別に大した人生を送ってきたつもりはない。自分のこれまでの半生を振り返っても仁王はそう思う。
確かに、高校生の頃、社会人の女と付き合って勝手に貢がれたことがあったり、特定の相手がいないときは身体だけの関係を楽しんだりした経験もある。
けれど、それはそれだけで物語になるような特異性を含んだものではなかった。
ただつまらない日常にちょっとスパイスを加えるような、仁王にとってはそんな気ままなものだった。
仁王が佐々原美森と出会ったのはまだ仁王が東京の本社勤務だった頃のことだ。
スタンドヘヴンは入社してすぐ一年間かけて徹底的に研修を受けさせる。
特に新卒は一通りの部署を経験させられるのでとてもハードだ。
部署が変わるごとに仕事を覚え直さなくてはならないほかそれに付随する人間関係にも気を配らなくてはならないのだから、心休まる日もなく例外なく皆グロッキーになるのが当たり前だった。
そんな研修も後半戦。心身共疲弊している研修生が多いなか、佐々原はどこか涼しい顔で仁王のいる技術開発部にやってきた。
佐々原はその年の研修生の中でも優秀な部類の人間だったが、仕事に対する情熱はあまり感じられず、先輩や上司が仕事をしていようと自分の仕事が終われば躊躇いもなく定時であがるような人間だった。
なかなか可愛い顔をしているのに微塵も愛想がないところも周りから不評を集めている要因なのだろう。
そんな佐々原に同情心が芽生え……なんてことも起きず、仁王と佐々原は一言も交わさぬまま、佐々原は次の部署に移動していった。
仁王が佐々原の笑顔をはじめて見たのは佐々原が移動になって数日後のことだった。
場所は会社ではない。新宿の路上。通りを挟んだ向こう側に笑顔で男に手を振る佐々原がいた。
バックにあるネオン、ケバケバしいドレス、佐々原がなにをしているかは一目瞭然だった。
仁王は次の日会社の廊下で佐々原に呼び止められた。
「バラしますか?」
端的に発せられた言葉に感情は滲んでいなかった。
よく見れば本当に血が通ってるのか不思議なるほど白い肌は少し荒れていた。
「どうするとしようかのう」
なんて言ったのは相手の気を惹くためだ。
このときすでに仁王は佐々原に興味が湧いていた。
興味、そう最初はそんな程度の気持ちだった。
佐々原をはじめて抱いた夜、佐々原は「あと何回寝たら言わないって約束してくれますか?」と呟いた。
そのとき佐々原は仁王に背を向けて下着を付け直しているところだったので、仁王から佐々原の表情は見えなかった。
「あと何回寝たらお前さんは俺を好きになる?」
そう言って後ろからすっぽり覆うように抱きしめようとしたら、「馬鹿にしないでっ!」と叩かれた頬は痛かった。
そんなことがあったにも関わらず仁王は懲りずに佐々原に構い続けた。
フラフラと気まぐれに、でもときに「会いたい」と言ってみたりなんかして仁王は佐々原を揺さぶった。
佐々原はついに「他人の気持ち弄んで楽しいですか?」と仁王に泣いて詰め寄るまで追い詰められた。
「キャバクラで働いてるなら簡単にヤらせてくれると思いました?」
「思ってない」
「好きなふりすればどんな女も自分に靡くとでも思ってます?」
「思ってない」
言いがかりをつけながら、佐々原は「もうバラしてもいいから、ほっておいて」と仁王を全力で拒絶した。
「こんな面倒なことしなくても他に女なんていくらでもいるでしょう」と訊かれ、「俺はお前さんがええんじゃ」と答えてやれば、佐々原は泣きだした。
ほどなくして二人は一緒に住み始めた。
そうすることになんの疑問を抱かぬほど一緒にいるのが当たり前になっていた。
佐々原は相変わらずアンドロイドばりの鉄仮面だが、その中に微細なバリエーションがあることを仁王は判別できつつあった。
台所で虫を見つけて佐々原が悲鳴をあげたのを聞きつけて、仁王が退治したあとに無表情で言った「ありがとう」、これは照れ隠し。
こちらの顔を見ることなく訊く「まだ寝ないの?」は「一緒に寝たい」という佐々原なりの甘え方。
〈電話してこないで。お金はもう渡せない〉
電話口で誰かにそんなことを言っている佐々原を偶然見てしまった仁王が「どうかしたんか?」と訊くと「なんでもない」とそっけなく返された。
これは、たぶん「なにも聞かないで」という意味で、仁王はそれを尊重した。誰にだって触れられたくないことはあるはずだ、と。
昼夜問わず度々かかってくる電話の相手はおそらく佐々原の家族からだった。
仁王は佐々原が夜の仕事をしていた理由になんとなく見当がついた。
けれど、佐々原は仁王と暮らすようになって夜の仕事は辞めていた。働きづめで血色を失っていた頬はだいぶマシになっていたし、ほんの少しだけ太って抱き心地が良くなったような気もする。
仁王にとってそれで十分だった。
大きな思い間違いをしていたことに仁王が気づいたのはすべてが悪い方へことが進み始めたあとだった。
最初に気づいたのは電話の量だ。かかってくる頻度が一気に増えた。
電話攻撃はすぐに一旦落ち着いたが、佐々原の帰りが遅くなることが増え、休日すらままならなくなった。
また副職でもはじめたのかと訊けば「違う」と答える佐々原の首に自分はつけた覚えのない痣を見つけて仁王はなんとなく悟った。
「もっと羽振りのいい男がよくなったんだったら早言いんしゃい」
自分でもドキリとするくらい冷たく低い声になった。
なんの言い訳もせず、目の前で荷物をまとめはじめた佐々原を見下ろす。
最後に一度だけこちらを振り向いた佐々原を仁王は呼び止めなかった。
それで終わり。
そのあとすぐに仁王は大阪支店への転勤が決まった。
ときを同じくして仁王が人事部長の女に手を出して左遷されたという噂が社内でまことしやかに広がった。
仁王は佐々原と暮らした狭いアパートをさっさと引き払い、身軽なままなんの躊躇いもなく大阪の地を踏んだ。
◇◆◇
あのときと同じだ、と仁王は思う。
噂というのは山火事のようにあっという間に広がる。
バケツで水をかけたって鎮火するわけがない。
総務の新入社員の男が同じく総務の金色小春にセクハラを受けたと訴えているという噂は瞬く間に大阪支店中に広まっていた。
「なんでやねん! なんで小春が辞めなあかんねん! アイツが嘘言うてるって言うとるやろ!」
出社早々休憩室で煙草をふかしているとデザイン部の方から怒声が聞こえてきた。
たまたまとなりにいたがハッとして買ったコーヒーも持たずにデザイン部に駆けていったので、仁王も好奇心でついて行く。
「知らんがな。それに辞表を出したのは金色くんの方かららしいで」
「嘘や! 俺はそんな話これっぽっちも聞いてへん!」
「それこそ知らんがな」
デザイン部の部長と不毛なやりとりをしていたのはデザイン部の一氏ユウジだ。
は一氏と部長のあいだに入り、「落ち着いてください」と一氏を宥めている。
「部長に噛み付いてもなんにもなりませんよ」
「ほな誰に噛み付けばええねん! 総務か? もっと上か? 本社でもなんでも小春のためやったら何処へでも行ったるわ!!」
熱り立つ一氏に「とりあえず急ぎの仕事はありますか?」と努めて冷静にが訊いた。
「仕事? ふざけんなや! こんなときに仕事なんかしとる場合か!!」
「それじゃあ周りのひとが迷惑します」
「お前それでも小春の友達か! 小春が友達のおらんお前をどんだけ面倒見とったと思ってんねん! 恩を仇で返す気か!」
「それとこれとは話が別です。いいから、今日中にしめきりがある仕事はありますか?」
「せやから、」と反論しかけた一氏に、「仕事があるんだったら私が全部代わります。ないんだったらこんなとこでぐずぐずしてないで早く小春ちゃんのとこに行ってあげてください!」とにしては珍しく大きな声を出した。
「お前……」
一氏はハッとなにかに気づいた様子でを見た。そして、——
「お前、もしかして俺のこと好きなんか?」
「馬鹿じゃないのっ!」とキレたがそのまま問答無用で一氏をデザイン部から追い出した。
そして、一氏を見送ったあと、はさもなんでもなかったようなフリをして自分のデスクにつく。
の気迫に押されて黙っていた面々も気まずそうにそれぞれの席へ戻ってなんとか平常を取り戻そうと動き出した。
仁王はおかしくなってつい笑いそうになってしまった。
この状況にじゃない。ありえない想像が自分の頭に浮かんだからだ。
もし、佐々原が仁王の部屋を出て行ったとき、自分の近くにのような人間がいてさっきみたいに自分の尻を叩いてくれていたら——
「朝からお疲れさん」
そう言って仁王はさっきが置いていったコーヒーをに手渡した。
が「ありがとうございます」と言ってそれに口をつける。口紅がカップの縁に移ったのをじっとみつめる。
「なにか用ですか?」
仁王の視線に気づいたが側らに立つ仁王を不審そうに見上げた。
自分の考えを簡単には曲げなそうな意思の強い眼をしていた。それが少しだけ佐々原を思い出させる。
仁王はあのときおそらく寂しかったのだ。佐々原が金に困ってるにしろ、他のことで困ってるにしろ、恋人である仁王になんの相談もなく全部自分で解決しようとしたことが。だから、自分の不甲斐なさを棚に上げて相手を突き放した。
佐々原を失った過去をやりなおしたい、と願うくらいに仁王は佐々原のことが好きだった。好きだったから、腹が立って追わなかった。追わなくて後悔しているから、今もなお佐々原を忘れきれずにいるのだろう。
けど、その過去がなければ今こうしてにコーヒーを手渡す自分はここにいなかったんだな、と思うと不思議な気持ちなった。
燻って滞っていた空気が今開いた窓からスーッと抜けるような——
「あんなええ女じゃったかの」
誰もいない廊下で仁王は楽しそうにつぶやいた。