。
〈——あ、ハイ。そうですね、ハイ。本当にこの度はこちらの不手際で大変ご迷惑おかけしました。——ハイ。では、今後ともよろしくお願いいたします。ありがとうございました〉
電話を終えると仁王が「お疲れさん」と缶ビールを片手に軽く掲げた。
は手元のビールを数秒凝視する。迷ったすえ手を伸ばした。プシュッと炭酸が抜ける音が小気味いい。これくらい許されるはずだ。
ほとんど一気に飲み干すと仁王は「いい飲みっぷりじゃ」とケタケタと笑った。
「そんじゃ行くとするか」
「どこへ行くんですか?」というの当然の疑問にはニヤニヤと笑うだけで答えるつもりがないらしい。
仁王の言葉は「行こう」でも「行くぞ」でもなかった。あくまでも最終判断を下すのはということらしい。
だから、もしこれでついていったらこの後起こることの半分はの自己責任になる。
は空になった缶を捨てて、急いで仁王のあとを追った。
◇◆◇
「ほんまについさっきですよ。一組キャンセルが出て。お客さん、ほんまにラッキーやわ」
中居さんが足音も立てず長い廊下を先導してくれる。
案内された部屋は角部屋だった。窓を開けると先ほどボートで渡った桂川が見える。
「なにかございましたらなんなりと」と残し、中居さんが部屋をでていった。
ベンチソファ、ライティングデスク、そしてキングサイズのベッドが一つ。そんな部屋に仁王とがふたりきりになった。
梅田から電車を乗りついで約一時間。
ここに着くまでは何度「ええ??」と溢しただろうか。
そろそろ感覚が麻痺してきた気がする。
「旅行ってもっと事前にちゃんと準備したりしないとできないものだと思ってました」
観光したい場所を調べて、宿を探し、予約して、必要なものを買い揃えて、鞄に詰めて。
にとって旅行とはそういうものだった。
だから特別だし、億劫で、滅多にする気にならない。
だが、今日はどうだろう。
仁王がどこまで想定していたのか知れないが、どうやら宿の予約も電車に乗っている合間にしたようであるし、持ち物だって財布と携帯くらいに見える。
だってあのとき買った鞄に大したものは入っていない。
「案外どうとでもなるもんなんですね」
は大きく伸びをしてため息ばかり吐いていた肺に新鮮な空気を送り込む。
非日常を楽しむスリルがを高揚させていた。
時間を気にせず湯に浸かり、食事を楽しんだ。
ちびりちびりと舐めていた酒瓶が底ついた頃、仁王が
「そろそろ寝るとするかの」
と立ち上がった。
の目の前で浴衣の裾が揺れ、仁王の筋張った足首が見える。
これからなにが起こるか、どうなるか。期待と不安が両天秤。
仁王に合わせてもとなりで歯を磨き、寝支度をした。
だが、いざ同じベッドに入っても待てど暮らせどなにも起こらない。
窓の外の虫の音がやけに鮮明に聞こえる。
たまらなくなっって、
「仁王さん、もう寝ましたか?」
とは暗闇に投げかけた。
返事は返ってこない。からは布団から出ている後頭部が少しばかり見えるだけである。
なんだ。うっかりそんな心の声が漏れそうになった。
てっきり——そんな風にどこかで期待をしていた自分が滑稽だ。
今日は楽しかった。それで充分ではないか。が自分に言い聞かせなようとしたところで
「もう寝たんか?」
と仁王の声が暗闇から今更返ってきた。
どう考えても仁王はの反応を見て楽しんでいる節があるので、「もう寝ましたぐぅぐぅ」と意地を張らずにはいられなかった。
喉の奥が詰まったような笑い声がすぐ耳元で聞こえて、は密かに身を固くする。
「それは好都合じゃのう」と囁いた仁王が許可なく浴衣の合わせから手を差し入れてきたので、はそれを蚊でも叩き落とすようにペチンと叩いた。
「なんじゃ。なんか言いたいことがあるんじゃったらちゃんと口で言いんしゃい。聞いてやらんこともないぜよ」
は身体を捩って振り返り、ありえないほど直近にある仁王の顔をしげしげと見つめた。
今日は楽しかった。それで充分ではないか。——そんなわけない。
たぶんずっとこの日を待ち望んでいた。
「お手柔らかに」
がそう応えると、仁王が目を細めて笑った。
ああ、そんな優しい顔もするんだなと思ったが、それはすぐに裏切られることになる。
でも、それもの期待通りだった。