テーブルの上に置いてあった本に目が止まった。有名な作家の著書だったので、それがミステリー小説であることはページをめくらずともわかる。
の指がつるりと光るその表紙に触れようとしたとき、キッチンから声がした。
「酒、なにがええ?」
「なんでもいいですよ」
「せやったら、チーズリゾットやし、赤出すか」という白石の手伝いをするためにもキッチンへ行く。
白石は赤ワインとワイングラスを二つ棚から下ろし、に手渡した。そのついでにの唇にキスをする。
「もああゆうん読むん?」
白石はフライパンを器用に振りながら、テーブルの上にある本に視線を向けた。
「読みますよ。意外ですか?」
「せやな。どっちかっちゅうともっと抽象的な……詩とか純文学とか読んどるイメージやな。『サラダ記念日』的な」
「そういうのも読まないことはないですけど、普段はミステリーが多いですかね。白石さんこそ、もっとこう……自己啓発本とか読んでるタイプかと思ってました」
「いや、そういうのも読むで」
「あ、やっぱり」
「やっぱりってなんやねん。まぁ、せやけど、ミステリーの方が量は圧倒的に多いな。中学んときは『毒草聖書』ってタイトルの小説書いて学校新聞に載せとったんやで」
「んんん?」
「そういや未完のままやったからもっかい書いてみようかな」とふんふんひとりで頷きながら自分の世界に入っている白石をはこっそりやれやれといったてい笑った。
白石は少々変わっている。そのイメージは付き合ってからも覆ることはなかったし、それどころかさらに純度を増していた気がした。
「は子供の頃からミステリー好きやったん?」
「……そうですね」
「一緒やな。そういえば、小学校の頃、図書室で江戸川乱歩とか熱心に読んどったから友達とか家族からはよお気味悪がられてたわ」
は膝小僧を出した少年が図書室の椅子にきちんと座り、『少年探偵団』シリーズを真剣に読んでいる姿を思い浮かべた。
同級生に「何読んどるん? 怖ないん?」と訊かれても、白石少年は「怖いで。怖いのがええねん」と屈託なく答えてまた本の世界へ戻る。
図書室の隅には立ったまま『少年探偵団』シリーズを読んでいる少女もいた。幼い頃のだ。
けれど、少女は少年とは対照的に「なんでそんなの読んでいるの?」と訝しがる同級生に見つかるとすぐさまその本を本棚に戻してしまった。
同じ物語を同じよう好んでいてもきっと自分と白石とではこれまでまったく違う生き方をしてきたのだろうな——そんなことをぼんやり考えていたは「できたで。ごはんにしよか」という白石の声で現実に引き戻された。
週末は、白石の部屋で、白石が作った夕食を食べ、酒を飲み、身体を交わす。
あの二度目の夜以来、ふたりは逢瀬を重ねていた。
セックスは男の射精によって終了を告げられるものだと思い込んでいたの概念を鮮やかに覆したのは白石だ。
白石はセックスをコミュニケーションだと言った。
だから、どちらかが身勝手に終わらせていいものではない、とも。
だが、が「もうむり」と訴えたところで終わるようなこともなかったので、それはどうなんだと問えば、「せやけど“嫌”やないんやろ?」と見透かされてしまっていた。
今まで、にとって恋人とのセックスは、相手が望んでることをして自分をもっと好きになってもらう行為、もしくは嫌われないよにするための行為で、付き合っている以上こなさなければならない儀式のようなものだった。
喘いでいても身体の芯は冷えていて、恋人の身体の下で、あるいは腹の上で、「私は一体なにをやっているんだろう」と冷静に考えてしまうのがの悪い癖だった。
これまでのの恋はいわば完全に理性に手綱を握られた恋だった。
けれど、白石との付き合いは違った。
まず身体ありきだ。
はじまりはそこで、その他の理由はそのことに後ろめたさを感じてる自分が自分を納得させるために取ってつけた後付けだ。
白石に抱かれているとき、は意味のあることを深く考えられる余裕はなかった。
何度も何度も絶え間なく打ち寄せる快楽の波にの理性は手の届かぬ沖へと流されていく。
理性を手放す快楽をは白石から教えてもらった。
その快楽はまるで底なし沼で、たとえ深く潜ることがどんなに危険な行為であったとしても、白石となら一緒に溺れることすら恐怖ではなく興奮に変わるような気さえした。
怖いのは、この昏い沼の底で繋いだ手を突然離されることだ。
◇◆◇
そうして白石と濃密な時間を過ごしているあいだに妹からは三度の電話があった。再三の食事の誘いだ。
妹は仕事もしていないようで、新たな知り合いを大阪に作りづらい環境下にいたのだろう。
夫も仕事が忙しく、土日の休日もままならないと言っていた。
だから、とくに仲がいいわけでもなかった姉であるをこうもしつこく誘うのだ。
と妹の
子供の頃の七歳差は大きい。“一緒に遊ぶ”というよりの忍耐が試される場面の方が多く、仲が良い悪い以前の問題だった。
それに妹は母にべったりだった。
身体が弱く病気がちで入退院を繰り返して情緒不安定だったのかもしれない。
乳離しても、歩くようになっても、小学生になってもなお妹のお気に入りは母の腕の中だった。
今になって思えばの被害妄想だろうが、当時のはそんな妹が母に抱かれたまま勝ち誇ったような笑みを浮かべて自分を見下しているように思えてならなかったくらいだ。
「それでね、なんばの駅で三時間も迷子になっちゃったの。途中でスマホの電池は切れるし、光政さんには怒られるし、もう最悪」
結局は四度の目の電話に応じて、妹の誘いを承諾した。
一度会えばそれで気が済むだろうと考えたのだ。子供の頃は年齢が二人を隔てていたが、大人になった今はきっと性格の違いが二人を隔てることになるだろうと踏んでいた。
姉といてもたいして楽しくないとわかれば妹も納得してをほっておいてくれるに違いない。
は新婚の惚気にただただ控えめに相槌を打つことに徹した。
「それでそれで?」と煽ることもなく、「私はね」と自分の話を被せることもなく、今日は妹が満足するまで話を聞いてやろう、とは自分に言い聞かせる。
「お姉ちゃんは誰かいいひといないの?」という質問は想定していなかったわけではないけれど、はうまく答えられず、そのときばかりは「それで? そのとき光政さんはどうしたの?」などと妹の話の続きを促して誤魔化したが、それ以外はあたりさわりのない会話だった。
休日の昼時のカフェはやはり混んでいた。
「ここ行ってみたいの」と妹が提案してきた店は店内がアンティーク調のいかにもな作りで女同士やカップルのテーブルばかりだ。
たちのとなりのテーブルも空いた途端、すぐにまた新しい客が通された。
「おおっ!」という声が降ってきては顔を上げて固まった。
「え? お姉ちゃん知り合い?」
そう訊かれてもはなにも答えられなかった。
頭には“浮気”の文字がはっきりと浮んでいる。
目の前に立っている白石のとなりには緩く髪の毛を巻いた目鼻立ちがくっきりとした女の子が立っていた。
「くうちゃん知り合いなん?」
白石に向けられたはずのその質問に「会社の同僚です」と咄嗟に答えたのはだ。
の勢いに白石は驚いた様子ではあるが特になにも言わず、「同僚の白石です」との妹に挨拶してから、「妹やねん」ととなりの女の子をたちに紹介した。
「兄妹でショッピングデートなんて仲いいんですね」
「デートちゃうで。横からそのスカートは脚が冷えるだとか、そのトップスは露出多すぎやとか、セクハラばーっかり」
「セクハラってなんやねん。心配しとるだけやろ」
「ハイハイおおきに。そっちの二人は姉妹でランチ?」
「そうなんです。でも買い物も楽しそう。ね、お姉ちゃん、今度一緒に買い物にも行こうよ」
そのあともずっと会話のメインは妹同士だった。
きゃっきゃっとはしゃぐ二人は今日はじめて会ったとは思えないほどスピードで仲良くなり、会話が盛り上がる。
最終的には、デザートに頼むパンケーキをどれにするか一緒に悩み、それぞれ違う味を頼んで半分こにすると決めるまでに至っていた。
の妹は昔から社交的で友人も多かった。他人に壁を作りがちなとは違い、妹は愛嬌があって初対面の他人ともすぐに打ち解けられる。
はそんな妹が昔から羨ましかったが、今ほどそれを強く感じたことはなかった。
本来なら、恋人の妹と仲良くならなければならないのは自分の方ではないか。白石の目には今の自分はどう映っているだろうか。
もし、妹と比べられていたらと思うとコーヒーがうまく喉を通らない。
「いいなぁ、お姉ちゃん。あんなかっこいいひとと職場が一緒なんて」
白石たちと店の前で分かれたあと、「私もやっぱり働こっかなぁ」なんて夢見るように言った妹は電車を先に降りてこれから夕食の買い物をして旦那のために料理を作るらしい。
ランチがまだ胃に残っているはとてもじゃないが料理をする気分にはなれなかった。それも自分のためだけになんか絶対無理だ。
それより、明日からまた仕事かと思うと疲れがどっと増した。
目を閉じて、は白石のことを想う。けれど、思ったより気持ちは晴れなかった。