今日の十五時までに仕上がる予定のアプリの試作品がまだあがってこなかったので、さらにもう一時間待ったあと、は直接技術開発部へ向かった。
制作に必要な素材はすでにすべて渡していたが、作っていて新たに必要な素材が出たかもしれなかったし、なにか協力できることがあるならばと思ったからだ。
「いやさ、ぶっちゃけこれデモなんか作んなくてもデザイン案もうちょっと足せばそれで大丈夫なんじゃない?」
が進捗を聞くと担当のプログラマーは「あー……」と頭を掻いた。
そして、この発言。
確かに簡単なアプリの開発依頼だった。が作ったデザイン案だけでも見せられないこともない。ただ、今度の顧客はこういったアプリ事業は初めてだというので、実際に動くものを見せたほうがわかりやすいだろう、という方針はすでに伝えてあったはずだ。
「俺今さ、立て込んでる案件多くてさ。いや、だからってわけじゃないけど。より少ない手間で仕事を減らすってのも利益を大きくするためには大事なことだと思うんだよね」
「営業にはさんの方から適当に言っておいてよ」と言われて、は反論せずに「わかりました」と技術開発部を出てその足で営業部へ向った。
「いや、なんでそうなんの?」
そして、状況を営業担当に説明するとこう返された。ごもっともだ。
「たくっ、どうすんだよ明日のプレゼン」
頭を抱える営業担当に「とりあえず、私ももう少し画像作りこんで擬似的に動くように見せられるように準備するので、明日はどうにはそれで乗り切りましょう」と建設的な提案をする。
はぁ、とため息を吐いた営業担当が「ほんと勘弁してくれよなぁ、ったく。案件が立て込んでんのはお前だけじゃねえっつーの」と愚痴りながら、自らもまたがまだかたわらにいるのにも関わらず、別件の自分の仕事に取りかかり始めた。
が軽く会釈で挨拶しても気づいていない様子だった。
は一旦自分のデスクに戻ってから、新たに増えてしまった仕事に向き合おうとしたがどうしても集中できなかったので、休憩室にコーヒーを飲みに行くために再び席を立った。
マシンにお金を入れてHOTのボタンを押す。はコーヒーができるまでの間テーブルに座って、思わず「あーーーっ!!!」と叫びたくなると自分をなんとか宥めた。
まず、だ。
百歩譲ってデザイン案だけでよしとしよう。なら、最初っからそういえばいい話だ。
あれは完全にできていない言い訳だった。なにがより少ない手間で、だ。その手間を他人に押し付けている時点で最悪だ。
それから、営業担当も営業担当である。
スケジュール管理は営業の仕事だ。
本来なら十五時に試作があがっていないことをではなく彼が指摘しなくてはならないはずだ。
それを縦割り仕事のように、案件内容だけデザイン担当であるにほってよこし、その後も一切ノータッチ。
デザイナーやプログラマーを自分の手足だと勘違いしている節がある。
両者に共通して言えることは、どちらも当時者であるという認識が薄く、無責任だということだ。
けれど、はそのことを指摘できなかった。
言ってもどうせ無駄と諦めていたところもある。他人のせいにするより、自分で動いた方が早い。そう思ったのも事実だ。
しかし、あとからこんなにネチネチ思うくらいならきちんと意見を主張するべきだった。
勝手に自分で背負い込んで腹を立てているんだから世話ない。
は猛烈に丸井が恋しくなった。
丸井だったら、万が一不測の事態が起きたとしても、独りに仕事を押し付けたりしなんてせずに、きっとギリギリまで一緒になって頑張ってくれるはずだ。
それにそもそも「いついつまでにこれ用意しておいて」なんて雑な仕事の回し方しなかっただろう。
しかし、丸井はもう本社に転勤して大阪支店にはいない。
それに、一緒に東京へ帰らないかという誘いを断ったがこんなことを考えること自体、どのツラ下げて、という話だ。
いなくなったのは丸井だけじゃなかった。
金色は表向き依願退職ということになっているが、先にあったセクハラ騒動が原因になったのは明白だった。
金色を訴えた総務の後輩は、実は以前から小春に気があったようだったのだが、小春が靡かないもんだがら勝手に腹を立てたらしい。
その腹いせにありもしないセクハラを訴えのが事の真相だ。
金色は完全に被害者だった。けれど、会社は後輩の方に味方した。
金色は同性愛者であることを会社でカミングアウトしていたが、その後輩はしていなかった。
かわいいと称されるような容姿をしていたその後輩が「金色に迫られて怖かった」と主張すれば、たちまちそれは“事実”として成立してしまう。
「ほんまは『やってへん』て闘わなアカンかったってわかってるのよ。なにも言わず辞めたりなんかしたら、それこそ認めたようなもんやもんね。でもね、闘って闘って闘って、そうまでしなきゃ自分は存在すら許されない人間なんかって自分を追い詰めることにもなると思うのよ。そんなん、人生短いのに損やろ?」
金色はすでに吹っ切れた様子だった。
金色は自らビジネスを起こすことにしたらしい。
「それに悪いことばっかりでもなかったのはほんまよ」
微笑む金色の視線の先には一氏がいた。
一氏も「こんな会社やってられるか!」と啖呵を切って小春の後を追うようにすでに会社を辞めていた。
今は金色の新しい会社に雑用係でもいいから雇ってくれと交渉中らしい。
一氏は周りの目など気にもせず、脇目も振らずに金色を追いかけた。そのまっすぐな想いがやっと金色にも伝わり、ふたりは今本当に意味で新たな門出を迎えていた。
ふたりの幸せをは心から祝福していた。
けれど、同時に心を許した数少ない人間が自分のそばから離れていってしまうことを心細くも感じていた。
独りになりたいと口先だけでのたまっていた報いかもしれない。
机に突っ伏していると後頭部にコツンのなにかが当たった。
なにかと顔を上げると、そこにはなぜかニヤニヤと笑いながら自分を見下ろす仁王がいた。
頭に当たったのはさっきが買ったコーヒーのコップの底だったらしい。
「お疲れじゃのう」
さっきが技術開発部へ行ったとき、仁王もそばデスクにいた。きっとたちのやりとりを聞いていたのだろう。
は「ありがとうございます」とコーヒーを受け取る。
コーヒーから立ち上る湯気を見ると荒れた心が少しだけ癒された。
「仁王さんっていっつも休憩室にいますよね」と最近思っていたことを何気なく指摘しながら、はその湯気に息を当てた。
「そうかの」
「サボりですか」
「お前さんがここ来るのが見えたから来ただけナリ」
そう言って仁王が「プリッ」とわざとらしく鳴いた。
は、まったくこの人は……と呆れる。こうやって平気でこんなことを言うから変な噂を立てられるのだ、と思うけど悪い気はしなかった。そこが怖い。
朝日に霞む背中を見てしまってからというもの、の中にはどこかしら仁王に惹きつけられる部分が存在していた。
寂しい姿に心くすぐられる女がいるだろうと他人事のように分析していた自分が今それを実感させられていた。
は気を引き締めようとコーヒーを一口啜って、むせそうになった。
「甘っ! なんですかこれ? 砂糖入れました? てゆーか、どんだけ入れたんですか?」
「疲れたときは甘いもんじゃろ」
「太らせて食べる気ですか!?」
仁王は「それもいいかもしれんのう」と悪戯が成功した子供のようにケタケタと笑う。
が非難の視線を送ってもそれは収まらず、結局もつられて笑ってしまったからの負けだ。
は激甘コーヒーを飲み干してから自分のデスクに戻った。
さて仕事しますかと自分に活を入れていると、隣のデスクの塚本がイスごとに近づいてきて、「さっき仁王さんと一緒にいました?」とこっそりと尋ねてきた。
「先輩たち、噂になってますよ」
はあまりの馬鹿馬鹿しさにため息すらでなかった。
ここは会社だ。そんな噂話にかまけている暇があったらみんな仕事をしてくれ、とは切に願った。
危惧していたプレゼンは無事終了した。
行きは不貞腐れて口も満足に聞いてくれなかった営業は今や道頓堀をスキップして歩き出しそうな雰囲気だ。
が作った資料をさもすべて自分が指示して作らせたように振る舞い、手柄は全部営業が持っていったことに腹が立たないでもなかったが、はなりにクライアントが今回のプレゼンを見て前向きになったくれたということ自体に満足感を得ていた。
なのに、の表情が曇っているのはポケットの中で握り潰された名刺のせいだ。
帰り際にそっと渡された名刺の裏には個人的な連絡先が書かれていた。
「今度是非」と耳元でべっとりと張り付くのような声で囁かれたは咄嗟に愛想笑いをしてしまう。勘違いされたかもしれない。
一緒にいた営業に相談しようかとも考えたが、嫌な顔をされることは間違いないのでやっぱり言えなかった。
企画自体はうまく行きそうなのだし、“私なんかのせい”でぶち壊したら——などとは自分を鎮めるべく方向へと持っていく。
結局、同僚に抗議ができないのも、クライアントをつっぱねられないのも、ひとえにの自尊心の低さが原因だった。
昨日は今回の案件の所為で終電ギリギリだった。今日はとにかく早く帰ろうとはいつもより少しだけ早い時間に会社を出た。
薄っすら残っていた陽の光はまだ暑さをたっぷりと残していて鬱陶しい。早く一人でビールが飲みたい。できれば瓶ビール。そんなことを考えていると後ろから不意に呼び止められた。
「久しぶり」
は目の前の相手を凝視した。
狐が化けて出た。そんなまさか。けれどからしたら狐につままれた気分以外のなにものでもない。
以前の会社の先輩であり、元恋人であり、そして結婚式一週間前にを振った元婚約者。その彼がなんの前触れもなく現れた。
「驚いた。どうしたの?」
「本当に驚いてる? 相変わらずはあんまり感情が表に出ないな。実は出張でこっちに来てて、のこと思い出してさ。新しい勤め先は部長から聞いてたんだ」
は彼の左薬指に指輪がないことを確かめた。『好きなひと』とやらとはうまくいかなかったんだなと見当をつける。
「メシまだだろ? 一緒にどうかな。さっき通りで美味そうな店見かけたんだ」
は懐かしいと思った。そういえば昔はよく会社帰りに一緒に食事に行ったな、と。
でもそれは愛しさからではなく、すでににとって彼が過去の人間になっていたからだった。
「行こう」と少々強引に腕を取られ、は反射的に身を引いた。
こんなところ誰かに見られたらまた面倒だ。またあることないこと好き勝手言われる。
がそんな心配をしていたまさにそのタイミングで会社から出てきた仁王とバッチリ目が合ってしまう。
気まずさでが戸惑っていると、仁王は「待たせたの」と言ってに近づいてきた。
そして、元婚約者からの腕をさりげなく引き抜いて、自分の手との手を重ね合わせる。
どうかしたか? とを見る仁王の視線は甘さを含んでいて、思わずも一瞬自分は仁王と本当に付き合っていたんじゃないかと錯覚しそうなほどだった。
正気を取り戻したは状況を理解してすぐに仁王に合わせた。
「ごめんなさい」とだけ元恋人に毅然と告げ、仁王と手を繋いで寄り添ったまま、その場を立ち去る。
角を三つほど曲がってから立ち止まり、「ありがとうございました」と仁王の手を離して頭を下げた。
「なんで『ごめんなさい』?」
「いや、『ありがとうございます』って言いましたけど?」
「じゃなくて、さっき」
「ああ……。なんでだろう? 咄嗟に?」
「自分が悪いことしたわけじゃないのに謝るんはやめんしゃい。相手がつけあがる」
「ん〜……でも、相手に酷いことされても、自分が相手に酷いことしていい理由にはならないですよね?」
仁王は首を傾げた後、のことを鼻で笑った。
こいつ、バカだな。クソ真面目。と、でも思われたのだろうと予想する。
いつものことだ。
はコツンとパンプスの先で道端に落ちていた小石を蹴飛ばす。
その小石はコツッコツッと転がり、最後には川に落ちた。
会社の目の前に流れているこの川の名前をは知らない。知らないことに今気づいた。
「それにしても仁王さんってピンチのときに現れるヒーローみたいですよね」
は「助けられたのこれで二回目です」と仁王に改めて感謝の意を告げた。
あのときも仁王が来てくれてどんなに心強かったことか。
今日のことだって、無視もできる状況にも関わらず仁王はを助けてくれた。
仁王は良いひとだ。困ったひとをほっておけない優しいひと。
は急に思い立って「あっ! ちょっと、ここで待っててください!」と仁王を残してその場を離れた。
そして、両手にコーヒーを持って戻ってくる。
「ホットかアイスか迷ったんですけど、仁王さんアイス飲んでるの見たことなかったんでホット買ってきました」
どうぞ、と言ってはコーヒーを一つ、仁王に差し出した。
この蒸し暑い中、橋にもたれながら並んで熱いコーヒーをすする。
いつもはただ通りすぎるだけの川をじっくり眺めた。
車のタイヤがアスファルトを擦る音で水が流れる音はほとんど耳には届かないが、キラキラとした水面を眺めているだけでもだいぶ気持ちが落ち着いた。美しいものを美しいと思える心が自分にあることにはほっとする。まだ限界じゃない。そこがのボーダーラインだった。
は鼻歌で『海』のメロディーラインをなぞる。
「なんで『海』?」
「だってこの川も辿れば大阪湾で、太平洋で、そしていずれはよその国」
「どっか遠くにでも行きたいんか?」と仁王に訊かれて、は考えてみた。
かつて強烈に抱いていた“どこかへ行きたい”という気持ちはもう消えていた。結局は自分が変わらない限りどこへ行っても同じだということに気づいてしまったからだ。
「旅行、行きたいな。もうしばらくどこにも行ってないんですよね。最後に行ったのは大学の卒業旅行かな」
「また行きたいな」と呟いたあと、「仁王さんはどこか行きたいところとかありますか?」と話を振ってみる。
しかし、「特にないの」と言われてあっさり会話は終了。
気づけば二人ともカップは空になっていた。「そろそろ行きましょうか」とは飲み終わったカップを仁王の分まで受け取ろうと手を差し出した。
ところが、仁王のカップは一度の手に触れると、次の瞬間消え失せた。が驚いているうちに左手にあったはずの自分カップまで消えてさらに驚く。
ニヤリと笑った仁王がくるっと手のひらを返すとの目の前に二つ重なったカップが現れた。
「お前、家出したことあるか?」
「へ?」
「俺は自転車漕いで四国から本州に渡ったことがある」
突然の手品と脈略のない話には頭が着いていかず、「んんん?」と間抜けな顔になる。
「あんとき、俺はこの自転車があれば自分はどこへだって好きに行けるって気づいた」
「七歳のときじゃったかの」と言われて、は驚きのあまり古典漫画のようにゴホゴホッと咳き込んだ。
たかだか七歳の子供が家出をすることにも驚いたが、そのスケールの大きさにも驚く。
同じ頃のは広いリビングテーブルでぽつんと独りで夕食を食べるような子供だった。
家族に構ってもらえなくても家出なんか考えたこともない。家族にすら見向きもされない自分が他人に構ってもらえるはずがないと思っていた孤独な少女。
自転車一つでどこへだって好きに行けると思えた七歳の仁王がにはとても眩しく思えた。
「仁王さん、このあと少し時間ありますか?」
仁王が「なんじゃ、夜の誘いか?」とニヤニヤと笑うので、は「違います」と笑って答える。
「ちょっと買い物に付き合ってほしいんです」
ほんの少しだけ青山通り雰囲気を匂わす御堂筋。
はほとんど思いつきでその中にある高級ブランドの店に入った。
たぶんその場の勢いでもなければ来られなかった場所だ。
は内心バクバクいっているひ弱な心臓を隠し、しれっとした様子で店内を見渡す。
目当てのものはすぐに見つかった。けれど、それをすぐ手に取る勇気はなく、店内を意味もなくうろついたあと、やっと黒いパンツスーツの店員に声をかけた。
「あのバッグ見せてもらっていいですか?」
店員に「はい、もちろん」と笑顔で対応され、は初めて商品に手を触れた。
思っていたよりずっと軽い。見れば見るほどディテールの美しさにため息が出そうになる。
自然を美しいと思う以上に、はひとが創った美しいものが好きだった。
は決心が揺るがないうちに「コレください」と一息で言い切った。
店を出ると、仁王が「随分散財したの」とケタケタと笑った。
これではこの前貰ったばかりの賞与がほとんど吹っ飛んでしまったわけだが後悔はなかった。
夏季休暇にはこの鞄を持って旅行へ行こう。
——どこへだって好きに行ける。
は仁王の言葉をその新しい鞄に大事にそっとしまった。