出入口付近の端の席に腰を下ろそうとしているのをめざとく見つけた丸井が周りの目なんて御構いなしに「おい、、なんでお前そんな隅っこで飲もうとしてんだよ」とを手招きで呼び寄せた。
一瞬、ほんの一瞬、白石と目が合ったような気がしたが、そう確信が持てる前にの方から視線をそらし、道を譲ってもらうようにしながら丸井のとなりの席まで辿りつく。切原が後輩らしく一杯目の注文を取りまとめていたので、は自分の注文もそこに滑り込ませた。
 今夜は丸井の送別会だ。
営業部長の乾杯の挨拶が終わると宴会が始まる。
 昔ながらの居酒屋といった感じの店内の壁には手書きのお品書きが貼りめぐらされていた。
 「コレ、めちゃくちゃうまいから食えよ」と丸井が勧めてくれたポテトサラダは和え衣のマヨネーズの配合が少なめでその代わりに山椒の辛味が効いていた。

「丸井さんいなくなると寂しくなりますね」
「そうだろいって、赤也テメ、白々しいこと言ってんじゃねぇぞ」

「いやいやマジで。ね」とニヤニヤした切原が同意を求めてきたので、は反応に困る。

「つーか、俺、てっきり二人はいい感じなのかと思ってたんスけど違うんスか?」

 が答えに困っているとすかさず丸井が「バァーカ」と言ってメニューで切原の頭を叩いた。

「俺がに仕事回してたのは、こいつがちゃんとクライアントの意向を汲めて、利益に見合った仕事をしてたからだっつーの」

 丸井は「私情で仕事してたらいつまでたっても営業ナンバーワンなんかなれねぇぞ」と活を入れるように切原の頭をメニューでもう一度叩いた。

「相変わらず仲良いですね」
「まぁ、コイツのことは学生の頃から知ってっからな」
「へぇ、そうだったんですね」
「そ。大学の部活の後輩。時期はギリギリ被ってねぇけど、ま、付き合いでいろいろ面倒見てやってんの」
「あざっース」

「ちなみにコイツとは高校の同級生」と丸井が向かいの仁王を指して、仁王が「ピヨ」と鳴いた。
 仁王は基本的に誰かと連んでいるイメージがないなかで、丸井とだけは自然体で接しているようにみえたので、は常々二人の関係を不思議に思っていたのだが、その疑問がここにきてようやっと解けた。
“クラスメイト”。彼らの付かず離れずの関係性はまさにそれだった。

「俺も丸井さんもテニス、結構強いんスよ!」
「テニサー?」
「サークルじゃねぇよ、部活。高校の頃もそれなりに。な、仁王」
「プリ」
「えっ、仁王さんもテニス部? 切原くんと丸井さんはなんとなく想像つくけど、仁王さんがテニスって全然イメージ沸かないんですけど」
「プピナッチョ」

 そういえば、謙也と財前も子どもの頃テニスクラブで知り合ったと言っていたし、謙也と白石は高校生の頃同じテニス部だと言っていた。
なんの因果だろうかと、は少し可笑しく思った。

「『手塚ゾーン』とかやりましやよねぇ」
「そうそう! 『スネイク』とかな!」
「なんですかそれ?」
「知らね? 中学生くらいのときさ、流行ってたテニス漫画に出てくる技の名前。とりあえず試すんだけどさ、絶対できねぇの。そんで先生とか先輩に怒られるまでがテンプレ」

 テニスのことはまるでわからないだが、テニス談義で盛り上がる丸井や切原の話しを聞いているのは単純に面白かった。
は自分でも今日の自分はよく笑っている、いや、はしゃいでいるな、という自覚はあった。酒の進みもそれに釣られるて早くなる。
切原が「さんって笑い上戸なんすスね」と言うので、は「そうかな」と笑っておいた。
 少し離れたところから甘えた声がする。
 は目の前のジョッキグラスをぐっと煽った。その飲みっぷりを切原が褒め、丸井が「大丈夫かよ」と心配する。
本当は、「白石さん」と呼ぶ女の子の声が聞こえてくるたびに、は振り向いて今まさに白石がどのように応えているのか確かめたくてしょうがなくなるのを懸命に堪えていた。
けれど、そんな努力を嘲笑うかのごとく、が丸井たちとの会話にどんなに集中しようとしても、酒をどんなに飲もうとも、意思に反して意識はどうしようもなく白石に惹きつけられていた。
 失礼な話だが、はずっと白石はモテないと思っていた。
職場の女たちからの評価は「顔も声もパーフェクトやし、仕事もできるんやけどねぇ……」で、そのあとに続く曖昧な笑がすべてを物語っていた。
正直、もつい最近まで同じように思っていたし、特に気にしていなかったというのが本音だ。
だが、気にし出してはじめてわかったことがある。
白石は普通にモテる、というなんの意外性もない事実だ。
今だって、白石のとなりに座っている今年入ってきた総務の女の子は完全に白石に媚を売っているし、一つ向こうのテーブルで固まって座っているデザイン部の同僚たちの視線も白石とその総務の女の子をチラチラ見ていることがわかる。
「イケメンなんは認めるけど、イケメンすぎて逆に現実味ないもんなぁ」と、笑っていた女たちの本心がにもやっとわかった。
要は“だからみんな手を出すべからず”という不文律だったのだ。白石をめぐる争いはが気づかないところで今までもずっと水面下で行われていたことなのだろう。
が疎かっただけなのだ。
 一軒目がお開きになり、多くが二軒目へ向かう流れになる。
がどうしようかと迷っていると、携帯が着信を知らせた。登録のない番号だ。
仕事の電話かもしれないので、一応受けることにする。
はさっと二軒目へ向かう流れから離れようとしたところでそれに気づいた丸井がヒラヒラと余裕の笑みでに別れを告げた。
 丸井には、「東京へは一緒に帰るれません」と昨日伝えてあった。

〈もしもし〉

 高い女の声だった。

〈お姉ちゃん?〉

 そう呼ばれてはじめては相手が自分の妹であることがわかる。
〈番号、お母さんに聞いたんだ〉と言われて、自分の携帯番号を妹に教えていなかったことにはじめて気が付いた。

〈どうしたの?〉
〈引っ越しがやっと落ち着いたの。せっかく同じ大阪に住んでるんだから、今度一緒にランチでもどうかな? って〉

 は〈そうだね〉と返事を曖昧にして、なんとかその場をやり過ごした。
 の同性嫌いは妹にまで発動するのだから厄介だ。
 電話を切って、フゥと肩の力を抜く。そこで不意に「大丈夫か?」と後ろから声をかけられて、驚いたは思わず携帯を落としてしまった。
その落とした携帯をに声をかけた人物が拾い上げて差し出してくれる。
の目の前には白石があの夜と同じようにひとりで立っていた。なんならネクタイすらあの夜と同じもので、そんなことを今だに覚えている自分には驚いて、そして呆れた。

「……どうしたんですか?」

 一番最初に湧き上がった感情は紛れもなく嬉しさなのに、はそれを悟られたくなくて、逆に素っ気無い態度になる。

「いや、それはこっちの台詞やろ。また酔うとるんやないかって心配したんやで」

 それでわざわざのために引き返してきてくれたのだろうか。
今自分に向けられている優しさが単なる同僚としてのものなのか、それ以上のなにかを含むものなのか。それをなんとか見極めようと心の目を凝らしてみても期待が邪魔してには判別がつかない。
「大丈夫か?」と心配してくれる白石は悔しいくらいいつも通りで、それがを余計にもどかしくさせた。
 白石には嫌われていると思っていたし、それならそれでしょうがない、とも思っていた。
なのにこんな中途半端な扱いをされれば混乱するに決まっている。
どっちつかずの曖昧な中間地点グレーを楽しめない潔癖さがの弱点だ。

「大丈夫なんで白石さんは戻ってください。この間みたいなことしたいだけなら、なおさら戻った方が効率いいですよ」

 だから、そんな試すような言葉がの口から出てきてしまった。
言ってからもちろん後悔したがもう遅い。
なにをやっているのだろう。でも、同時にどうにでもなれ、という気分にもなった。
にとって自棄になって他人に当たるなどこれまでになかったことだ。
白石といるの自分が自分の知っているこれまでの自分ではなくなるような気がして恐ろしくなる。
逃げたい、と思ったのは本能に近い。
けれど、が白石に背を向けようとした瞬間、白石の左手がの手首をそこにはめられている腕時計ごと掴んで、それを許さなかった。

「……それ本気で言うとるん?」

 は答える代わりに「放してください」とほとんど消え入りそうな声で訴えた。
白石を怒らせてしまった。さらに嫌われてしまった。そう思うだけで涙が溢れそうになる。
 白石はの訴えを聞きいれてくれないどころか、の目をしっかりと見て「放してほしいんやったら、自分で振りほどいてや」などとを追い詰めた。
振りほどけないほどの力で掴まれていたわけではないのに、はそこから動けなかった。いや、意思を持って動かなかった。
白石の言う通りにするのは癪だとさえ感じ、強い反抗心が芽生えはじめていた。
チェスボードを挟んだ対戦相手同士さながら互いが互いの手の内を視線だけで探ろうとしているのがわかる。
互いに一歩も引かずといった張り詰めた空気を破ったのは、白石でもなくでもなかった。
 先ほどまでたちがいた居酒屋から酔いが深そうな団体がどっと出てきた。
白石が咄嗟にを庇うようにさりげなく路肩に避ける。
騒がしさが遠のくのを無言で待っているあいだ、は自分の腰にそっと添えられた手と未だ握られたままの手を順番に見ていた。
意地を張らなければ、素直になれば、信じることができれば、この手を握り返すことができれば——失うものより得るものの方が大きいんじゃないか。
 は意を決して恐る恐る言葉を選んだ。

「……私、白石さんに嫌われてると思ってたんですけど、……違うんですか?」
「なんでや? それはこっちの台詞やろ!?」
「“酔ったら誰とでもする女”って、私のこと軽蔑してるんだと思ってました」
「軽蔑なんてしてへんで。それより、そっちこそ、“好きでもない子平気で抱ける男”って俺のこと誤解したままやろ?」

 まだ納得のいかないが「でも、キスはしてくれなかったじゃないですか」といじけた子供のように食い下がれば、案の定白石は怪訝な顔をなる。
 だって自分が馬鹿なことにこだわっている自覚は重々あった。
嘔吐した直後にキスなんてする気にならないのもわかる。
わかるが、あの夜はそんなこと気にするのもおかしなくらいの密度で自分たちは交わっていたはずだとも思う。
シャワーも浴びずに全身の匂いを嗅がれ、隅々にいたるまで舐められ、そして身体の内側をくまなく撫でられた。
そうしているあいだに何度も目があって引き寄せられるように唇が近づいたのに、済んでのところでかわされたのは一度ではなかった。
それがのなけなしの女のプライドを傷つけたのだ。
はきっとそのことをずっと怒っていた。それがもやもやの原因だ。今はっきりと自覚した。

「いや、あれは……。前に聞いたことあってん。女の子は好きでもない男とセックスはできても、キスはしたないって。せやから、我慢しなあかんかなって……」

 白石の答えに今度はは呆れる番だった。
気遣いができるんだかできなんだか。

「なぁ、俺らもういっぺんはじめからやり直されへん?」

 身体からはじまった関係がどういう道筋を辿ってどういう結末に至るのか。経験の乏しいにはわからなかったが、今はこんな風にはじまる恋もあってほしいと願う自分の気持ちだけで充分だと思うことにした。
 恋はいつだって自分の中だけにあるものだ。
逆に自分の中にさえあれば、恋は成立してしまうほど危ういものであることを再認識する。

「今日はキスしてもええちゅうことやんな?」

 あの夜と同じホテルの同じ部屋で、は「はい」と言いかけて慌ててストップをかけた。「あ、シャワー」と応えて、白石の腕から逃れようとする。
しかし、白石は「ええやん」と言いくるめて、の身体をやんわりと抱きなおした。
駄目押しとばかりに欲を孕んだ瞳で「ええやろ?」と囁かれ、はまるで操られたかのように頷いてしまった。
 白石はそれはそれは愛おしそうに目を細めて、ゆっくりと時間をかけてにはじめてのキスをした。
そして、それはふたりのこれからがはじまる合図になった。